富士山の見えない場所へ ―三時間後の富士山噴火を予知した僕は、ママチャリで日本海を目指す―
加筆修整して短編にしました。
新宿歌舞伎町の最奥。
賑やかな街の雑踏の隅の湿った雑居ビルの地下に、その日暮らしのフリーター、桜塚融25歳のすべてがあった。
一畳半の薄暗いネットカフェの個室は少し湿った空気で淀んでいる。
フラットシートの上に広げられた使い古しのバックパックと、そこに収まるだけの私物が彼の全財産だ。
友人も恋人もいない。
東京に出てくるときに捨てて来た家族は、遠い地方の小さな島にいる。
今の融は、日雇い派遣の倉庫番や解体業でその日暮らしを繋ぐ、都会の底辺に溶け込んだただの「透明人間」
それが、現実社会における現在の融の姿だった。
その日暮らしのフリーターとして、ネットカフェを転々とするようになったのは、最初の会社が倒産した時に、会社の寮を出てからだ。
もちろん這い上がろうと自分なりに頑張った。だが、まるで泥だらけの崖を上るようにずるずると滑り落ちるだけの数年間だった。
だが、融にはネットの片隅にもう一つの顔がある。
X(旧Twitter)のアカウント名、『@預言者_3hour』
「11時04分、池袋駅ホームで乗客がスマホを線路に落とす。怪我人なし。遅延15分」
「11時55分、渋谷センター街のカフェでボヤ騒ぎ。30分で鎮火」
一秒先から三時間後まで見える半径100キロの未来を、脳内の映像から引きずり出し、ただ無機質に呟くだけの場所。
融のその最後の逃げ場所は、「的中率百パーセントの不気味なオカルト垢」として、知る人ぞ知る都市伝説のように囁かれていた。
フォロワーはほんの数十人。三桁には届かないその数が、ネットでも現実と同じように融の存在感だった。
そう、ただのモブ。
いや、下手したらただのモブ以下の薄すぎる存在感。
でも、何者かになりたいなんて思っていない。昔は何者かになれると思って逃げるように上京してきたが、自分は、排他的な田舎からただ逃げたかっただけだと、この賑やかな街を見て否応なしに思い知った。
この街では、隣りにいる人のことを気にしない。
特に会話を交わす必要もない。
それだけで融は深呼吸ができる気がした。
子どもの頃、島の人々に「化け物」と疎まれ、奇異の目に耐えかねて東京へ逃げてきた呪いの能力は、今や都会の孤独を紛らわせるだけの、細い糸のような趣味に成り下がっていた。それでもその糸を離せないのは何故なのかいまだに融自身にも分からないでいた。
――ガツン、と脳の奥を鉄パイプで直接殴られたような激痛が走ったのは、真昼の十二時十五分だった。
夜勤を終えて、いつものネカフェに入り、ウトウトし始めた頃だった。
融は耳栓代わりのネカフェのヘッドホンを弾き飛ばし、シートの上で拒絶反応のように身体を丸めた。
きた。未来視だ。
だが、こんなに強い頭痛は初めてで息苦しくなる。
何とか息をしながら視界の裏側に流れ込んできたのは、これまで経験したことのない、圧倒的なマクロの破滅映像だった。
映画館のスクリーンを見ているかのような映像と音。
(……なんだ、これ。山、か?富士山……?)
