第一話 稲城イナバ
「イナバ君おはよう!」同じクラスの女子高生が僕の肩を叩く。僕の小さな身体は、その一撃で前に吹っ飛びそうになる。
僕は稲城イナバ、七歳。118cm 24kg。髪型は黒い短髪。この学校に飛び級で入学してきた僕は、いつも通りの時間に登校し、平和な学園生活を送っている――。
夢だ! と、自分自身の叫び声が聞こえる。
それはおよそかなわぬ夢だ。
目覚めと共にあっけなく忘れ去られる、ひどく儚い夢だ。
バタバタバタバタバタ……。音がする。V-22オスプレイのローターが、防音機能の付いたヘルメットの向こうから音を響かせている。どれほど眠っていたのだろう。稲城とあろうものが睡眠時間を管理できぬようでは……とそこまで考え、思い直す。睡眠は必要だ。人は休養のために労働しているのだと、父も言っていたではないか。
だが自分が目覚めた理由はそれだけではあるまい。何かの異常事態が発生したのだ。そうでないなら、なぜ稲城イナバはここにいるのか。
「状況は?」
「ケルビム級の群れ、八、いや、九体がレーダーに映っています」
「撃墜は可能か?」
「無理です。オスプレイは輸送機ですよ?」
「先導していた自衛隊の対戦車ヘリ、AH-1Sコブラはどうした?」
「さきほどから応答がありません」
「わかった。最悪のケースを考えろ。護衛機は撃墜された。オスプレイは丸裸だ」
「で、どうするつもりです? イナバ殿」
「後部ハッチから身を乗り出して、ケルビム級九体を撃ち墜とすしかないだろう。相手は天使だ。白旗を揚げて慈悲を乞える相手ではない」
「そんなことが可能だと思いますか?」
「不可能を可能にしてきたのが稲城家だ。全責任は僕が取る。後部ハッチを開けろ。天使と接触後、急旋回して全天使を射程に収める!」
天使との接触。それは大抵の場合、絶望を意味する。
特に上空で網を張るように待ち伏せする、人間大のケルビム級は、全航空機の進路を妨害する悪夢のような存在といえた。
後部ハッチが開かれる。命綱を取り付けた稲城イナバは、ハッチから身を乗り出す。その手に握られるのは米軍の制式採用拳銃、ベレッタM92FSだ。
有効射程はたったの50メートル。航空機にとっては肉薄とでもいうべき、冗談のように短い距離である。
「ケルビム級と接触!」報告が入る。ケルビム級の主兵装は剣である。それはあらゆる装甲を紙のように切り裂く。主な戦術は全方位からの白兵戦、つまりわらわらと纏わり付いてきて、一匹でも逃せばアウト、という事である。
稲城イナバは無言で腕を固定し、照準を定める。自身への指令は既に終えている。視界に入るもの全てを撃墜せよ。一つたりとも残さずに。
ヘルファイア 対天使9mm純銀爆裂弾は、天使の結界を貫通する数少ない純銀武装の一つである。取り扱いは9mmパラベラム弾に準じる。
ベレッタM92FSの銃口から放たれた9mm純銀爆裂弾は、ケルビム級――六枚の美しい羽を持つ――の頭部へと、次々に吸い込まれてゆく。機体は急旋回中。視界の隅で、ケルビム級の頭部が結界ごと爆発四散する。そのころには、イナバは次と次の天使を射程に捕らえている。
一体たりとも撃ち漏らしてはならない。それは稲城イナバに、通称リトルデビルに課せられた最初の試練。装弾数15発。うち、射撃は11回。残弾数4発。複雑な機動を行う天使二体に、念のため二発ずつ撃ち込んだ結果であった。
イナバは冷静に、万が一にも十体目の天使が存在しないかと、目を凝らす。広がるのは青空ばかりである。そこは静かで――いままで天使たちが居て、絶体絶命であったことが嘘のようである。
天使九体撃墜。十体撃墜でエースと呼ばれるこの時代に、稲城イナバは転校初日から順調にスコアを伸ばしていた。