第1話 代償に右手を
神様、――ああ、神様。
俺はきっと地獄に堕ちるだろう。
だけど、この魂はどうか御許へ――
*
「エオン!」
名前を呼ばれて目を開けると、白い爪先が目に入った。
雪のように白いのは、それが石膏で出来ているからだ。
この国には掃いて捨てるほどいる神々、その中の一柱。名もなき女神の像。
右の手首から先を失くし、左手に身の丈よりも長い杖を持ち。
道に迷うものを導くといわれる神、その姿をかたどったといわれる女の立像。
それを爪先から、まろやかな曲線を描く脚、腰、胸、と辿るように見上げて、自分が呼ばれていたことを思い出す。
「――何だ」
問えば側近が簡潔に応じる。
「アルドがお呼びです」
「…今行く」
答えてから、もう一度、その白い顔を見上げた。
目の前に立つものを懐に迎え入れるように緩く開かれた両腕、伏せられた目、わずかに俯いた顔。
彼女に救いを求めて集う人間たちを包み込み、見守るように形作られた姿。
女神の立像にはありがちな構図。ありふれた形。
その姿を見るたびに思う。
彼女に問うてみたい。
あんたは代償に右手を差し出した。その代償は、高かったか? 安かったか?
呼びつけた主の私室へ向かいながら、庭に目をやる。
好い天気だ。
ついさっきまでいた礼拝堂の薄暗さに慣れた目が、鈍痛を訴えてくる。
高い壁に囲まれた屋敷の庭は、持主の稼業を覆い隠すかのように静謐な空気をたたえていた。山野を思わせるように配置された背の高い木に、薄紅色の小さな花が無数についている。
けれど自分は、その花が何という名前なのかも知らない。貧民窟上がりの成り上がりに、そんな洒落た知識の持ち合わせなんてない。
見るともなく舞い落ちる花びらを目で追っていると、「何か祈りごとでも?」と尋ねられた。
「俺がそんな人間に見えるか?」
鼻で笑って問い返せば「いえ、まったく」と戻される。
「けど、あちらによくいらっしゃるようなので」
礼拝堂は祈るための場所ですから、一応その可能性もあるかと思いまして。
そう、いけしゃあしゃあと言われて苦笑する。
「あそこには滅多に人が寄らねぇからな。静かで寝るのに丁度良いんだよ」
種を明かせば「罰あたりですね」と少し呆れたように評された。
けれど、この世界に身を置いていれば、神様なんてものが幻想だと毎日のように目の前に突きつけられているようなものだ。
そして、エオンのような立場になれば、それはさらに顕著になる。
裏社会を支配する幾つかの〈藩〉と呼ばれる組織、その中でもここ数年で急速に勢力を拡大している有力な〈藩〉――〈ケツァード・コラーハ〉。
エオンは、そこの副頭領だ。頭に次ぐ組織の二番目。
つまり、政治的影響力の大きい人間、と呼ばれる立場にある。それは例えば。
「そういえば、昨夜はいつお帰りに?」
「昨夜ってより今朝まで付き合わされたぜ、ジジイのくせに盛り過ぎだろ」
そんな風に――この国の最高指導者、国議会の議長をジジイ呼ばわりする態度はさておき、――その人の催す酒宴に招かれ歓待を受ける程度には、『表』においてもその地位と名前が力を持つものだと、知られている。
エオン自身にしてみれば、そんなことより睡眠時間を削られた現実のほうが余程苛立たしく、かつ、重要な問題なのだが。
その腹立ちは「誰があんなクズに国を任せたんだ」という愚痴になってこぼれたものの。
「そりゃあ、この国の『良識ある』人々でしょうよ」
側役の冷静な突っ込み――忌々しいことに事実以外の何物でもない――を聞いて盛大に顔を顰める破目になった。
――ああ、その通りだ。
その通りだからこそ、反吐が出る。
「良識ある」、「裕福な」、「表社会」で生きる人々。