視えたのは、三時間後の未来。
午後十五時十五分の景色だ。
美しい稜線を持つあの富士山が、信じられないほどの激しさで爆発していた。
山の途中が文字通り吹き飛び、割れた山肌から超高温の火砕流が濁流のように流れ出し、周りを呑み込んでいく。そして5分後、今度は山頂から激しい爆発。
天を衝くほどの巨大な噴煙は数キロ先まで広がり、太陽の光を完全に遮って、世界を漆黒の夜へと変えていく――。
「う、あ……」
冷や汗が吹き出し、奥歯がガタガタと震えた。
富士山が、本当に噴火する。
今日、これから。
あの美しい山が――
融は這い上がるようにしてブースのパソコンの前に座り、狂ったようにキーボードを叩いた。
富士山噴火に関しての危険情報は今は何もない。
だから調べるのは、見えてしまった現象からはじき出される予測だ。
『富士山 噴火 被害予測』
『火山灰 東京 何時間後』
モニターの光に照らされた融の目は、現実のシミュレーション結果を冷徹に追った。
――噴火から約三時間後、火山灰の第一波が東京全域に到達。
――数センチの降灰で、鉄道の架線はショートして運行は完全停止。
――電気、ガス、水道、公共交通機関の生活インフラは全滅。
夜になれば、視界はゼロ。
マスクがなければガラスの微粒子で肺がズタズタになり、窒息死する。
防じんマスクとゴーグルは必須。
考えたこともなかった地獄の様相の予想がそこには並んでいた。
「三時間……」
未来視の通りだ。
十五時十五分に噴火すれば、十八時にはこの新宿も、動かない鉄の箱に変った電車も、すべてが真っ黒な灰に沈む。
融は震える手でスマホを開き、『@預言者_3hour』の投稿画面を立ち上げた。
これが、このアカウントの、そして東京での最後の仕事になる。
@預言者_3hour
「本日15:15に富士山が噴火します。18:00には東京が灰で埋まり、全ての交通機関が完全に止まります。生活インフラも全滅です。冗談じゃありません。今すぐできるだけ西へ逃げて。本当です。これがこのアカウントから発信する最後の予言です」
投稿ボタンをタップすると同時に、融はスマホの画面を上からスワイプし、飛行機のマークを力強くタップした。
「機内モード」
これでバッテリーの消耗を少しは抑えられるはずだ。
ポツポツ届き始めたリプライの通知が、ピタッと止まる。
電波を断たれた画面には、切れる直前に読み込まれた、見知らぬ誰かからの『信じて今すぐ西へ向かいます』という数件の文字だけが残った。
これで自分の人生が他人に必要とされた証拠は守られた。
三時間後、本当に富士山が噴火すれば、警察は必ずこのアカウントにたどり着くだろう。
スマホは捨てていったほうがいいかもしれない。だが、この中には今の自分のすべてがある。手放すことは少しでも肯定された自分も捨てる気がして怖かった。
もう一度画面を見て、GPSの位置情報をオフにし、電源を切った。
「……あと、二時間四十分」
遠くに逃げるにはあまりにも時間がない。
だが、今ならまだ電車は動いている。
融はバックパックに荷物を押し込み、立ち上がった。
財布の中身は日払いの給料をもらったばかりで、残金は1万円札が一枚と、千円札が七枚と小銭だけだった。
(これでどこまでいける?)
飛行機も新幹線も時間的にも予算的にも無理だ。
何よりどこへ逃げればいい?
