どうでもいい話は尽きない
初投稿です。
「そういえば、あれはどうだったの?」
彼女が僕に尋ねた。
僕と彼女以外にはだれもいない、なんのおもしろみもない放課後の教室。彼女といっても、恋人関係的なあれではない。
破天荒で不思議な世界より、変化が無くても楽しい日常を選ぶ僕だけれど、彼女のいう「あれ」の意味はわかりかねる。
「あれ? あれってなんの話?」
「え? 君の、テストの成績の話だけど」
そういえば、この前中間テストがあったんだっけ。
「うん、まあまあ、だったかな」
「ね、英語何点だった?」
「英語はちょっと悪くて。えっと、六十二だったよ」
一応赤点を免れてはいるものの、決していいとは言えない点数。平均点よりも少し高い程度の、普遍的数値。
「えー、すごいじゃない。わたしがあなたと同じ歳のときは、もっとひどかったわよ」
この発言からもわかるとおり、彼女は僕よりも年上だ。
なのに僕は、彼女に対して先輩と呼んだり敬語を使ったりはしない。
「あと、数学もちょっとひどかったな。唯一得意な現国はいつも通りで、化学も物理もいつもより低め」
僕が彼女にそれらの点数を告げると、彼女はまた驚いたように言った。
ころころ変わるその表情が、とても親しみやすいというのが敬語を使わない理由の一つ。
「え、それでもわたしよりもいいんですけど」
彼女のことは、僕もまだよくわかっていないところがある。
だって、まだ出会って一月しか経っていないのだから。
「もうこの話やめ!」
「自分から振っておいて……」
「う。……いいの。わたしは君より年上だから、いいの」
そして、横暴だった。
「それより君、好きな子とかいないの?」
一瞬、吹き出しそうになる。
好きな子、と聞かれて真っ先に思い浮かんだ人はいるけれど、それをここで言うのはためらわれる。
「あ、その顔は、いるんだ」
……意外とこういうの、鋭いんだよなぁ。
いない、と誤魔化すことはできるけれど、彼女になら、教えてもいいような気がした。
「いる、よ。一応ね」
「あら? 意外と早く白状しちゃうのね」
心底不思議そうな顔をされる。
「だって、君に教えたところで、君が何かしてくれる訳じゃないだろ?」
「あら、そうかしら。そう思っているのは君だけで、もしかしたら何かしてあげられるかもしれないわよ?」
「それならなぜ、君自身は何もしないんだい?」
ここだけの話、彼女はちょっと、特別な存在だ。
「う。……相変わらず、妙なところだけ鋭いのね」
「それは、お互い様だよ。……っと」
自分の腕時計を見ると、そろそろ最終下校時刻が近づいていた。
「あら、もう時間?」
「そうみたいだね。それじゃ、僕は帰るよ」
そう言って、机の横に掛けておいた鞄を手に教室を出る。
彼女も一緒に教室を出たのを確認すると、僕は彼女にいつものこの言葉を言う。
「君も早く、帰りなよ」
そして、決まって彼女はこう答えるのだ。
「もうちょっとだけ、わたしはここにいるわ。……さよなら」
彼女が言い終わると同時に、下校を告げるチャイムが鳴った。
◇
「ねぇ、知ってる?」
昼休み。
クラスの女の子たちが、いかにもこれからうわさ話を始めますよ、という調子で話すのを聞く。
「北棟の東階段、出るんだって」
古い学校にはありがちな話だ、と大した思いもなく、続きを黙って聞いている。
盗み聞きなどではない。ただ大声で話している彼女たちの声を、昼休みの喧噪の中で、意識して聞いているだけだ。
「え、もしかして、幽霊?」
「そう。ある日の夕方、その階段の踊り場を、すうっと影が上っていくのを見たって人が何人もいるの」
「えー、作り話かなんかじゃないの」
僕もそう思う。
「でもでも、何人もいるんだよ? あながち間違いじゃないのかも……」
「もう、裕子ってば恐がりなんだから。でもそんなところがかわいー」
裕子と呼ばれた女の子は、話し相手の女の子に頭を抱きかかえられ、迷惑そうにしながらも笑っていた。
なんでもない日常の一コマ。平穏な会話。これが僕の現実だ。
ちなみに、北棟は特別教室ばかりが集められた校舎で、昨日僕と彼女がいたのも北棟のある一つの教室だった。
僕らが好んでそこへ行く理由としては、僕が彼女と話しているところを誰にも見られたくないから、というのが一つ。……決してやましい目的があるわけではない。
今までも――と言っても約一月だが――何度か北棟へ行ったけれど、僕自身はクラスの女の子たちの言う影とやらは見ていない。
