豚カツと沢庵
「由布ちゃーん、御飯よー」
「うん…。今行くね」
階下からの母の声に、由布子は心ここに非ず、といった体で返事をした。
あの黒い狐の発言のあと、放心状態のまま狐を見ていた由布子は、大変遅ればせながら本能が告げる危険信号の赴くままにその場から逃走した。二人の友人を置いてきてしまったのは心残りだが、もう一度戻る気にはなれなかった。
黒い狐が、由布子が突然立ち上がったために足の上から転げ落ちてしまった情景を思い出して由布子は身震いした。痛い、と背後で上がった小さな声を無視して全力疾走で家まで帰ってきてしまった。ちょうど玄関前の花壇の手入れをしていたらしい祖母が、驚いた表情でどうしたのかと尋ねてきたのを適当に受け流し、自分の部屋に駆け込んだ。そのままベッドに勢いよくダイブして考えるのは今しがた体験した非日常について。
…祟りとかあるのだろうか。なにせ、お狐様を石畳の上に落としてしまったのだ。制服が皺になることにも考えが回らず、ひたすら唸る。だが、よく考え直してみると、そもそもあれは本当にお狐様であったのだろうか。お狐様が由布子のような少女の足に乗ったりするだろうか。答えは否、だろう。祖母の話をきく限りお狐様は人間に姿を見せたりすることはないらしいし、それにいくら由布子が突然立ち上がったからとは言え、石畳に体を打ち付けてしまうようなへまはしないだろう。
そうだ、やはりあれはあまりの暑さのために由布子がみた白昼夢であったに違いない、と由布子は一人頷いた。
「どうしたんだ、由布子」
隣からかけられた声に驚いて、由布子は噎せた。咀嚼していた米が喉に詰まったらしい。お茶を流し込んで事なきを得た由布子は声の主を恨みがましい目つきで睨みつけた。
「お兄ちゃん…」
「…大丈夫か。お前いつにもまして変な顔してるぞ」
本当に心配そうな表情をする兄・二千翔に、由布子の怒りも何となくしぼんでしまった。一つ年上の兄は現在中学三年生、受験生ということで既に部活も引退し屋内で勉強ばかりしているため、やけに生白い肌をしている。昨年の今頃はもっと…と考えたところで、そもそも二千翔はバスケ部であったため、外で活動している運動部の人と比較したところで今と変わらない程には白かったなと思い直した。
「こら、二千翔ちゃん。由布ちゃんが変な顔なんて言ったら、二千翔ちゃんにもその言葉は返ってくるんだからね」
「…」
のんびりと兄をいなす母であるが、できれば変な顔であるというところを否定してほしかったと、由布子は頭の中で独りごちた。二千翔ちゃん、と未だに幼子のようにちゃん付けで呼ばれる兄もまた非常に複雑な表情を浮かべている。
「そうだねえ。二千翔と由布子はよく似た顔してるから」
「ですよね、お母さん。二人とも本当にお父さんそっくり」
この、どこかずれた母と祖母の会話を聞いている限り、遺伝とはそら恐ろしいものだと思われる。自分はこの血に絶対に打ち克ってみせると由布子は常々思っているのだが、達成できているかは怪しいところである。
「あ、そうそう。由布ちゃんに訊きたいことがあったのよ」
祖母とつらつらと世間話をつづけていた母が、急に思い出したと言わんばかりに由布子を見遣った。
「うちはペットなんて飼えないわよ」
「…は?」
唐突な言葉に目が点になる。テレビなどで動物の映像を見てかわいいなと言ったことはあるかもしれないが、ペットを飼いたいなんて今まで言ったことはないと思うのだけど。
「なに、お前。なんか生き物拾ってきたのか?」
「そんなことしてないよ…」
本日の夜ご飯のメインである豚カツを頬張りながらこちらを半目で見てくる兄、二千翔であるが、由布子が覚えている限りでも今までに犬猫を十匹は拾ってきた前科持ちにそんな目で見られたくはない。母・祖母ともに由布子と同じ思いを抱いたのか何だか残念そうな表情で兄を見た。
「二千翔ちゃん…。下の子ってのはね、上の子を見て育っていくものなのよ」
