Story.3 胸中の不安
祐作と絢乃が暮らすこの町は、十数年前に市町村合併で二つの市が合流して出来た、まだ歴史の浅い都市だった。
一方は私鉄の大きな駅を中心に持ち、商業や業務のそれなりに発展した市だったが、市域が狭すぎたために広域的な行政を展開できずにいた。その市の周囲をコの字の形に取り囲んでいたのがもう一方の市で、広大な市内には大規模な住宅群が幾つも立ち並び、抱える人口は多かったものの中心軸として据えられるような場所がどこにもなく、市内の結び付きが弱かった。ゆえに二市は合併し、大きな市域と多大な人口、豊かな自然、そして発達した中心核を持つ、一端の地方都市として再誕したのである。
だが、急拵えで決められた合併の計画には、綻びがあまりにも多かった。合併後数年にまで及んだ議論の末、二つある市役所は双方ともに取り壊され、新しい市役所が中心となる場所に新設されるはずだった。だが、ようやくそれが実現したのは去年。合併から実に二十年近くの歳月が流れたあとであった。当時と比較しても建設費は大幅に高騰しており、貴重な税金が新市役所のために余計に消えたことに憤る市民は、決して少なくなかった。
市内を縦貫する道路の多くはあまりに細くて狭く、幹線としての機能が弱い。結果、せっかく中心街があるにも関わらず、商業需要はより交通の至便な他所の都市に流出してしまっている。おまけにもともと性格の異なる市だったため、都市計画の統一的な方針を定めるのに時間がかかり、その間に無秩序な都市化が進行して、多くの貴重な緑が消えてしまった。
こんなことになるなら合併する必要なんてなかったんじゃないか──そんな糾弾の声は、合併当時から今に至るまで絶えることがない。だが、今さら合体してしまった二市を分けるわけにも行かず、山積された課題の解消は遅々として進んでいないのが、現状であった。
隣を歩く絢乃が、思い出したように尋ねた。
「祐作さん」
「うん」
「婚姻届って、まだ出していないんでしたよね」
祐作は首肯した。既に二人の署名の済んだ婚姻届が、祐作の自宅のリビングの机の上には用意してある。
「仕事も忙しくて、なかなか暇が取れなかったんだ。どうせ市役所は結婚式場までの道の途中なんだから、行き掛けにでも出せばいいだろうって、親が言うんだ」
「だけど市役所って、祐作さんの職場じゃないですか」
「でも、出せって言われているタイミングじゃないと、何か言われそうだし」
絢乃は今度は、反応しなかった。
婚姻届を出さなかったのには、本当は違う理由がある。でも祐作に、そのことを告げる勇気はなかった。同じ職場の人にからかわれそうで嫌だから──そんな子どもみたいな理由を口にしたら、きっと絢乃はいい顔をしないだろうと思った。
沈黙を保ったまま歩く、祐作と絢乃。この肌に突き刺さるような沈黙にも、今は慣れた。沈黙の裏でお互いが何を考えているのかは、敢えて想像しなかった。あいにくと想像できるほど、祐作は絢乃のことをまだ知らなかった。絢乃にとっての祐作もそうなのかもしれない。
なのに不思議なものだ。婚姻届の紙切れ一枚を提出しさえすれば、祐作と絢乃は夫婦になる。
「……結婚って、何なんだろうな」
思わず祐作は、頭に浮かんだ疑問を口にしていた。しまったと口を閉ざした時、絢乃がそれに答えた。
「……私たちがこうして一緒にいることを、周囲が正式に許してくれるための制度なのかなって、思っていました」
祐作は返す言葉をついに思い付かなかった。数分前と同じ匂いのする沈黙が、またふわりと鼻先で広がった。
◆
祐作は絢乃のことを、『絢乃さん』と呼ぶ。初めて出逢った日、うつむいて顔を上げようとしない絢乃を前にしたら、その呼び名が一番にしっくり来ると思った。
絢乃は祐作のことを、『祐作さん』と呼ぶ。その理由を祐作が聞いたことはないが、ただ単に祐作が年上だから礼儀的に『さん』を付けているだけなのだろうと祐作は見ていた。その根拠に絢乃は普通の会話でも、祐作に対しては必ず敬語を使う。
でも、なぜだろう。敬語で話しかけられるたび、語り手の絢乃の心との間に、越えられない塀のような遠大な距離が存在するように思えてしまう。
初めて会った時は、親の設定した会見の場だった。二人きりで会ったのはまだ数回程度だけで、その数回にしたって年頃のカップルらしく遊びに行くこともなく、ぽつりぽつりとお互いの話を交わしたくらいだ。
性交渉などもってのほか。唇を交わすことも、そればかりか手を繋いだことさえも、祐作と絢乃にはない。
する場所も、機会も、勇気も、二人はまだ持ったことがないのだった。
完璧に近い健康的な生活を送ってきた分、祐作も絢乃も容姿に関しては文句の付け所がさほど見当たらない。
特に絢乃など、身にまとう服装や髪型からも清潔感がひしひしと感じられ、本人の純なイメージをいっそう高めている。
絢乃は綺麗な女性だ。なのに、いや──だからこそ、祐作はどうしても手を出すことができない。肌に触れることにさえ、未だに抵抗を感じずにはいられない。
こんな状態で、自分は絢乃と結婚するのだ。
不安でないわけがなかった。だが、表情を曇らせるたびに両親はよってたかって祐作に説いた。あなたは夫になるのだ、夫はそんな頼りない表情をすべきではない、もっと堂々としていろと。
以来、祐作はその言葉に従い続けている。顔にかぶったお面を、お面だと思わないようにし続けている。
いつまで、こうしていればいいのだろう。
「……絢乃さん」
祐作と同じペースで歩く絢乃に、祐作は声をかけた。
絢乃が顔を上げて祐作を見る。絢乃の表情にはいつも真顔が貼り付いていて、笑顔というものを祐作はまだ目にしたことがない。いずれ、どこかで目にすることになるだろう。そう決め付けている自分がいる。
「疲れた?」
「大丈夫です」
表計算ソフトに数式を入力すれば答えが表示されるように、祐作が絢乃を案じる言葉をかけると絢乃は『大丈夫です』と答える。それは分かっていた。
分かっていたから、祐作は言葉を重ねた。
「さっきからずっと、無言じゃないか」
「それは、祐作さんも同じです」
痛いところを突かれた。
「私のことなんか気遣わないでください。私、祐作さんの行く場所なら、どこまでだって遅れずについて行きますから。約束しますから」
絢乃は下を向いて、そこで一度、言葉を切った。
「……私たち、結婚するんですから」
“結婚”の単語が、ひときわずんと重たく祐作の心に伸しかかった。
祐作には分からない。結婚って、そういうものなのか。
結婚とは恋愛関係にある男女が、互いの愛を育む確かな場所を得るためにするものだと思っていた。その観点からすれば、祐作と絢乃の間にだって恋愛関係が横たわっていて然るべきだ。
でも、互いに触れることすらできない男女が、恋愛関係にあるだなんて。どうしても信じられない。
そこまで疑問に思っていながら、こういうとき素直に絢乃に質問できない自分が祐作は嫌いだった。どうして、言えないのだ。──『絢乃さんは僕のことが本当に好き?』と。
或いは、自分自身の想いの存在に、自信が持てないからかもしれなかった。