うわさの真偽を確かめたいとは思わないけれど、少し気になることはある。
今日も僕は、彼女のところへ行くつもりだ。
「幽霊? そんなもの、いるわけないじゃない」
僕は、昼休みのうわさ話を彼女にも話してみた。
「僕もそう思うけどね。僕より年上の君の方が、なにか知っているんじゃないかと思って」
「よくある学校の怪談でしょ。もう聞き飽きたわ」
彼女はそう言いながら、夕陽の差し込む窓際に腰掛けた。
不敵な笑みを浮かべて、彼女は自分のその長い髪をかき上げる。
「……聞き飽きるほどの怪談なんて、僕は聞いたことが無いけど」
「それは、君がまだこの学校に来て日が浅い証拠よ」
なるほど、一理ある。
僕がこの学校に入学してから、もう半年が過ぎている。けれど、まだ半年しか過ごしていないということでもあり、僕はまだまだこの学校のことを知っているわけではない。
「他にも、美術室の『笑う彫像』、音楽室の『鳴らない音階』、家庭科準備室の『踊る包丁』……挙げ始めたらきりがないわ」
と言う割に、彼女の言うそれらの怪談は、どうにも現実味を帯びているとは言い難い気がした。いや、もともと現実味なんてあってないようなものだけれど。
「その怪談、タネはわかっているの?」
「まさか。……誰かが確かめた時点で、それはもう怪談とは言わない。それが真実にしろ虚偽にしろ、それはただの『物語』に成り下がるわ」
「『物語』というほど綺麗なものではないだろうけどね」
そんなうわさが流れるくらいなのだから、どれもそれなりの逸話があるのだろう。
「君は『物語』を綺麗なものと思っている口なの?」
「え?」
それはどういう意味なのか、僕は彼女に尋ねる。
「物語っていうのは、どこにでもある。たとえば、君は今日起きて、学校へ来て、こうしてわたしと会話している。ただそれだけでも『物語』。どこにでもあって、どんな種類も、どんな形も存在する。わたしが考える物語の定義は、もっと普遍的で、もっと曖昧で、もっと乱雑なものよ」
彼女はそう言って視線を僕から外し、窓から見える景色を眺めた。
その表情にどこか憂いが混じっている理由は、今の僕にはわからない。でも、これだけは言える。
「確かにそうかもしれない。だけどそれは君の考えであって、僕にも同じように当てはまるかどうかは、僕にしかわからないよ」
彼女はこっちに視線は向けないまま、「そうね」とだけつぶやいた。
彼女とする会話は、本当にどうでもいい、他愛もないことばかりだ。
今日の夢はどうだったとか、昨日の晩ご飯はなんだったとか。
それについて二人で笑ったり、怒ったりして、時間を潰す。
誰もいない教室、二人だけの会話、お互いに素のままの自分を見せる。
いいムード、なんて揶揄されるかもしれないけれど、全然そんなことはなく。
お互いの心は知っているのに、実は名前さえ知らない。
そんな関係が始まったのは、約一月前だった。
◇
「今日の起床時刻は午前七時」
感情のない声が教室に響く。
「朝ご飯は食パン一枚とコーヒーだけ」
放課後の誰もいない教室で、男子学生が一人、誰もいない虚空に向けて話しかけている。
「着替えて支度をして、家を出たのは八時」
日記を書くときのように、淡々と言葉を述べる。起伏が無く、言葉を連ねるだけ連ねて、あとは何もない。
「学校には八時二十分に着き、始業までの時間は本を読んで過ごした」
無表情のまま次々と話す彼の様子は、与えられた言葉だけを話すロボットのようだ。
「三時間目の体育でサッカーをしたときに転んで怪我をした」
これが、一月前の僕の放課後の過ごし方だった。
教室から人がいなくなる時間まで図書室で本を読み、人気が無くなった時間にここへ戻ってきて、今のように日記もどきの一人語りを始める。
あのとき、彼女が現れるまでは。
「どうでもいいわね」
いきなり耳に届いた声に、僕は振り向いた。
誰もいないと思っていたはずなのに。
心の中で舌打ちをして、見た目先輩っぽい彼女に答える。
「ええ、僕はロボットですから。感情が無いので、淡々と言葉を話すことしかできないんです」
「わたしの目がおかしいのかしら。わたしには、あなたが人間に見えるのだけど」
「当たり前です。僕は人間ですよ」
彼女が首をかしげる。けれどすぐに納得したようで、大げさに手の平を叩いた。
「そう。ロボットのまねごとをしているの」
「まねごとではありません。僕はロボットです。正確には、ロボットのようなことしかできない人間ですけど」