故郷へ帰るのは絶対にごめんだ。
(なら……日本海側だ)
そう決めた瞬間、極限の緊張と恐怖から、喉がカラカラに干からびていることに気づく。唾液すら出ない。
これから始まる逃亡を思えば、喉の渇きは間違いなく致命傷になる。
融は手元にあった空の500ミリリットルのペットボトルを掴み、個室を出て無料のドリンクバーコーナーへと向かった。
手元の現金は、地方へ逃げ延びた後の命綱だ。一円たりとも無駄にはできない。融は周囲の目を盗み、ドリンクバーのノズルから冷水を空のペットボトルの口へとなみなみと注ぎ込んだ。
溢れる寸前でキャップをきつく締め、リュックのサイドポケットにねじ込む。ついでに今の喉の渇きを潤すために紙コップで水を飲んでおくのも忘れない。
それからふとセルフコーナーの隅に置かれたプラスチックケースを視界に捉える。
中には、朝の時間に余って乾燥しかけている、あるいは誰かが手をつけて残していった、干からびた六枚切りの食パンが二枚、ぽつんと取り残されていた。
普段の融なら見向きもしない。
だが、今は違う。
融は周囲の目を盗み、今度はそのカサカサの食パンを素手で掴んだ。一円も無駄にできない。一粒のカロリーすら惜しい。
融は食パンを二つに折り、バックパックの底に敷いたビニール袋の隙間へ、形が崩れるのも構わずぐいぐいと押し込んだ。
「……これで、半日は繋げる」
水分と、わずかな炭水化物。最低限の「生への切符」をネカフェから掠め取り、融は一度ブースに戻ると忘れ物がないか確認し、受付の伝票を掴んだ。
受付でいつも通りけだるそうにしている店員に伝票を叩きつけ、チェックアウトを済ませる。
地上へ出ると、秋が始まったばかりの昼下がりの歌舞伎町はまだ、何の緊迫感もない、いつも通りの呑気で賑やかな街だった。
街のビルの時計を見ると、午後一二時四五分。
せわしなく歩くスーツ姿のサラリーマンを横目に、融は約二時間半先の地獄から、今必要なものを脳内で逆算した。
全財産は一万数千円。
足早に向かったのは、歌舞伎町入り口の何でも売ってる通路の狭い店だった。
本当は今すぐ電車に飛び乗り逃げたかったが、何の準備もない状態では即詰む。少し我慢して、最低限必要なものを買っておく。
だが、安いからと下手にあちこちの店をはしごしている時間はない。
ここなら欲しいもの、必要なものがほぼそろう。
爆音で流れる陽気なテーマソング。
のんきに買い物をする観光客や若者たち。
そんな狂騒の中、融の脳内には、必要なアイテムのある棚がピンポイントで光って視えていた。
これも未来視の力の派生だ。
必要なものを念じると、そこまでの最短ルートが分かる。
迷路のような売り場を迷いなく爆走し、三階のキッチンコーナーで直径二十二センチのステンレス製ボウルを掴む。
ヘルメットを買う金のない自分が考えた、安価で手に入るなんちゃってヘルメットだ。
(これなら頭に被れば、上から落ちてくるものからの致命傷にはならない)
そのまま上の階の工具・ワークウェア売り場へ直行し、現場用の本格的な「防塵作業マスク」を何組かと花粉症用のゴーグルを買い物かごへと回収。大きめのキャップも入れた。
さらに、棚の奥に見えた乾電池式のLEDヘッドライト、レジ近くのモバイルバッテリー、単三と単四の乾電池を入れる。
それから食品売り場で大袋の塩飴と氷砂糖、チョコレートの大袋をカゴに叩き込む。
喉の潤いと必要カロリーを瞬時に考え、最低限かつ安く最も効率のいいものを選んだのだ。
それから安い絆創膏を一箱と長袖の合羽を一組。
その時ふとラジオコーナーが目についた。
スマホは情報収集には最強だ。
だが同時に、自分の居場所を知らせる発信機にもなる。
ならば必要なのは、こちらから発信せず、情報だけを受け取れる道具だ。
融はラジオコーナーに並ぶ、一番安い乾電池式ラジオを手に取った。
最後に文具コーナーで、蛍光イエローの大きめな強粘着付箋と油性マジックを引っ掴んだ。
会計前にサイズ確認をしておこうと、融は大きな鏡の前に行き、いつも被っている薄汚れた黒いキャップを脱ぎ、冷たいステンレスのボウルを頭にスポッとハメた。その上から、たった今カゴに入れた一番大きなサイズの黒帽子を強引に被り直す。 ボウルのせいで頭の形が少し不自然に丸く、大きくなっている。
だが、キャップのツバを深く下げれば、外見は「ただの冴えない、頭の大きな男」にしか見えない。
