Ⅲ 刑事
「昨日言った刑事」
「呉です。よろしくお願いします」
中学生に対して椅子から立ち上がり、丁寧に挨拶する刑事に頭を下げた。
仕事が早い。昨日の今日で刑事と対面することになろうとは。
蒼井先生はニヤニヤ笑っている。
「先生、お仕事は……」
「有休を取ってある。患者と警察に協力するなんて良い医者だろ?」
ただの興味本位なのに、理由は立派だった。呉さんは苦笑している。
そんな穏やかな雰囲気の中でも、視線は変わらず後ろから突き刺さっている。
「では早速、腕が切れた状況を教えてください」
「まず座ったらどうだ?」
蒼井先生は椅子を勧めた。僕はいつもの患者の椅子、呉さんは補助の椅子に座った。
「どうぞ」
「いきなり痛みを感じて腕を見ると、切れていました。すぐに辺りを見回したんですが、凶器となるようなものはありませんでした。蒼井先生が言われた薄い金属のようなものも。上から下に走った痛みだったので、下に落ちていないか探したんですが」
空気が揺れた気がした。
まただ。また何かが動揺したように揺れた。
二人は気付いていないのか、動きはなかった。
「何か変わったことは?」
「腕が切れる前に、声が聞こえました。『聞こえているのか?』と」
「声?」
「そんなこと聞いてないぞ」と不満そうに小さく呟いた蒼井先生に、「聞かれていませんから」と小さく返した。
蒼井先生の不満を無視して話を続けた。
「耳元で聞こえました。男性だと思います。近くに人がいないのは、警戒していたんで間違いないと思います」
「声、か。近くに人はいなかったのに、耳元で声……。他には?」
他には。今も続いている異変。
呉さんたちが気付かない、視線。
「視線を感じるんです。ずっと、どこにいても」
「視線? 今も?」
「呉さんの頭の上の方からと、僕の右斜め後ろから」
呉さんと蒼井先生は指差した方を見た。
そこには何もない。何もないから異常なんだ。
視線だけを感じる。
「何もないな」
「何もないのに視線……蒼井先生は感じますか?」
「いや、全く」
呉さんの問い掛けに蒼井先生はあっさりと答えた。
やっぱり。僕しか感じることができていない。
ふと、呉さんは辺りを見回した。
「……微かに何か感じるんです。どこからかは特定できないんですが、見られてるような気はしていたんです」
呉さんの呟きに、思わず身を乗り出した。
自分以外にも視線を感じる人がいる。つまり、気のせいなんかではなかった。
自分は間違っていなかった。
また空気が震えた気がした。
「幽霊とか、そういうのか?」
「今まで見たことないのでわかりません。須賀くんはどう思う?」
「僕も幽霊を見たことはありません。……今感じている視線は悪意を感じますが、危害を加えるような感じはしないんです」
ただ見ている。
それだけだった。
そこに悪意があるのは、見ていることに僕が気付いているからなのかもしれない。
「でも、腕を切られた」
「同じものじゃないかもしれません」
『視線』とかまいたちは、同じものかわからない。
同じでないならば、不可思議なものが増えたことになる。
蒼井先生の的確、迅速な発言に思考がまとまっていく気がした。
わからないまま終わらせたりはしない。
会話が途切れ、呉さんはおもむろに溜息混じりで言った。
「とにかく調べてみますね。もしかしたら、俺を呼んで当たりだったかもしれません」
「心当たりがあるのか?」
「いえ、こういうのが得意な知り合いがいるだけです」
期待しないでください、と続けた呉さんに対し、頭を下げた。
今までのゼロの状態よりかなり良い。理解してくれているだけでなく、解決策を持っている。
顔を上げて、蒼井先生に向き直った。
「有難うございました。治療だけでなく、呉さんを紹介していただいて」
「ただの好奇心だ。解決したら、後で全部話してもらうからな」
蒼井先生の押し付けがましくない親切に、僕と呉さんは頷いた。
その後、呉さんと携帯番号とメールアドレスを交換し、病院で別れた。
『視線』はどこまでも追ってくる。