一月後の僕からはとても想像はできないだろうけれど。
「笑うのって、意外と難しいですよね」
作り笑いを浮かべて、彼女に話しかける。
思案顔をしていた彼女は、思いっきり嫌そうな顔をした。
「あなたね……。まぁ、いいわ。それであなたは、こんなところで何をしていたの?」
彼女が問う。僕は作り笑いを浮かべたまま答える。
「僕は、病気なんです」
「え?」
質問の答えとしては、ひどく不適切な答え。
それを人がどんな風に思うのか、僕は考えたこともなくて、ただ事実だけを述べる。
「記憶には、エピソード記憶、手続き記憶、意味記憶の三種類があります。知っていましたか?」
「ええ、それくらいなら。それが、どうしたの?」
「僕の脳は、そのうちの一つ、エピソード記憶に障害を持っています。それは、ある程度の頻度で――だいたい三日か四日おきに、その記憶がリセットされてしまうものです」
記憶障害にはさまざまな種類があるけれど、こういった症状の例は世界的に見ても稀であるらしい。
「生まれつきだと両親は言いましたが、なにぶん記憶がないので、僕自身にはそれが真実であるかどうかはわかりません。ただ、そういった症状なのは確かです」
彼女は黙ったまま聞いている。
「たとえば、今の僕には、三日前より以前の記憶……、正確には、思い出がありません。どこで何をしていたのか、何を感じて、何を思ったのか、そういった一切の思い出が綺麗さっぱり無くなってしまっています」
彼女の表情は変わらない。ただじっと、僕を見つめている。
「その問題を解決するために、僕は意味記憶を利用します。目で見たものは、映像や写真としてとらえて記憶する。耳で聞いたことは、音声としてとらえて記憶する。最初、医者にはそんなことできるはずがないと言われました。けれど何年も続けていく内に、僕の脳の中で何か変化が起こったのでしょう。映像や音声を、情報としてとらえ、意味として記憶することが可能になりました」
ここまで言えば、誰にだってわかる。さっき僕がしていたこと。
「……つまり、自分の脳に、音声で日記をつけていたのね?」
その通りです、と僕は言う。
「でもそれなら、なにもここでやる必要はないんじゃない? 自分の家へ帰って、寝る直前にすればいいじゃない」
「それは、無理です。僕は普通の人のように、今日を過ごしています。僕の両親は、僕の記憶障害が治ったのだと勘違いをしています。これのせいで色々迷惑を掛けてきましたから、これ以上、心配はさせたくないんです」
でも本当は、僕がそう勘違いしているだけなのかもしれない。
彼女が僕に近づく。
「あなたに、興味が湧いたわ」
唐突に、そう言われた。
告白なんて……、記憶には一度もない。
「ああ、いえ、違うわ。興味が湧いただけ。好きだとか愛だとか、そんな感情じゃない、もっと純粋な興味」
少しの落胆はあったけれど、その言葉は嬉しかった。
ロボットみたいな僕の言葉を信じてくれる。
それは、まだ会って間もないからだったけれど、それゆえの新鮮さが、このときの僕には嬉しくて。
「ねぇ、場所を変えましょう。いくら時間が時間だとは言っても、教室のある南棟は人の目が入るかもしれない。今日のわたしみたいに」
彼女が笑う。僕のものと違って、とても人間味のある笑い方だ。
羨ましいと思った。感情があることを、当たり前にできることが。
だから本当のことは言えず、いつも通りの平坦な声で、僕はこの言葉を使う。
「まぁ、嘘なんですけどね、記憶云々っていうのは」
「……は?」
◇
「信じられない!」
北棟の空き教室に移動する。
彼女はまだ、さっきの僕の態度に怒ったままだ。
「僕のこと、やっぱり興味なくしますか?」
それでも僕はこれを聞く。名も知らない先輩の少女に、関心を抱いてほしくて。
彼女が沈黙する。
呆れられ、捨てられ、裏切られ、そういう人生を歩んできた。そういう人生が続くと思っていた。
……というのはいささか誇張表現だけれど、それに近い思考があったのは事実だ。
また今度も……。
「いいえ、そんなことないわ」
けれど、彼女の答えは違っていた。
「逆に、もっとあなたを知りたいと思った。……覚えておくといいわ。わたしって、見た目よりも負けず嫌いなの」
その表情は、夕陽をバックにした満面の笑みで、僕は、それをとても美しいと思った。
「――という、裏設定を考えてみたんですけど」