中に金属の防具としてステンレスのボウルを仕込んでいるとはよほど注意して見ない限り、誰も気づかないだろう。
会計を済ませ、残り数枚になった千円札と小銭、一万円札を財布の奥へと滑り込ませる。
時刻は十三時十五分。
あと二時間。二時間でどこまで逃げられるだろうか。
ネカフェを出る前に一応、日本海側に出るルートは調べておいた。
まず新宿から中央線で高尾方面へ向かい、そこから長野方面へ向かうと決めていた。どこまで行けるかは分からないが、降りた先のことは降りてから決めれば良い。
不審者そのもののボウルキャップを深く被り直し、バックパックの重みを確認した融は、新宿駅の券売機で、カードのチャージ残金は200円足らずしかなかったことに気づく。どこまで行けるか分からない上にチャージがこの先できる可能性も低く、改札で手間取るのはごめんだったので、貴重な千円札を一枚だけチャージに回した。
改札を抜け、中央線のホームへ震える足のまま階段を駆け上がる。
タイミングよく、まだ通常運転している中央線の快速電車が、ホームに滑り込んでくる。
(よし、特別快速だ。終点に少しは早くつく)
融は乗客たちの雑頭に紛れ、電車の座席に深く腰掛けた。
誰もがまだ、いつも通りの日常を生きている。
約2時間後に、あの美しい山がすべてを無に帰すことも知らずに。
ガタゴトと揺れる車内、融はリュックから付箋とマジックを取り出し、震える手でこれからの「生存ルート」をガツガツと書き殴り始めた。
規則正しい振動を刻みながら、中央線の快速電車は多摩地域の退屈な住宅街を高尾方面へと突き進んでいた。
車内は、どこにでもある平日の昼下がりの風景だった。
イヤホンを耳に突っ込んで動画を見る男子学生、熱心に社用スマホの画面をタップするスーツ姿の男、買い物袋を提げて居眠りをする主婦。
誰もが、数時間後も同じように続くはずの日常のレールに乗っていた。
ただ一人、車両の隅で奇妙なボウルキャップを深く被った融だけが、世界の終わりを運ぶ座席に座っていた。
融は百均の蛍光イエローの付箋に、電車で移動中の出来事を文字にして視認する。
『松本方面行の電車へ乗っている最中に噴火の一報が入る』
その先の行動はいくつかの道に分かれて視えていて、今の時点では決めきれない。
ペンを持つ指先が、自分のものとは思えないほど冷たい。
(本当に噴火するのか。本当に、あの美しい山が)
ネカフェで視た、山頂が吹き飛ぶ富士山の凄まじい光景が、網膜の裏側に焼き付いて離れない。
違うと思いたい。だが、視えてしまったものは否定できない。
喉の奥で生唾を飲み込む。喉の奥がヒリヒリと鳴った。
融はリュックのサイドポケットからドリンクバーの水を詰めたペットボトルを抜き出し、一口だけ喉に流し込んだ。
ぬるい水が、辛うじて叫び出したい気持ちを押さえつける。
時計の針が、14時半を回った。
特別快速が高尾駅のホームへ無事に滑り込み、時間通り高尾駅に着いた。
(よし、松本方面行きは……)
電光掲示板を見ると、5分後に向かいのホームから松本行きの普通列車が発車するために停まっていた。
融は、一瞬だけ考えて、ホームの自動販売機でお茶を買っておく。
もうペットボトルの水を半分は飲んでしまった。この先、どこで水を補充できるか分からない以上、荷物が少し重くなったとしても、余分は必要だ。
ホームを上がり、向かいの発車待ちの電車に乗り込む。
そろそろ学生の下校時間なのか、車内にはちらほらと中学生や高校生の制服姿があった。
電車が発車する。
これでどこまで行けるかまではシミュレーションはできていなかった。
できるだけ、行けるところまで。
それしか考えていなかった。
ガタゴトと各駅停車の電車が松本方面へと走っていく。
山を抜け、時折町が見え、融のチープな腕時計が午後3時14分を指す。
あと一分。
融はマジックペンのキャップを閉め、付箋をリュックのポケットに仕舞い込んだ。
それから水を一口飲んでおく。
身体の芯がガタガタと震え出す。
隣に座るサラリーマンが、頭をハメ直すように身じろぎした融のボウルキャップを、一瞬だけ怪訝そうに見た。
だが、すぐにスマホの画面へと視線を戻す。
そして――十五時十五分。
突如、世界が激しく鳴った。
キィィィィィィィィン! と、鼓膜を引き裂くような金属の摩擦音が車内に轟く。
