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Story.8 想いの過去




 三ヶ月前の、ある晴れた日。

 祐作と絢乃が初めて(まみ)えた、あの日。


 一週間前から親に『お見合いをするぞ』と一方的に取り決められ、言われるがままに服装と容姿を整えて待ち合わせのレストランへと向かった時、自分は何を考えていただろう。

 親の言うことなのだ、きっと今度もなんとかなるのだろう。そんな、安心感だったか。

 親の言うことなのだ、従うより他になかろう。そんな諦観だったか。

 どちらだったのか今はもう、思い出すことはできない。レストランで席に着き、テーブルの反対側に座る絢乃の姿を目にした瞬間、それまで考えていた事柄はすべて頭から吹き飛んでしまったから。

物静かな絢乃は祐作が着席しても何も言わず、まるで羞じらうように顔すら上げようとしなかった。祐作の親が何を問いかけても、必要最低限以上の言葉を発しようとはしなかった。祐作と目が合うたび、二人はどちらからとなく目線を外した。

 思えばあの時から、絢乃は綺麗な人だった。容姿だけではない、纏う雰囲気も時折垣間見える表情も、ただ『綺麗』としか表現のしようがなかった。ずっと目で捉えていたかったけれど、無言で注視されたら絢乃に不快感を与えてしまいそうで、結局祐作もずっと顔を膝に向けたまま、絢乃のことはたまに上目遣いで見るばかりであった。

 一衛星都市に過ぎないとは言え、祝日の昼時になれば駅前のレストランはそれなりに混雑する。駅直結の大型デパートで買い物を済ませてきたらしい集団や、近くの科学館までこれから遊びに行くらしい家族連れ。賑やかな店内の中で、沈黙の目立つ祐作と絢乃の存在は明らかに異質で、だからこそ──不思議な縁というか同族意識のようなものを、絢乃との間に感じたものだった。


 あれから何度か、二人きりで会った。一度は同じこの駅前のカフェで、一度は旧市役所の敷地に隣接して建っている市民ホールのガレリアで、一度は市の南の端にある大きな都立公園の一角で。別に遊ぶわけでもなく、もちろんいちゃいちゃとすることもなく、どれも三時間ほど飲み物を啜りながら会話を交わすだけのデートであった。

 出掛ける先がこの通り地味だったからかもしれない。いつ会っても絢乃はやはり綺麗で、魅力的で、だからこそ祐作のような人間ではとても触れることができないように思われた。その身体にも、その心にも。

 絢乃の本心を一度も聞いたことがなかったのは、きっと、そのせいだったのだ。

 絢乃と結ばれるなら、自分は幸せだ。だが、自分と会っている間、絢乃は一度も嬉しそうにしてくれたことがない。つまり自分と結婚することは、絢乃の本意ではないのに違いない。めったに笑顔を浮かべてくれない絢乃を前に、交際経験の乏しい祐作がそう判断してしまうのは、決して無理のないことであった。

 本意でもない相手に触れられたら、絢乃は嫌がるだろう。だから触れない。手を繋ぐのも、心をさらけ出すのも、本意の相手とすべきことであって自分とするべきじゃない。

 本音がどうであろうが、自分に絢乃を想う権利はない。なぜなら絢乃から想われていないからだ。絢乃の心を捕まえられるほど、自分に魅力なんてないからだ。こんな、誰かに敷かれたレールの上を進むことしかできない、新たな道を進んでゆける自信の持てない自分になんて──。

 思えば、祐作の頭を無意識のうちに支配していたのは、そんな強迫観念にも似た決め付けだったのだ。




 ──けれどもしも、本音を口にしていいのなら。

 あの時、言ってやりたかった。


 『絢乃さんは、綺麗だよ』と。



    ◆



 雨が、止んだ。


 砂の流れるような音はどこかへ消えて、今はぽたん、ぽたんと滴が落ちる音が、あちらこちらから大屋根下の空間に響いてきている。

 祐作は気付かないふりをしていた。雨が止んでいるのに気付かなかった、だからまだ絢乃を抱き締めている。自分にそんな言い訳をするために。

「苦しく、ない?」

 無言でいるのが怖くて、そう訊いてみた。絢乃は首を横に振った。自分より背の低い絢乃の仕草は、どれをとっても無性に可愛かった。

「苦しく、ないですか」

 絢乃が尋ねてきた。その声色も、控えめで大人しい言葉遣いも、今の祐作にはどうしようもなく愛しかった。

 今、はっきりと悟った。いや思い出した。祐作はやっぱり絢乃のことが好きだったのだ。自分が惨めに思えるほど、自分なんて不釣り合いだと感じてしまうほど、絢乃の魅力に気付いてしまっていたのだ。

「大丈夫だよ」

 優しい声でそう答えた。優しいというより、甘ったるい声のように聞こえた。

 気持ちが大きくなってきているのが、自分でも分かる。きっと絢乃さんに触れているからだろうな、と思った。自分で自分に課した禁を、祐作は現在進行形ですでに一つ破ってしまっている。あと一つもついでに破ってしまえ、とばかりに気が大きくなっている。

 今しか言えない。言ってしまった結果、曖昧なままで保たれている二人の今の関係が破壊されてしまったとしても、構わなかった。

 今ここで言うことができなかったら、もう二度と、チャンスは訪れないのだから。



「……いつまで、こうしていていいのかな」

 祐作はぽつりと、そう問うた。高い天井に反響した自分の声は聞こえたけれど、絢乃からの返事は聞こえなかった。

 それでもいい。問いかけるのが目的ではなかったのだから。

「前にも話したかもしれないけど、僕、今まで何一つとして恋愛を経験したことがなくてさ……。こういうのの止め時、分からないんだ。どのくらいなら絢乃さんが痛みを感じないで済むのかの力加減さえ、情けないことに、全く分からなくて」

 言いながら、肩に回した腕の力を強くする。

「だけどさ。今、たった一つだけ分かったことがあるんだ。気になる人に触れるのが、こんなに温かくて、こんなに幸せで、こんなに嬉しいんだって……」

 絢乃の肩に、僅かな震えが走った。

「こんな僕にもまっとうに誰かを想える心があったんだって、初めて気付いたよ。──絢乃さん、君は綺麗だ。すっごく綺麗だ。世界中できっと誰よりも綺麗だ。その絢乃さんをこうして抱き締めていられる僕は、世界一の幸福者(しあわせもの)で、でも……世界一の身のほど知らずなんだと思う」

 語り続ける祐作の肩も、震えていた。情けなくて、恥ずかしくて、心の叫びを口にしながら祐作は秘かに、じわりと染みの浮かんだ目元を拭った。

「どうしてこんなに、自分に自信が持てないんだろう。どうして素直に、自分の気持ちを肯定してやれないんだろう。ずっと知りたかった。だけど誰も、答えを教えてはくれなかったよ。今だってそうだ。心の奥で絢乃さんがどう思っているのか、僕には何も見えない……。まるで、梅雨の霧雨の中に立ち尽くして、その向こうに佇んでいる絢乃さんを見ているみたいに……」


 思わず嗚咽が漏れかかって、そこで言葉が途切れてしまった。







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