椅子に腰掛け、腕を組んだまま、彼女が僕の話を聞いている。
「いきなり何を語り出すのかと思ったら……」
黙って聞いてもらえただけで、話した甲斐はあったのかな、なんて考えてしまう。
「ねえ。その話の中のわたし、ちょっと君にデレている感じがして、すごく不愉快なのだけれど」
「そう? そんなこと……いや、あるかも」
そんなつもりは全然無かったのだけれど、言われてみれば、若干そんな感じもする。
彼女が不満そうにしている。
窓から差し込む西日を背にしているせいで、話の最後と被るからかもしれない。
「大丈夫ですよ。僕はそんなことを言う勇気なんて持ち合わせていませんから」
僕の予想が当たっていたのか、彼女がより不満そうな顔になってしまう。
けれどそれも一瞬で、彼女らしい不敵な笑みに変わる。
「ということは、少しはそう思ってくれているってこと?」
というか、かなりそう思っているつもりだ。でも、そんなことを堂々と言う勇気があるのであれば、目の前にいる彼女ではない、僕が気になる方の彼女とも気軽に話ができているはずなのだ。
「…………」
「君が考えていること、当ててあげましょうか」
突然の、彼女の提案。思わず「え」と声を漏らし、彼女の瞳をのぞき見る。
そんな反応だけで彼女は満足したのだろう。「冗談よ」と言って、彼女は立ち上がった。
「他人の考えていることなんてわからない。それがわかるのは、その人以外には神様くらいしかいないんだから」
そう言った表情が寂しく見えるのは気のせいだろうか。
「たとえば、だけど」
それからまたとりとめのない話を続けていると、彼女が一呼吸を空けてそう言った。
「君の好きな子が、今のわたしたちを見ると、その子はどう思うかしら?」
誰もいない教室、人気のない時間帯、楽しそうに話す僕と、目の前の彼女。見る人が見たら、一発で勘違いされてしまいそうなシチュエーション。
かなりの低確率ではあるけれど、まったくないとは言い難い。
「どうかな。僕の知っているあの子は、そんな勘違いをするような子じゃないから」
「どういうこと?」
「彼女は素直だから、思ったことをすぐ口にする。後先考えない訳じゃなくて、ただ好奇心が旺盛なだけ。……きっと、率直に僕らがどういう関係なのか聞いてくると思う」
ちょっと推測は混じっているけれど、間違いではない、はず。
彼女が笑う。おかしそうに、不敵に、けれど優しげに。
「信頼しているのね。いえ、信頼というよりは、知りすぎている感じかしら」
知りすぎている、という言葉に疑問を抱きつつ、僕は彼女に応える。
「恥ずかしいけど、僕は彼女とはずっと同じクラスなんだ」
彼女が、へぇ、という顔をする。
それは純粋に驚いている感じだけれど、その中にはそのことへの興味も含まれているはずだ。
「小学校の上級生の時、はっきりと意識し始めた。そして」
「中学を経て、その子が好きなんだとわかった?」
だから彼女の、こういうところが怖い。その偏った方面への鋭さ。あまりにも鋭く、僕の心を突き刺してくる。
でも、だからこそ、彼女に言って良かったと思っている自分もいる。
自分が言いにくいことを、彼女は理解してくれる。たったそれだけだけど、少し、気持ちが軽い。
「……やばい。絶対今、顔赤い」
彼女は、笑わない。だって。
「ね、君はどうしたいの?」
「え?」
「その子のこと、好きなんでしょ? だったらその子に、告白してみない?」
◇
「ねぇ、知ってる?」
いつもとは少し気持ちが違う昼休み。
クラスの女の子たちが、いかにもこれからうわさ話を始めますよ、という調子で話すのを聞く。
「北棟の美術室、出るんだって」
また怪談かと呆れながら、やっぱり耳を傾けてしまう。
「出るって、今度は何よ?」
相手の女の子も同じような気持ちだったらしい。
言った後で、本人にも見えるように深い溜息をついた。
僕が今意識を向けているのは話しかけた方の女の子だ。ずっと見ていた。ずっと同じクラスで。ずっとその挙動と言動を。
ストーカーみたい、と蔑まれるかもしれない。でも、好きになるって、そういうことだと思う。
「その彫像がね――」
今話している彼女に。今笑っている彼女に。今友達に抱きつかれ、離してと言いながらも楽しそうにしている彼女から、意識を手放すことなんてできない。
「もう授業始まるよ、裕子」
裕子と呼ばれた女の子が返事をする。
彼女の笑顔がじっと見ていた僕に向けられた気がして、慌てて顔を背けた。