「誰だったかしらねえ…イヌ一号なんて名前付けたお犬様を家に連れてきたのは」
「…」
我が兄ながらなんてネーミングセンスが無いんだろう。イヌ一号。…これは酷い。というかもはや名前とは呼べないだろう。私は、兄のような人間にはなりたくない。
「…なんだよ、由布子」
じとりと無言で兄を見つめる由布子は、別に、と小さく首を振った。
「由布ちゃんは二千翔ちゃんが散々怒られてたの見てたから、そんなことしないと思ってたんだけどねぇ…」
「わたし動物拾って来たりしないよ」
どっかの誰かさんとは違って。という言葉は飲み込んでおく。隣で小さく肩を揺らした二千翔は目線を食卓とは別の方へ向けた。その姿を視界に留めつつ、由布子は二きれ目の豚カツに箸を伸ばした。母の作る豚カツは数ある好物の中でも1、2位を争うほどの美味しさなのだ。因みに豚カツとの頂上決戦を繰り広げているのは唐揚げである。どちらも実に甲乙つけがたい。サクサクの衣に包まれた肉厚なそれにかぶりつくその瞬間の幸福感と言ったら筆舌仕様がない。
豚カツに舌鼓を打っていると母は顔に怪訝を浮かべ、あら、おかしいわねと小首を傾げた。
「由布ちゃんが帰ってきたとき、足音が二つ聞こえたからお母さん階段の方覗いたんだけどね。由布ちゃんの後ろを着いていく黒い犬が見えたから…」
「…え?」
目を見開いたまま動きを止めた由布子の口から、噛り付いた豚カツが転げ落ちた。
「おい、由布子。何やってんだよ。母さんもさあ、見間違いだろ、そんなの。オレ、隣の部屋に居たけど由布子がドスドス階段上ってくる音しか聞こえなかったしさあ」
早くも本日のメインのトンカツを食べ終えた二千翔は、残ったキャベツの千切りを頬張っている。やっぱり、そうなのかしらと頬に手を当てる母に、疲れてんじゃねえの?と今度は祖母お手製の黄色い沢庵をぼりぼり音を立てて食べる兄、私も見なかったけどねえ、と呟く祖母の言葉が耳を素通りしていく。
犬、今母は、黒い犬と言ったか。
「うっ…うわああああああああ!!」
机の上に落としてしまった豚カツもそのままに、由布子は立ち上がった。早く拾わなくては、といった考えは思考の中にはすでにない。
一瞬にして食卓からは会話が消え去り皆が動きを止めたが、いち早くその状態から回復したらしい二千翔が隣を見上げた。
「な、なんだよ」
「…ら…だ…」
「ああ?なんだって?」
ホラーだよおおおおお!!
叫びは言葉にはならなかった。頭の中はまさに恐慌状態であったが、わずかに残っていたらしい理性の紐が由布子を戒めた。
言えるわけない。
お祖母ちゃんの言いつけを破って、お狐様の社まで行った上に「お狐様」だと自称する黒い狐に出会ってしまったなんて。その上、「不死にしてやる」宣言をうけ、膝の上から落として逃げ帰ってしまった。
「…ばち」
罰があたる。きっとそう言われるに違いない。黒い犬らしきものを見ていないお祖母ちゃんだって、「私も黒い何かを見た気がする。やはりたたりじゃ!」とかなんとか言って大騒ぎするだろう。
一人固まる由布子の傍ら、二千翔はそっと由布子の皿の上に取り残されていた豚カツを頬張った。
「こら!二千翔ちゃん、取るんなら由布ちゃんが落とした方にしなさい」
「……」
「まだ欲しいんならお祖母ちゃんのをあげるよ」
「…いや、うん。もういいや、すいません」
結局のところ、わざわざ怒られると分かっていることを自分から言う馬鹿は居ないということである。
「由布ちゃんは」
「なんでもない…」
母の言葉を遮るようにして呟いた由布子は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。そうして、盗られた豚カツに何ら言及することなく食事を再開した。どことなく青白い顔で好物であるはずの豚カツを頬張る妹の姿に、二千翔は罪悪感を感じたのか、皿の上にこっそりと黄色い沢庵を乗せた。