雨があがる日
カッコウの託卵。カッコウは別の鳥の巣に卵を産み、子供を育ててもらうらしい。
何故そんな事を考えたのかというと、今、目の前で似たような事をした義母が父と修羅場を繰り広げているからだ。
はっきりとした話は聞いてないけど、お互いに怒鳴ったりしてるのを聞くと、たぶんそんな感じなんだと思う。
離れたところでぼんやり喧嘩を見ていたら、つん、と服を引っ張られた。
話の真ん中にいる託卵の卵、弟の哲也だ。
「あず姉」
「なあに」
「俺、あず姉の弟じゃないの?」
心細げに問いかけてきた哲也はまだ十歳だ。私より二つ下のくせに生意気な弟、だったのに。
弟じゃなかったらしい。
「私はお父さんの連れ子ってやつだし、そうなるね」
「そっか……」
うわ、哲也が泣きそうだ!
私はその時初めて慌てた。今までは、なんかドラマみたいだとか思っていて、現実感、というやつが無かったんだと思う。まだ私も子供だし、どうしたらいいのかわかんないし。
でも、目の前で哲也が、ケンカして怪我しても泣かない弟が泣いてるのを見たら、急にいろんな事が現実味を帯びてきて、わけがわからなくなってきてしまった。
結局、私も泣いてしまって、哲也と二人、泣き疲れて眠るまでずっと泣いていた。
両親が離婚したのはその二ヶ月後だった。
わたしと哲也は戸籍上も姉弟じゃなくなって、家族じゃなくなって、別々に暮らし始めて、……そのまんま。
母親に連れられて転校していった哲也に再会したのは、それから六年近くも経ってからだった。
「あずさー、今日の塾の課題やってきた?」
「……うん」
「あーあ、受験めんどいー」
「……うん」
「あずさ? なに、一年見てるの? 知り合いでもいた?」
「え。いや、……ちょっとね」
あいまいに笑って、わたしはもう一度、彼を見た。人垣に囲まれて軽薄に笑う彼、藍住哲也を。
哲也だった。あの、わたしの弟だった哲也だ。
「あー、あの一年、すっごい遊んでるんだってね。うちの後輩が言ってたよ。入学してまだ一月しかたってないのに、もう三人も捨てられたとかなんとか。まあ、顔はいいよね」
「……ゆきの好みじゃないよね」
「とーぜん。あたしには前島がいるもん」
「うわ、のろけだ」
そのまま話題をすり替えて他愛ない話に笑いながら、わたしは哲也のことを考えた。
藍住、は義母の旧姓ではない。なら、再婚したのだろう。
この六年間、彼らとの接点は何もなかった。父は話にも出さなかったし、わたしも口にしずらい話題だった。どうしているのだろう、と気になっても、会う手段は何もなく、連絡を取ることもできなかった。
まさか、わたしが通っている高校に入ってくるなんて想像もしなかった。
「……すごく変わってたけど」
「え? なにか言った?」
「ううん、なんでもない」
ゆきに首を振り、そっと溜め息をつく。入学式で見かけて、一目で哲也だと気付いた。声をかけたかったけど、出来なかった。
哲也がすごく格好良くなってたからじゃない。
お洒落で軽薄な男になってたからでもない。
……あまりにも、その目が荒んでいたからだ。
「あー、やばい。雨降りそうだよ。急ご、あずさ」
「……うん」
わたしはぎゅっと唇を噛み締めて空を見上げた。雨雲で青が見えない空は、苦しくて仕方ない今の気持ちに少し似ていた。
……なにかがあったのだとはわかる。だけど、聞けない。わたしと哲也はもう赤の他人で。昔のように気軽に話しかけるなんて出来ないのだから。
もどかしい想いを振り払いたくて、わたしは早足に歩き出した。
あの日の、哲也が泣いている姿を思い出さないようにしながら。
*****
数日後。わたしは一人で図書室に向かっていた。