放課後の教室で、購買部で買ってきた百円パックのジュースを飲む。
いつものように図書室ではなく自分の教室で時間を潰しているのは、単なる気まぐれに過ぎない。
でもそういえば、あの子が図書室で勉強をすると言っていた。
だから、なのだろう。なんとなく気まずい気がして、近寄らなかったのかもしれない。
「そんなところでなにをしているの?」
何も考えず、窓際の席に腰掛け、窓の向こう側を見ている。
眼下には学校のグラウンドがあって、そこではサッカー部や野球部といった部活動が行われていた。
「窓の外を眺めているんだ。それ以外にどう見えるんだい」
突然聞こえてきた声は、いつも話している彼女とは違った。
でも僕は驚いたり声の主を確かめたりもせず、そう答えた。
「そうだね。それは見ればわかるよ。でも君が何を考えてそうしているのか、私にはわからないかな」
「それはそうだろうね。人の考えていることがわかるのなら、世界は平和か戦乱のどちらかになっているはずだよ」
どうにも変な会話だ。
僕自身、誰と話しているのかわからない。でも不思議と安心感があって心地よい。
まるで、放課後の彼女と会話しているかのような……。
と、気付いて、顔を向ける。
「やっとこっちを向いてくれたね」
目の前で笑っていたのは、昼間怪談話をしていた、裕子と呼ばれていた女の子だ。
声が出せなかった。意識した瞬間、頭の中が真白色になって、気の利いた言葉が思い浮かばない。
「あ、え……?」
「どうしたの?」
彼女は笑ったままだ。眩しすぎるその表情が、僕には辛い。
何も答えられないことで、彼女に嫌われるのが怖い。何か言ってしまうことで、彼女が離れてしまうのが怖い。
「いや、うん。なんでもないよ」
あのいつもの彼女と話しているときのような気安さがない。たったそれだけで、僕は堅く固まってしまう。
「君は、どうしてここに?」
辛うじて出た言葉は、変に緊張したせいでうわずっていた。それでも彼女は答えてくれる。
「図書室で前回のテストの復習をしていたんだけどね。教科書を忘れていたことに気付いて、戻ってきたの」
さすが、彼女は真面目だ。
成績が平均くらいを低迷している僕なんかとは違って、いつも上位に食い込むだけある。
「さすがだね。僕は不真面目だから、テストが終わったことに安堵して、そんなことをする気にはなれないよ」
「ううん。そうでもないよ」
思ったままを彼女に伝えると、彼女は苦笑いを浮かべながらこう言った。
「真面目なのは上辺だけ。普段はもっと、楽な方に楽な方に、としか考えてないから」
「それでも、それを実行に移せるだけでも僕とは違うよ」
少しずつだけれど、彼女と話すことにも慣れてきた。
最初の緊張が逆に心地よいと思えるくらいには、彼女との会話が楽しく感じる。
だから、まあ。
「……もしよかったら、僕も君の勉強に付き合ってもいいかな」
勇気を振り絞ってそう聞いてみれば、こんな答えが返ってくるくらいには仲良くなれたのかもしれない。
「そう、だね。……二人で楽しく勉強するってのも悪くないし、ね」
「じゃ、また明日」
「うん、また明日」
下校終了のチャイムが鳴るまで、僕らは勉強した。
放課後の彼女に今日は会えなかったけれど、べつにいつも約束している訳じゃないから大丈夫だろう。
帰る方向が二人とも全く逆だったので、彼女とは校門の前で別れた。
「疲れた……けど、楽しかったな」
彼女のテストの復習は僕の想像を超えていて、いつも浅いところまでしかしていない僕にとってはハードそのものだった。
明日も同じように勉強する約束を取り付けて、僕は家路に戻った。
◇
「たとえば、流れ星に三回願い事を言うとそれが叶うってあるじゃない?」
わたしは複雑な気持ちだった。
そういう風に仕向けたのはわたしだけど、その光景を実際に目にすると、やっぱり妙な気持ちになる。
「願い事のジンクスって、実は叶わない願いでもない限りは叶うものなのよ」
誰にも向けていない言葉。
満タンだったコップに穴が開いて、そこから水が少し漏れ出してしまった感じ。
「……でも、楽しそうだった」
あの二人を見ていて思ったのは、そんな感情だ。
最初はぎこちない会話ばかりだったけれど、徐々に彼の方も慣れてきたみたいで、最後は冗談を言い合うようにまでなっていた。
「まあ、いつものわたしたちの会話のようには、まだいかないけれど」
言葉にした後で、気付く。
この感情は何? わたしは今、何を考えたの?
