誰かさんの日常
鬱陶しく喚く小鳥の囀りに、僕は思わず耳をふさいだ。
あぁ、うるさい。なんだよ、僕に何か恨みでもあるのか? この平凡な人生における、数少ない楽しみの一つである睡眠を阻害されるほど、僕は奴らに何かしでかしてしまったのだろうか?
起きようとする意思(極小)に反して、なかなか開こうとしない瞼を無理やりこじ開けると、カーテンの隙間から漏れる光の筋が見えた。
朝の到来、それは、僕にとって最も憂鬱な事柄の一つだ。
迫り来るのは、『日常』という名の変わり映えのない毎日。朝、目を覚ますことで、それを改めて思い知らされる。
「うぁ……あー」
まだまともな発声ができる段階にない声は、まるでゾンビのようだ。死んでないけど、生きてもいない――あながち間違いではないのかもしれないな。
そんな余計なことを考えて、二度寝するのも面倒くさくなってしまった僕は、ナメクジのようにズルズルと布団から抜け出すと、顔を洗うために洗面所へと向かった。
たいして美味くも不味くもないトーストが、親切にも、僕の眠気を覚ましてくれる。只今七時四十五分。どうやら、早く起きすぎたようだ。これでは、キッチリ定時に学校に着いてしまう。
超絶真面目人間な僕は、義務教育でもない高校生という職業を甘んじて受け入れ、毎日のように職場に向かうという聖人の鑑のような暮らしをしているのだ。自分でも恐ろしいと思っているよ、うん。
何かネットゲームでもして時間を潰そうとも思ったが、昨日の夜にパソコンが過労死(享年半年)したことを思い出す。メモリーを最大限まで活かした状態(主に自身の欲求解消のため)での労働過多が原因らしい。
これで破壊台数は遂に四つ。僕の雀の涙ほどの財産を鑑みても、そろそろ使用法を改善すべきかもしれない。
「仕方ないか……」
非常に残念なことに、パソコンを利用すること以外に暇を潰す方法が思い浮かばなかった。もしかすると、これが俗に言う『ネット中毒』というやつなのかもしれない。……まだ手遅れでないことを祈ろう。
残りのトーストを味わうつもりもなく水で流し込み、空っぽの鞄を持って家を出た。
『日常』というのは、ひどく退屈なものだと僕は思う。
平凡な『日常』を望むということは、つまりは変化を望まないということ。所謂、終焉のない無限回路。そんな人生のどこに魅力があるというのだろう?
「人間の進化は、変化への好奇心から起きていると言っても過言ではない」そのような内容の文章を昔読んだ記憶があるが、当時からひねくれていた僕でも、その文面にはひどく納得させられた。
世の中には『固定観念』というものがあり、人はそれに縛られて生きている。
「これはこういうものだと決まっているから、それ以上でもそれ以下でもない」という、一般常識とも呼ばれるその凝り固まった考え方は、まるで『進化』という中身を覆い隠す外殻だ。その堅い殻をぶち破ることで漸く、人は『日常』から抜け出せるのだろう。
――まあ、今の僕は、殻を破る力も手段も、もちろんやる気も持たないただの高校生でしかない訳で、しばらくは、この『日常』ってやつに縛られて生きてみようかなと思う。そうやって、見えない鎖に絡め取られていっている気がしなくもないけど……うん、そうだ。僕はパズルのピースだ。世界に数億と散らばっている、『人』という名のピース。いつか自分が、パズルを組み立てる上で必要になる時まで、ゆっくり待っているとしようじゃないか。
最も、僕が簡単に型に嵌る訳が無いけどね――いや、冗談抜きに。
いつの間にか、市街地から大通りに到達していた。僕と同じ制服を着た、同学年の生徒と思しき人が多く見られるが、顔と名前が全く一致しないのは……うん、いつも通り。
目の前からは、遅刻したのであろう小さな小さな小学生が、真っ黒いランドセルを揺らして走っている。うんうん、僕も昔はよく遅刻したものだ。あれ、今も変わらないっけ? まあ、これもいつも通り。
おっと危ない、赤信号だ。ここら辺りには、信号がやたら多く設置されている。車の行き交いが異常に多い故らしいが、生徒達からしてみれば、幾度となく登校を妨げられるのは非常に厄介だろう。無論、僕にとっては万々歳な訳で、これもいつも通り。お、青だ。
ふと後ろを向くと、腰を曲げながらゆっくりと横断歩道を渡る亀の甲もといお婆さん。……なかなか素晴らしい移動速度だ。うさぎとレースして、調子に乗ったうさぎが休憩をとっても余裕で勝てるくらいの――――
衝突した。
何が、と聞かれると、自分でも最初は訳が分からなかったが、すぐにそれが車同士の正面衝突であると理解することができ、尚且つ、そこは先程まで亀の如きスピードの老婆が、歩くと言うにはおこがましい程度の移動法を行っていた場所であることも、瞬時に把握した。
破損した車体から漏れる煙の隙間から、おそらく老婆のものであろう真っ赤な液体が微かに見て取れる。
ガソリンかもという、車についてほとんど知識がないと簡単に推測できる楽観的観測を一応してみる。しかし、割れたフロントガラスに所々こびり付くピンク色の物体を発見し、すぐにそんな考えは砕け散りましたとさ。しばらく肉が食べれないな。
そこで起きたのは、一目見ただけでも理解できる惨劇。大きな事故が起こり、人が死んだという事実。しかし、これは……。
「――うん、いつも通りだな」
こんな所で時間を潰していてもしょうがない。さっさとこの煙たい空間から抜け出そうじゃないか。
周囲を一瞥してみると、流れゆく人々は、まるで何もなかったかのように――いや、まるでそれが当たり前のように、見向きもせずに過ぎ去ってゆく。
まあ、それはそうだろう。だって、これは当たり前のことなのだから。
ブブブッとバイブレーション。どうやら携帯の緊急メールらしい。 なになに……昨日の全国の殺人事件件数は千六百二十九件か。うーん、さすがに五日連続の記録更新とまではいかないな。
あれ? ちょっと、そこのサラリーマンのお兄さん。これ、落としましたよ、コンバットナイフ。ダメですよ、こういうものは丁寧に扱わないと、盗まれたら大変ですよ。
あ、おはよう委員長。今日も、割れた頭に刺さった包丁が綺麗だね。長さとか、刃の質感とかが変わってるけど、もしかして銘柄変えた? ああ、やっぱり!
え? 「狂ってる」って?
何言ってるんだ、こんな些細なことは、毎日起こっている当たり前の『日常』じゃないか。
全く、嫌になっちゃうぜ。もうちょっと日々に変化をもたせて、違う景色を見せてくれたら、こんなに退屈することもないのに……。
……何だよ、そんなに変なことかい? でも、これは僕にとっては、立派な『日常』の一部なんだよ。これまでに何度も見てきたし、これからも見続ける僕の世界。素晴らしく平凡で、刺激のない世界じゃないか。正直、君がそこまで驚く理由が何一つ分からないんだけど。
――ああ、もしかしてさ、
「狂ってる」のは、君の方なんじゃないの?
『日常』
常日頃、普段、平生。




