わたしがわたしをしるたびに、きっと深い夢をみていたんだ
洗面台の鏡を覗いてみると、どこからともなくリンゴの姿をした虫が私の顔面に貼り付いた。
――夢は不条理、そうは思わぬか? ――ロビンフッドは確信を得ていない。
――得ることと産まれることは違う。 ――失うことと儚くなることが違うのと一緒である。
……微睡む私はそのまま寝床に沈んだ。
斜陽に空は染まり、家々とする世界の拒否感に苛まれる。
…………。
……………………。
ピンクの平屋の表札を二度見した。
【柄本】ではなく、【辛本】。
「…………」
紅く濡れた右手の女。
「…………」
鼻血を垂らし、こちらの顔を覗く男。
ここは既知で実家なのだとこころで想うたび、未知なる新婚夫婦が位置に立つ。
「私は家主だ」
朦朧としてそう言うと、リクルートスーツの男女はそっぽを向いた。
あの家を後にすると、視界にあった川沿いの公衆トイレはスポーツ用品店へと様変わりしていた。
ソーラーパネルの敷かれた屋根に既視感と哀愁を覚えながら、私は遠巻きにここを去る。
いてはならない気がしたんだ。
意思を掬ってくれたのか、足元を掬うつもりだったのか、私の両足は脳内信号をスルーする。
「君はダメだよ。 君の物語は終わってない。 夢に逃げたら現実には帰れない」
金髪ツインテール、灰色の瞳。
ミステリアスな少女のようで、艶めかしい目であざとく見てくる君はきっと男の子。
逆バニーでハート型とダイヤ型のマイクロビキニ、バニーの右耳にはスペード型のアクセサリー、ヒト耳の左耳にはジャック型のイヤリング、白い布手袋、黒いストッキング、真っ白な丸い尻尾、両方の太腿に巻かれたガーターベルトには実銃が装備されている。
股間には金のファスナーがあり、下腹部の金具と南京錠で繋がれている。
「私は君と野菜炒めを盛り付けたい」
斜陽の空を切り取られ、私と彼の四方をトランプのクイーンに囲まれて、私の右手には人参が握られている。
「北風をその身に浴びて、お日様の光を受けるといい。 コードナンバー09、アリスの言うことは絶対だよ」
斜陽は私を見つめている気がした。
「人狼ゲームを始めよう。 わたしは太陽、あなたは月。 苫小牧に東の空が巡る時、埼玉県朝霞市黒目川には赤黒い河童が顔を覗かせてくるわ」
知らない天井。
知らない壁面。
窓も扉もない白い部屋。
「指相撲がしたい。 君の黒い髪を絡めながら」
ちゃぶ台の向こうから真っ黒な瞳の奥で微笑んでみせた。
「柄本なら川の向こうに居るわ。 わたしのサンドウィッチをお食べになってから探しにいくといいわ」
白い皿、白いパン、黒いムカデ、黒いアリ、黒いタランチュラ、黒い、黒い、黒い……。
咀嚼、咀嚼、咀嚼、咀嚼、咀嚼、人参は牛蒡ではない、牛蒡は大根だった、大根は人参であり牛蒡ではない。
斜陽は嘲笑っていた。
感情を宿す瞳孔のように、動向を窺う監視のように。
私はいま、黒目川の中に立っている。
左右の桜に見下ろされ、私のリクルートスーツは濡れ、赤黒い河童は頭の皿に盛られたマーガリンを水掻きで掬ってみせた。
「お前は寒さを感じない。 春の陽気もきっと知らない。 登別のクマ牧場は新座のダチョウ園を知る由もない」
マーガリンを五本の指に纏わり付かせ、それを口へと運んでいた。
「平安京の枝豆を知っているか」
「渡辺綱は鬼しか斬らない。 マーガリンだって理解してくれる」
息を吸う、息を吐く。
「つかぬことをお聞きしたい」
「柄本はもういない。 マーガリンは枝豆を熟知したい。 苫小牧ならネギ畑に植っている。 映画のことなら映画の男に聞けばいい」
新座デオシティの映画館。 客もスタッフも居ない。
ネギ畑は天井に作られ、斜陽はきっと知る由もない。
「ここがよく解ったね。 キミの目的はきっと苫小牧シャーク以外なのだろう、僕には理解できる」
ただ一人、緑を生やすこのイケメンは映画の男に他ならない。
――――パシャリ、と両手持ちのレンズは一瞥。
「フランスの裁縫工場に咲くのはピンクのスイートピー、作業服の妖精、走り出す馬車と犬。 じきにここから出られるよ」
脳裏を巡る難解な一言。
【終わりの始まりを告げる日常よ、全てはここから始まった】
「映画のポスターが埋まったね。 キミにはこれが最後でも、僕にはこれが初めてになるんだ」
男の肩から垂らすピンクのセーター袖が揺れる。 首を傾げる。 そして微笑む。
「工場とスイートピー……いいね、このフィルムは【ファクトピーズ】と名付けよう」
白くて小さなケースに筒状のフィルムを収める男。
「私はここから帰りたい。 柄本の家へ帰りたい」
「黒目川に棲む河童の言う通り、柄本はもう……辛本へと置換されたんだ。 胡蝶の夢に生きるたび、誇張の夢からは出られない」
私は柄本ではなく、辛本なのか?
私の背後で担架に乗せられた宮本武蔵と佐々木小次郎……という名札を提げられた死体が劇場2番へ運ばれる。
「キミはここに留まるべきではない。 僕もこの夢を出ることにした。 夢現の映画なんて、第四の壁を履き違えていて気味が悪いんだよね」
窓の向こうで斜陽は瞬きをした。
あれは瞳だ。 瞳でなければ何なのだ。 あの太陽は誰なのだ。
太陽の裏から黄色い触手が伸びてきた。
「お前は誰だ、私も誰だ」
……全にして一、一にして全……
「幻夢境は歓迎しない。 銀の鍵がないなら布団は二度と吹っ飛びはしない。 宇宙の外は何もない」
――夢から出ていけ。 ――夢から出ていけ。 ――夢から出ていけ。 ――夢から出ていけ。
知っている天井。
知っている壁面。
【ディゾルブ】
私を知る知らない男と人狼の女。
私は私を知る旅を、今の今ごろ終えたのか。
窓の向こうで斜陽は砕け散り、夜の先に盛陽を見た。