「……疲れているのかしら」
認めてはいけないものがそこにあった気がして、わたしは目をつむった。
それくらいで消えるのなら苦労はしないのだけれど、そうせずにはいられないもやもやしたものが胸の内で燻っていた。
翌日の放課後も、彼と彼女は楽しく会話していた。
「そう、そこはこれをこうして――」
相変わらずテストの復習をしているみたいだけど、そこは一種の侵入しがたい空間になっていて、これを壊すことはわたしにはできなかった。
嫉妬、なのかもしれない。
初めてこんな感情を抱いたわたしには、それが正解なのかすらわからないけれど、その言葉がもっともうまくわたしの心を言い表していた。
「え? でもこれは」
彼が、彼女に質問している。わたしの時には見せない表情だ。それを見せられる相手であること、それを見せられる環境であること、それを見せたいと思う心境であること。
わたしにはない、彼女との絶対的な差異。
複雑な方向へばかり思考が進んでしまう。けれど、今のわたしには何もできることがない。
それを受け入れろと言うの? それは諦めなければいけないの? それは本当に、わたしには無理なことなの?
答えの出ない自問を繰り返しながら、楽しそうに笑い合う彼らを見守る。
明日は土曜。学校という場所にしか接点のないわたしは、彼に会うことはできない。
おこがましいかもしれないけれど、それが――それだけが、悔しくてたまらなかった。
『告白してみない?』と彼に持ちかけたわたしは、お節介のつもり以上のことは何も考えていなかった。
その結果がどうなるかなんてまったく想像していなくて、実際こんなにも自分自身で困惑している。
本当に正しかったのだろうか。
これがわたしの望んだものだったのだろうか。
彼をどう思っていたのかなど、もうあのときの気持ちは忘れてしまったけれど、だからこそわたしはこんなにも悩んでいる。
「嘘……」
自分の頬に触れて、そこが濡れていることに気付く。
涙の理由も、彼を想った理由も、どうしてこうなったのかすら、わからない。
どうでもいい話題から始まり。
どうでもいい関係になって。
そして、どうでもはよくない気持ちに育った。
「これが、夢なら良かったのにね」
呟いた言葉は誰に聞こえるでもなく虚空に消えて、わたしはその場に崩れ落ちた。
◇
「もうすぐ最終下校時間だね」
今日は、ふとしたきっかけで彼女を思い出すことが多い。
隣に座っているクラスメイトの彼女のことではなく、放課後にどうでもいいことを話し合っていた例の彼女のことだ。
「どうしたの?」
急に黙った僕に気付いて、裕子が尋ねてくる。
彼女は本当に聡いので、僕がなにか悩んでいることなんてお見通しだろう。
裕子には彼女のことを喋っていないので、何を悩んでいるか自体はわからないだろうが。
「ん。なんでもないよ」
帰ろうか、と促して鞄を持ち上げ、先に教室を出る。
あれから数日、彼女とは会っていない。
放課後と言わず、休み時間も裕子と過ごすことが多くなり、彼女のことを考える機会さえ減った。
しかし、心の奥底で、なぜか彼女に会いたいと思う自分がいるのも自覚している。
「それで、昨日の話なんだけど……」
一緒に廊下を歩きながら、会話を続ける。
裕子との会話は楽しい。喜怒哀楽に富んだ人間味溢れる会話。放課後の彼女とのそれでは味わえなかった緊張と気遣い。
そのどれもが僕の心に新鮮さを与えてくれたけれど、それが嬉しいことのはずなのにどこか満たされないのは、気のせいではなかった。
「その猫がほんとにかわいくて」
上履きから下履きに履き替える。その間も、彼女の話は止まらない。
できすぎている、とも思っている。
あの日、あの場所で僕が彼女に出会ったこと。
それは単なる偶然だったし、誰かの思惑が働いたなんてことはありえない。
裕子は裕子の意志で勉強をしようと思ったと言っていたし、僕は僕で気まぐれに教室に残っていただけだ。
……断言するだけの材料はないけれど、なにかが変だ、と考えてしまう。
「心ここにあらず、って感じ」
不意に、裕子が呟いた。
彼女は隣を歩く僕をまっすぐに見つめ、語りかける。
「君、今日はずっと悩んでるよね。何に悩んでいるのか、まではわからないけれど、そんな顔してる」
「……そう、見える?」
「見えないって答える人の方が、少ないと思うよ」
それほどまでに、今日はどこか調子が悪い。
僕を見ていた瞳が、たった今出てきたばかりの学校の方へ向いた。
「学校。しかも、人間関係かな?」
「…………」
思わず、息を呑んだ。
それが図星だと、彼女にはすぐに悟られてしまう。
「当たりだね」
裕子が笑う。顔は笑っているけど、その表情は、どこか恐怖を孕んでいる。
最終下校時刻を告げるチャイムが鳴った。
自然、拳に力が入る。帰ってもいいのかと自問し、隣の裕子を見る。
彼女は何も言わない。そのまま、自分が帰る方向へと歩き出した。
そのことに一瞬だけためらいを覚えたが、僕は「ごめん」とだけ言い残して、再び学校の中へと戻った。
走り去る彼が「ごめん」と言った。
私は彼が何に悩んでいるのかを知らない。
昨日までは本当に楽しそうに、私と会話してくれていた。
けれど今日は、どこか上の空といった感じでぼーっとしていることが多い。
私が話しかけても、何かに囚われていたように、一瞬だけ反応が遅れる。
最初は少し疑問に思っただけだったけど、その回数が増えるごとに、私は不安になった。
彼とは、小学校の頃から同じクラスだった。
でも、接点はたったのそれだけ。話したことは数回しかないし、特別仲が良かったわけでも、ご近所さんでも、幼馴染みな関係でもない。
だから、なのかもしれない。
彼の少し達観したところや、独特の口調と、照れたときにだけ見せる、赤みがかった頬を隠そうとする仕草が、好きになったのは。
「さよなら、も……ないだなんて」
呟いて、考える。
今から学校に戻った彼は、これからどうするのだろう。
人間関係とでたらめを言っては見たものの、それが本当に当たっているとは思っていなくて、逆にこっちが驚いた。
下校のチャイムが鳴った校舎内は、もう誰もいないはず。なのに、戻るということは、まだ残っている生徒がいる?