彼らはエオンたちのことを都合の良い時だけ認識し、あとはないものとして黙殺する。
存在すること自体を否定された自分たちは社会の暗部、底辺、むしろ同じ側面に立つことさえ許されない、『裏側』。
そこは、光の射さない黒々とした影に包まれた、この国の闇そのもの。
「お呼びですか、アルド」
からりと障子戸を開き、寝椅子の上に長々と体を横たえた主に声をかける。
「また礼拝堂か?」
開口一番居場所を言い当てられて、エオンは空惚けた笑みを浮かべる。
「我が〈藩〉と、〈頭〉アルドの加護を祈ってました」
「目ェ開けたまま寝言言ってんじゃねぇぞ、馬鹿エオン」
胡乱な目つきでエオンを睨んだアルド――この〈藩〉で唯一エオンより上に立ち、エオンに命令を下すことが出来る男――が緩慢な動作で体を起こす。
「ぁあー…痛ぅー…」
掌で目を押さえるように頭を抱える姿は、エオンにとって馴染み深く分かりやすい。
「二日酔いですか」
「うぅー…」
「薬は」
「飲んだ…」
呻くような返事に軽く笑う。
「〈藩〉の頭が酒に弱いなんて、あんまり聞きませんよねぇ」
「弱くねぇよ、飲み過ぎただけで」
「余計悪いですよそれ」
「潰れてねぇんだから問題なし」
「どうだか」
肩をすくめ、思いついて廊下に控えていた人間に「何か食うもの持って来い。汁物だけでいい」と命じる。
「どうせ食べてないんでしょう?」
問いかけというよりは確認の意味で訊けば、是、と返答が返る。
「吐いたら勿体ねぇし」
その言い分に、くく、とエオンは喉を鳴らした。
「餓鬼の頃身につけた習慣てのは、そう簡単に抜けませんねぇ」
食うや食わずの生活から血反吐を吐く思いで這い上がった自分たちは、食べ物を捨てることが出来ない。無駄になると分かっていたら、食べることも出来やしないのだ。
「その厭味ったらしい敬語やめろ」
不機嫌を隠そうともしないアルドに、エオンは再度、く、と笑いをかみ殺した。
「…ひっでぇ八つ当たり」
それでも言葉を崩してやったのは、相手が本格的に拗ね始めると後が面倒だと知っているからだ。
ここでアルドと対等に喋れるのは、〈藩〉を作る以前から一緒にいたエオンだけ。そのエオンも普段は〈頭〉であるアルドを立てて、常に臣従の姿勢を崩さない。それがストレスになるのか、アルドは時々こうしてエオンを〈副頭〉ではなく、ただの幼馴染として扱う。
「うるせぇよ」
唇を尖らせてそっぽを向く姿は、不貞腐れた子供と同じ。昔から変わらないアルドの癖。
「ダッセェ」
肩を揺らして笑うと、アルドの肘の下にあったクッションが、顔面目がけて飛んで来る。それを片手で受け止め、エオンは廊下からの声に気づいて声を上げた。
「ああ、メシが来た。アルド、」
蓋付きの椀を乗せた膳を受け取り、エオンはそれをアルドへ運ぶ。
「食えそうか?」
「何とか」
「そりゃ良かった」
ちらりとこぼれた笑いは、二心とは無縁のもの。
「それはそうと。なんか用あったんだろ」
「ああ、」
椀の蓋を開けた瞬間ふわりと立ちのぼった匂いに、アルドが胸のムカつきを抑えるように、ぐっと眉根を寄せた。
「掃除屋を派遣してもらえたんでな。その報告」
「――へえ、」
その時、胸に去来したのは何だったか。
感慨。
そう、感慨、だ。「終に」? それとも、「ようやく」?
どちらとも言えない。どちらとも言える。
けれど、始まる。
ここから。
「〈教団〉の?」
「そう、〈ウェラル・ゼキト〉の」
「そりゃ凄いな」
「だろ? だから自慢しようと思ってな?」
にい、と笑った顔は悪戯が成功した子供のように無邪気に見えた。
それが、ただの仮面だと言うことを、互いに良く知っていたとしても。




