Story.6 失望の未来
「自信が……ないんだ」
思いを少しでも正確に伝えたくて、祐作は言葉を選びながらゆっくりと説明した。
「親の言うままに絢乃さんと出逢って、まだ絢乃さんに対する想いも自分で分からないままに、結婚式の段取りが決まってしまった。もし、このまま結婚してしまったら、僕は済し崩しにでも絢乃さんを愛してあげられるのか。どうしても自分に、自信が持てないんだ」
絢乃は黙って、耳を傾けている。
「形だけの夫婦になんか、簡単になれる。でも、そんなのじゃ意味ないんだ……。心から愛せて、信頼できて、そういうことができるのが夫婦だと思う。そういう人に僕がなっていけるのか、分からないんだよ……。あんな紙切れ一枚で本物の夫婦になれるのなら、なりたい……けど……」
最後は自分の言葉にすら自信がなくなって、祐作の声はフェードアウトするように小さくなり、掠れていった。
言っているそばからもう既に、自分の本心が見えなくなっていった。結局、僕は今、絢乃さんのことをどう思っているんだろう。いくらそう問いかけても、本音は心の奥に引っ込んだまま出てこようとしなかった。
言えることがなくなってしまうと、代わりに口の中へと冷たい沈黙が流れ込んできた。刹那、電気のように走った寒気に身体を震わせると、時を見計らったように絢乃の声がした。
「私と、同じなんですね」
絢乃は水の分だけ重くなったワンピースの裾を、両手でぎゅっと握っていた。顔の前にだらりと垂れ下がった髪のせいで、表情を窺うことはやはり叶わなかった。辛うじて見える口元が、歪んでいた。
「ずっと言いたかったんです。私、祐作さんといる時はいつも、うつむいて黙っているばっかりで。……だから今日、祐作さんが外に誘ってくれて、嬉しかったんです。挽回の、自分が変わるためのチャンスだって思いました。こんなんじゃ、結婚したって祐作さんを困らせるばっかりだと思ったから……」
でも、と絢乃は息を継いだ。握りしめる手の力が、強くなった。
「結局……私、祐作さんの話に合わせることも、何気ないことを話しかけることもできなくて……。こんな私が結婚してもいいんですか。私、こんなので本当に、祐作さんを愛せるようになるんですか。自分のことなのに、何も……何も、分からなくて」
また、雨音が強くなったような気がした。
思いがけない言葉の数々を素直に受け取ることができなくて、祐作はただ、黙っているしかなかった。首を保つ力が抜けて、いつしか視線は絢乃の足首あたりまで下がっていた。
絢乃も言いたかったことを言い切ったらしい。二人の間に、もはや何度目か数えるのも愚かしいほどの沈黙が漂った。──だが、今度の沈黙の持つ意味は、今までのそれよりも遥かに暗くて、重たくて、悲しいものだった。
祐作は言った。夫として、絢乃を愛してゆける自信がないのだと。
絢乃も言った。妻として、祐作を愛してゆける自信がないのだと。
片方だけならまだましだった。お互いに愛の存在を信じられなかったら、もう、どうしようもない。この二人の間に婚姻関係を結ぶことはできても、本来あるべき夫婦らしい関係になることなど、できるはずはない。だって、愛の在処が見つからないのだから。
改めて、そう思い知らされた気分だった。どす黒い絶望が、意識の奥深くからゆっくりと心根を侵略してゆくのを、祐作は確かに感じていた。
ああ。
もう駄目だ。
このまま結婚すれば、自分のせいで絢乃が不幸になる。でも結婚を拒めば、あんなに喜んでくれた親を裏切ることになる。
自分のせいで、誰かが必ず、不幸になる。
その時、それまで無風だった大屋根の空間に、びゅうと冷たい風が吹き込んだ。
風は屋根をも叩き、唸るような低い音が轟いた。雨粒混じりの風が頬に吹き付けて、立ち尽くす祐作と絢乃の体温をさらに奪っていこうとする。
それは、梅雨の雨とはとても思えないほど強く、激しい横殴りの雨だった。
避けようと思えば、もっと奥に行けば避けられたのかもしれない。でも、わざわざ雨を避けたいなどと、もう祐作には思えなかった。自分と絢乃を取り巻くすべてが怠い。煩わしい。
肌の表面で踊る雨の冷たさと、肌の内側に広がるじんわりとした痛みのような冷たさが、途方に暮れる気持ちをますます凍てつかせた。身体を震わせるための体力すら、もう残っていないように思われた。
「……冷たい、ね」
呟きかけた言葉は強い風に吹き飛ばされて、自分の耳にも届かなかった。届かなかったはずなのに、絢乃が小さく小さく、首を縦に振った。
「……冷たいです」
か細い蚊のような声が、風の間に微かに聴こえた。
それと同時に、こんな声も、聴こえたような気がした。
「助け……て…………」
無意識のうちに、祐作の足は動いていた。
揺れる視界がぐらぐらと移動して、絢乃の姿が目の前に現れた。またも荒れ狂った風が、二人の間に雨粒の嵐を叩き付けた。
絢乃は顔を上げない。祐作も、顔を上げられない。自分が何をしようとしているのかすら、祐作には分からない。けれどどうしてか、口にしなければならない言葉は自然と、心の奥底から浮かび上がるように見えてきた。
冷たさと寒さで錆びた唇を、祐作は開いた。
「──動かないで」
そうしてそのまま、反応を示さない絢乃の細い体躯を、両の腕でそっと抱き締めた。