それを、どうして彼が知っているの?
疑問は消えない。でも、彼がそうしたいのなら。
私はそれを、見届ける義務があると思った。
◇
「あなたの『もうちょっと』は、永遠と同義ですか?」
出会った当時と同じ口調で話しかける。
夕陽が沈み始め、陽の光が弱くなっている。
もう会えない気すらしていたけれど、彼女はその場所にいてくれた。
「……知らなかったの? わたしの刻は、もう止まっているのよ」
振り向いた彼女が答える。
知ってはいた。
僕は例の記憶障害のせいか、昔から不思議なものを見ることができた。
代わりの力、とでも言うのだろうか。人は何かを失っても、何か別のものを手に入れている。
僕の場合は正常な記憶の代わりにこんな力だっただけで、他の人はもっと別の何かを手に入れているのだろう。
「放課後の幽霊……。あなたはいないって言っていましたけど」
「ええ、いないわ。わたし以外には、ね」
あっさり答えられる。そこまでされると、逆に清々しい。
彼女が一歩、前へ歩み出した。
「……怖い? 恐ろしい?」
その声音が、どこか震えているような気がして、彼女も不安なんだ、と思う。
僕も一歩、彼女の方へ足を踏み出す。
「いいえ。もう、慣れましたから」
彼女が止まる。まるでそこに境界線があるかのように、びくりと肩をすくませる。
彼女はわかってしまったのだ。
もう時間がないことに。自分の想いが、届けられてしまったことに。
「不思議ね。君には言いたいことがいっぱいあったのに、今はもう、全部どうでもいいって、思ってる」
彼女の頬に、一筋の光が流れた。
それを見て見ぬ振りをして、僕は語りだす。
「楽しかったですよ。あなたとの時間は」
本当に、夢のような時間だった。
「わたしから、あの子に乗り換えたくせに?」
言いつつ、その表情は穏やかで、優しい眼差しが僕に向けられている。
「それを言われると、少し辛いものがありますけどね。でも……僕は、あなたに会って、話せて、よかったと思っています」
僕も笑ってそれに応える。辛いのは、僕ばかりではない。
「わたしは……、楽しいことばかりじゃなかった。辛いと思ったこともあった。でもやっぱり……、最後に君と話せて、よかった」
彼女が目蓋をおろした。その瞳の奥で、これまでの会話を回想しているのかもしれない。
「もう、会えないんですか?」
口調が若干鈍る。
「ええ。おそらく、会えないわ」
少しくらい悩んでくれても良かったのに、彼女は即答した。
「寂しいですね」
だから僕も、思ったことを素直に言うことにする。
「君には、彼女がいるでしょう?」
彼女が背を向け、窓の外を見る。もう、ほとんど太陽は沈んでいた。
「それでも、ですよ。本当のことを言うと、あなたのことも、好きでした」
出会って一月しか経っていなかったけれど。彼女は今までの僕にとって、無くてはならない存在だった。
「あら。意外と罪作りなのね」
ここで彼女が茶化すように言うけれど、それでもこちらを振り向かないのは、彼女もその向こうで泣いているからかもしれない。
「僕はロボットです。正確には、自分の目で見たこと、自分の耳で聞いたことを、思い出ではなく意味として記憶するロボットです。パソコンにたとえるなら、主記憶ではなく外部記憶に保存するようなものです」
敬語を崩さないのは、敬意の表れ。
「電源を切っても消去されない。つまり、ずっと覚えていると言いたい訳ね?」
彼女の声が、少し震えた気がした。僕の錯覚でないなら、それは悲しいのを我慢しているように思える。
「ええ。少し、気障でしたか?」
もっといいたとえがあっただろう。もっとうまい言い方や、もっと心に響かせられる言葉があったはずだ。
「いいえ。……でもそうね。確かに、調子に乗るな、とは言いたくなるわね」
でも、彼女は笑ってくれる。こっちを振り向いて、瞳に涙を浮かべたままでも、僕にその綺麗な笑顔を見せてくれる。