立っていた乗客たちがドミノ倒しのように床へ転がり、網棚の荷物が派手な音を立てて落ちてきた。
融は座席の手すりに必死でしがみつく。
凄まじい緊急ブレーキだ。
車輪が線路を削る不快な振動が、シートを通じて直接脳髄を揺さぶる。
次の瞬間、車内の全スピーカーと、乗客たちのポケットの中にあるスマホが一斉に、あの狂ったような大音量の警告音を鳴り響かせた。
【緊急速報:富士山で大規模な噴火発生。周辺住民はただちに――】
「うわっ、なんだこれ!?」
「は?富士山噴火!?」
「マジかよ!!」
車内が一気に蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
電車は、四方津駅駅の手前、住宅街が見える場所で完全に急停止していた。
居眠りをしていた主婦が悲鳴をあげ、学生たちが窓にへばりついて外を見る。融もまた、ボウルキャップを抑えながら窓の外を仰ぎ見た。
はるか西の空。
秋の澄んだ空気に、いつもなら美しいシルエットを見せているはずの富士山の方向から、昼間を墨汁で塗りつぶすような、巨大で禍々しい黒煙の柱が天に向かって立ち上るのが見えた。
「マジかよ……本当に噴火したのかよ……」
「嘘だろ……」
誰かが絶望的な声で呟く。
乗客たちは狂ったようにスマホを操作し、ニュース動画やSNSのタイムラインを貪り始めた。
融はスマホをポケットの中から取り出さなかった。
電源を落とした画面を見る必要はない。
今、ネットの向こうの『@預言者_3hour』のタイムラインが、恐怖と陰謀論でどれほど爆発しているか、そして警察が自分の電波の「最後の足跡」を追ってどれほどの速度でこちらに向かっているか、容易に想像がついたからだ。
それよりも、融の脳内に割り込んできた、「三時間後のこの車内のビジョン」が彼の息の根を止めにきていた。
(……ひどい、な)
脳裏に再生される一秒先の、そして三時間後の最悪の未来。
午後十八時。外は真っ黒な火山灰の嵐。
架線がショートし、この中央線の車内は完全な停電に陥っている。
エアコンはとっくに停止し、密閉されているはずの車内のあらゆる換気口から、容赦なくガラスの微粒子を含んだ灰が吹き込んでいる。
乗客たちは暗黒の中で、喉を掻きむしり、血を吐きながら、互いの身体を押しつぶし合って窒息死していく――。
『安全が確認されるまで、電車のドアは開きません。車内のお客様は、そのまま動かずにお待ちください』
スピーカーから、動揺を必死に抑えた車掌のアナウンスが流れる。
乗客たちは「なんだよ、開けろよ!」「早く動かせよ!」と口々に怒号をあげ始めるが、まだ誰も「ここから自力で脱出する」という発想には至っていない。
国や鉄道会社が、いつか助けてくれると信じているのだ。
だが、この鉄の塊の中で彼らは死んでいくのだ、このままでは。
そして。
(ここにいたら、僕も死ぬ)
猶予は、灰が東京周辺全域を包むまでの3時間あまり。
「おい、これ見ろよ」
高校生がスマホの画面を隣の友人に見せている。
「これ、三時間前に、今日富士山噴火するって予言してるアカウントらしいぜ」
自分のことだ。
一瞬動きを止めて、彼らの言葉に集中する。
「うわ、ほんとだ。って、アカウント名が予言者かよ」
「でもリプライ見たら、信じて動いてるの結構いるっぽいぜ」
「それ以上に詐欺アカウント扱いされてるけど、ほんとに噴火したってことはガチ預言者?」
「そうだとするなら一か月くらい前から注意喚起してくれりゃいいのにな」
(一か月前にわかるなら、僕だってそうしたかったよ)
でも良かった、信じて逃げてくれた人はいるみたいだ。
融はバックパックを背負い立ち上がった。
周囲の乗客がパニックで右往左往する中、ボウルキャップを被った不審な男の動きに目を留める者はいない。
融はドアの脇へと歩み寄り、座席の下にある赤いレバーを見つめた。
「非常用ドアコック」
手動で電車のドアを強制開放するためのシステムだ。
通常、正当な理由なくこれを使用すれば法律で厳罰に処される。
だが、融の未来視が「十秒後、車掌が無線対応のために完全に車両の中から背を向ける瞬間」を捉えた。
コンマ数秒。
一秒先を見つめながら、融は躊躇なくプラスチックの保護カバーを叩き割り、中の赤いレバーを全体重をかけて引き下げた。
プシューーーーッ!
