Story.7 抱擁の温もり
もう、いいのだ。
覚悟は決まった。明日、両親に告げよう。この結婚の話は、なかったことにしてほしいと。
両親はきっと悲しむだろう。或いは怒るかもしれない。それでも構わなかった。自分自身の、そして絢乃の気持ちを無視することだけは、祐作にはどうしても、どうしてもできそうにない。
このまま『永遠の契り』を交わしたところで、きっとお互いに後悔するだけだ。この人ならば心から愛せると思える、そういう相手とでなければ、愛の誓いを立てることはなんの意味も持たなくなってしまう。それは結婚というもの、そして愛情というものに対する冒涜だ。
どうせこの場で別れるのならば、何をしたって構うものか。嫌われるのなら嫌われてしまえばいい。ただ、この瞬間の寒さと冷たさから、華奢で小さな絢乃の身体を守ってやりたい。与えられ示された道を歩き続けたおかげで、安堵の温もりだけは確かに会得している自分に、してあげられのはそのくらいしかない。
不意に沸き起こったそんな衝動が、祐作の足を、腕を動かしたのだった。
絢乃からの抵抗はなかった。
初め、びっしょりと湿ったワンピースからは、氷のような冷たさが祐作の腕へと染み込んだ。怯んだ拍子に腕から力が抜けかけたが、祐作は意地でも絢乃を離そうとしなかった。もはや、祐作の方が絢乃にしがみついていると表現する方が正しいように思えるほどだった。
やがて、肌の上で蠢く悪寒の中に、ぼうと浮かぶように温もりが感じられ始めた。触れた場所から力を失ってしまいそうになる、柔らかで穏やかなその温もりは、冷たい感覚を払い除けるように追い出して、祐作の腕に張り巡らされた感覚点をすっかり占領した。
冷えきった腕が、伝わった温もりで少しずつ、少しずつ、温まってゆく。風に乗って暴れ回る霧雨の中で、冷寒から隔絶された祐作の腕は、まるでその部分だけが別の世界にあるかのような感覚を生んだ。
どのくらい、そうしていただろう。
ふと、絢乃の顔が自分の胸に埋まっているのを目にして、慌てて祐作は腕を離そうとした。いや、離さなければならないという義務感と背徳感に駆られた。
「ごっ……ごめん! その、こんなにするつもりじゃ」
すると今度は、祐作の腹を絢乃の腕がぐるりと取り巻いた。つまり、絢乃の方から祐作の身体にしがみつく形になった。
「離さないで……」
絢乃の声は祐作の身体に埋もれて、くぐもって聞こえた。
「だけど……」
困惑する祐作に、絢乃は訴える。
「温かい……。こんなに温かいの、初めてなんです……。もう少し、あともう少しでいいんです、こうやっていさせてください……」
「……分かった」
祐作は再度、抱き締める腕に力を入れ直した。絢乃からの締め付けも、ぐいと強さを増した。
激しい雨音と、風音と、大屋根の掻き鳴らす雨のワルツ。三つの音に囲まれながら、祐作と絢乃は固く固く、お互いの身体を引き寄せた。
彼方の空に浮かぶ蒼色の塔の耀きが、その時ひときわ眩しく見えた。
初めて触れる絢乃の身体は、思っていたよりもずっとずっと柔らかくて、触れていると心地がよくて。
今だけなどと言いたくなかった。許されるのならばこのまま永久に、抱き締めていたかった。
それが叶わないことは、誰より祐作自身がよく分かっている。だからこそ、雨が降り続いている今この瞬間だけは、まだ絢乃に触れていたい。全身に染み渡るようなこの温もりに、身を任せていたい。
生まれて初めて、心からそう思った。願った。
この気持ちに、名前を付けることができるなら。
絢乃なら、何と名付けるのだろう。
「……ごめん」
予防線のつもりで、祐作は絢乃の耳元にそっと、謝罪の言葉を置いた。
それから、たった今思い浮かんだばかりの思いを、願望の言葉に置き換えた。
「どうしてだろう……。さっきからこうしているのが、幸せで、幸せで、仕方ないんだ」
「…………」
「絢乃さんなら分かるのかな……。これっていったい、どんな感情なんだろう」
「……私にも、分かりません」
そう言いかけた絢乃は、ただ、と付け加えた。
「私もちょうど、同じ気持ちになっているところでした」
まさか、と思わず口走りかけた。その瞬間まで有り得ないとばかり考えていたひとつの解が、絢乃の言葉が胸の中で共鳴した途端、急に目の前に迫ってきたように感じたからだった。
「この気持ちの名前は分からないですけど、どこからこの気持ちが来ているのかは私、知っています。知っている気がします。……だけど、どうしても上手く、言葉にできないんです」
しっとりとした湿り気を帯びた絢乃の声は、祐作の心の扉をそっと叩いて、その奥に厳重に仕舞われていた記憶の欠片を、静かにふわりと包み込んだ。