「それは、あなたの前での僕の、アイデンティティーのようなものですから」
彼女が、僕に抱きついてきた。
自らが定めたその境界線を振り切って、自分の弱々しい身体を僕に預けてくれる。
「結局、わたしの願いは、聞き届けられなかったのね」
彼女が呟く。耳元でささやかれて、少し体が震えたけれど、今はそれさえ、心地よい。
「僕は、そうは思いませんよ」
彼女が顔を上げる。
「え?」
困惑した表情。いや、どちらかというと、驚いた表情か。
「だって、あなたが願っていたのは、『友達がほしい』とか『恋人がほしい』とかではないでしょう?」
ちょっと調べれば、自分の学校の逸話なんてすぐに見つかる。黙っていることもできたけれど、やっぱり彼女には、笑っていてほしいから。
「……そう、なのかしら」
だから、教えてあげる。彼女がほしかった、一番の答えを。
「あなたの願いは……、あなたが執着していた本当の理由は、『――――』でしょう?」
万人には理解できないかもしれない。多くの人は、なんだそんなこと、と言うかもしれない。でも彼女にとってそれは当たり前ではなかったから。
「――うん、そうね。そうだったに違いないわ」
彼女は消える。最後に、「ありがとう」とだけ言い残して。
◇
今から約十年前、この学校で自殺があった。
身近に当時のことを知っている人がいないかと探して、運良く見つけられたのだ。
自殺の理由は、親友に裏切られたこと。
親友だと思っていたのは自殺した当人だけで、本当はからかわれるためだけに仲良くされていたようだ。
結果、その子は親友だと思っていた人物に裏切られ、辱められる。
苛めていた本人としては、軽い『遊び』のようなものだったのかもしれない。
しかし、心身ともに傷ついたその子は自殺を決意して、校舎の屋上から飛び降りてしまった。
その子が死んだと聞いて一番驚いたのは、その子の友人や家族ではなく、苛めていた本人だろう。
そして、過ちに気付いた彼女は、その子の墓前で泣いたらしい。
大声で、みっともなく、何時間も。ただ『ごめんなさい』と繰り返して。
そして帰り道。
泣き疲れ、ふらふらになった足取りのまま横断歩道を渡ろうとして、彼女は交通事故に遭った。
人はそれを自業自得だと言うけれど、僕はそうは思わない。
もしかしたら彼女は、自分から車の前に飛び込んだかもしれないのだ。
その真実は、もう知ることはできない。
彼女が求めていたのは、親友でも恋人でもない。
けれど、僕が導いたその答えが正解かと言われると、そうでもない。
たぶん正解は幾通りも存在していて、僕はそのうちの一つを言い当てたに過ぎないのだから。
「ねぇ、昨日のアレ、見た?」
クラスの女の子たちが、最近流行っているドラマについて話している。
僕は見ていないけれど、聞き耳を立てる限り、どうやら苛め問題を取り上げたドラマのようだ。
「ホント、信じられないよね、親友にあんなことするなんて。フィクションだとわかっててもさ」
そう。今は、そんな苛めがあるならすぐに問題にされる。
だからこうして、健全な心が育つ。……というのは、大げさかもしれないけれど。
問題は改善される。
二度とそんなことが起きないように。
「何の話? 僕も加わっていいかな?」
裕子たちの話に加わる。
今は、彼女たちと一緒に送れるこの学校生活を楽しもう。
◇
放課後。
夕暮れの教室に、人影が佇む。
裕子は「今日は用事がある」と言って先に帰った。
教室に残っているのは、僕と、その人影だけだ。
「どうでもいい話を始めましょう」
僕に気付いた人影が、こちらを振り向いて言う。
宣言された会話の合図に、僕は頷いた。
「そうね、まずは……」
言葉を句切って、いたずらに成功した子どものように笑う。
それだけで、彼女が何を言いたいのか、何を言う気なのか、わかった気がした。
「「とある幽霊の物語から」」
完
大学時代に書いたものを手直しして投稿しました。
まずはお試しです。