重々しい空気の抜ける音が響き、密閉されていたはずのステンレスのドアが、わずかに数センチの隙間を作って脱力した。
「おい! 何やってんだお前!」
背後からサラリーマンの鋭い怒号が飛ぶ。
しかし融は無視した。
隙間に両手の指を突っ込み、倉庫番の日雇いバイトで鍛えた腕力で、強引にドアをこじ開けた。
流れ込んできたのは、まだ噴火の影響の届かない、綺麗な乾いた風だった。
融はバックパックの紐を腰でキツく締め直すと、高さ一メートルほどの高架の線路の上へと、迷いなく飛び降りた。足首に線路の敷石の鈍い衝撃が走るが、構わず走り出す。
「あ、あいつ、線路に降りたぞ!」
「逃げたのか!?」
「俺たちも出よう!ここにいたら危ない!」
融の暴挙を見た乗客たちが、堰を切ったように連鎖反応を起こし始めた。
一人、また一人と融の開けた脱出口から、線路へと降り始める。
大混乱だ。
だが、これでいい。
群衆が線路に溢れれば、警察も「桜塚融」という個人の特定に時間を取られる。
融は高架の非常階段を駆け下り、線路沿いのフェンスをよじ登って、郊外の静かな住宅街の一般道へと這い出た。
駅の方向からはサイレンの音が響き、道路はすでに、逃げようとする人々の車で大渋滞が始まっていた。
融は防塵マスクをポケットから出し、顔に不気味なほど厳重に装着した。ゴーグルを装着するとこれで見た目は完全に狂人か不審者だが、誰も他人の格好を気にする余裕などなかった。
歩きながら、一秒先から三時間先までの未来視をフル回転させる。
(チャリだ。車じゃ進めない。使えるチャリはどこだ?)