ここしばらく雨が降り続き、校内は薄暗い。
静かな放課後の校舎は人気がないせいか、なんとなくよそよそしい感じがする。そんな事を考えながらぼんやり歩いていたら、誰かにぶつかりかけてしまった。
「す、すみませ……っ」
目の前に立つ人物を改めて見て、謝罪の言葉が詰まる。
柔らかそうな茶髪に切れ長の瞳、酷薄そうな薄い唇。哲也だった。わたしがぶつかりそうになったのは、なんと哲也だった。
まるで物語のような偶然に、頭が真っ白になる。
哲也は。哲也は――笑った。見たことのない、顔で。
「謝らなくていいよ。久し振りだね、あず姉」
冷たい笑顔で久し振りと、言った。
「ひ、久し振り……」
わたしはというと、もう、ものすごく狼狽えてしまい、焦りまくった。会うつもりのなかった義弟に会ってしまったのだ。混乱してしまって、とにかくその場から立ち去ろうとした。
「え、えっと……じゃあ、これで」
意味不明なことを口走りながら走り去ろうとした時だ。
どん、と、壁に押しつけられ、哲也の両腕の中に閉じ込められた。
え。
なに、これ。
「なんで逃げんの」
低い、硬質な声で哲也が言う。わたしはおそるおそる彼を見上げ、ひく、と息を呑んだ。
冷たい目で哲也がわたしを見下ろしている。
「に、逃げてなんか」
「無視してたよね」
哲也はわたしの言葉を遮って言った。
「何度も顔合わせてたのに、話し掛けてこなかった」
「……わかって、たんだ」
「なにが。あず姉だって事に? それとも、俺のことちらちら見てた事? どっちもすぐにわかったよ」
切り付けるような哲也の声が痛くて、わたしは睨むように彼を見た。
「わかってたなら、そっちから声をかければ良かったじゃない。なんでわたしばっかり責めるのよ」
「卑怯者だからだよ」
さらり、と告げられて目が丸くなる。……卑怯者?
「自分だけ、関係ないみたいな顔して、すげー腹立つ。……ずるい女」
「っ!」
なじりながら、哲也はゆっくりと顔を傾けてわたしに近づいてくる。ち、ちょっと、これは。
「――調子にのんな!!」
「ぐっ!?」
わたしは思い切り力を込めて哲也の足を踏んだ。よろめいた隙を狙って、彼の腕の中から抜け出す。
そして、言った。
「何があったか知らないけど! 腐ってんじゃないわよ! 馬鹿哲也!!」
子供だった時のように叱りとばすと、哲也は目を見開いてわたしをまじまじと見つめた。わたしはそれではっと我に返り――逃げた。
「あ……待てよ!」
後ろから、哲也が追ってくる。
わたしは止まらない。
だけど、男と女の身体能力の違いは如何ともしがたくて、すぐに捕まってしまった。
「なんだよ、何もしらねーくせに、久し振りに会って説教とか……」
「……」
「……すげえ会いたかったのに」
わたしの腕を掴んだまま、哲也はうなだれている。わたしは何かを言おうとして、やっぱり何も言えなくて、そのまま突っ立っていた。
「……話、聞いてよ。それでチャラにしたげるから」
上から目線だな。
とは思ったけど、でもそうは言わなかった。
哲也はなんだか今にも泣きそうな目をしていたし、わたしも今更もう一度逃げる気にはなれなかった。
「いいよ、聞いたげる」
「……えらそー」
「年上だし……」
姉だし、とは言えなかった。
姉弟じゃないけど、他人とは思えない。微妙で、でもなんだかくすぐったいような感情が、ある気がする。
「だし?」
「なんでもない。ほら、話したいならさっさと話す!」
「なんだよ。ほんとえらそー……変わらないな」
哲也が笑う。六年ぶりに見る、陰のない笑顔に、わたしの胸はなぜか音をたてた。
雨は、きっともうすぐあがる。