視界の端、一軒の建売住宅のオープン外構の駐輪スペースが光って視えた。
そこには、シルバーの比較的新しめのママチャリがぽつんと置かれていた。未来視が告げる。
――『この自転車の鍵は、サドルの下のリング錠に差さったままだ。三時間以内に自転車を取りに来る者はいない』
「……すいません、借ります」
融は小声で呟き、敷地に滑り込んでママチャリのサドルに跨がった。
鍵を回すと、カチャリと小気味よい音がしてロックが外れる。
融はリュックから蛍光イエローの付箋とマジックを取り出した。
これからの山越え、渋滞の回避ルート、火山灰の第一波と激突する時間を、スピードメーターの代わりに、チャリのハンドル周りへペタペタと直貼りしていく。
『16:10 〇〇交差点:左折(警察検問を回避)』
『16:35 〇〇商店街:突っ切る』
『18:00 奥多摩:灰が来る、必ずこの際、合羽を着て氷砂糖を口へ』
ハンドルに並んだ黄色い付箋のチェックリストを睨みつけ、融はリュックの奥から氷砂糖の塊を一つ、口の中に放り込んだ。
暴力的で純粋な甘みが、干からびた喉と脳へ吸い込まれていく。
「ここからが本番だ」
ボウルキャップを深く被り直し、融はママチャリのペダルを思いきり踏み込んだ。
大渋滞で完全に死に絶えた車たちの脇を、三時間先をハックした一台の自転車だけが、日本海側を目指して、猛烈な速度で風を切って走り出した。
チリ、とハンドルに貼られた蛍光イエローの付箋が風に震えた。
『16:10 〇〇交差点:左折(警察検問を回避)』
融はペダルを漕ぎながら、アゴの下から滴る汗を袖で拭った。
使い古したタオルは頭に巻いてあるので使えない。
未来視の通り、国道の大渋滞の先、赤色灯を回した複数のパトカーが道路を完全封鎖していた。
拡声器の怒号とサイレンが響く中、捜査員たちが、西へ逃げる不審者の網を張っている
(――あと三秒、右の警察官が無線に気を取られる)
融は能力を秒刻みで連打した。
格闘センスなどない。
ただ「一秒先」に相手が向ける視線の死角が分かる。
それだけで、融はママチャリのハンドルを鋭く切り、大渋滞のハイエースの影から路地裏の急勾配の坂道へと、何とか警察の包囲網をすり抜けた。
背後で「おい、待て!」と声が上がったが、次の瞬間には別の付箋をベリッと引き剥がし、背後の闇へ投げ捨てていた。
――それから、どれほどの山道を登っただろうか。
午後十八時三十分。噴火から三時間が経過していた。
疲れ切った融は、山頂近くにある公園にたどり着き、ヘッドライトを頼りに東屋に座り込むとそのまま泥のように東屋の屋根の下の大きなベンチで眠り込んだ。
秋の始まった山は少し寒かったが、それよりも疲れと睡魔が勝った。
朝になり目が覚めて、周りを見て驚いた。
うっすらと火山灰が積もっていたのだ。
(東屋で寝て良かった……)
マスクをしたままだったのも幸いした。
特に致命的なのどの痛みは感じない。
周りを見るがとくに避難して来ている住民はいないようだった。
融は、少し安心して、公園内を見回した。
トイレに行き、顔を洗い、濡らしたタオルで汗だくの体を拭きうがいをすると、少しすっきりした。
この公園の水道は山の湧き水なのか綺麗に澄んでいた。
すると胃がぐううう、と音を立てたのでバックパックの底に詰めていた食パンを水で無理やり胃の中へ押し込んだ。
栄養?
この状態でそんなこと考えていられるわけがない。
もう少し休もう。
そう決めて東屋へ戻ると、ラジオのスイッチを入れた。
ジジ……。
最初に聞こえたのは、砂嵐のような雑音だった。
融は一瞬、壊れているのかと思った。
だが、雑音の中、ゆっくりと声が浮かび上がる。
『……現在、富士山噴火に伴う大規模な降灰により、首都圏を中心に交通網が麻痺しています』
融は黙って目を閉じた。
『首都高もすべて閉鎖されています』
つまり、今東京から逃げる手段はほぼないと言うことだ。
『続いて新宿区からの情報です。東京都庁周辺で火災が発生しています。周辺の方は、警察や自治体の指示に従って避難してください』
その避難のために今あの街はパニックになっている。
昨日まであんなに平和で賑やかだった街なのに。
(僕の発信は何人救えたんだろう……)
この力に関しては、物心ついたときにはあったことを記憶している。
一番最初は、島の祭りの日、2時間後に祭りの会場の屋台から火が出て、神社の社が燃えるのが見えたのだ。
怖くなって「お祭り燃えちゃうから怖い!行かない!」と駄々をこねて結局行かなかったが、火事は起こってしまった。
家族は融を見る目に畏怖が籠るようになり、どこからかこの話が漏れ、狭い島の中であっという間に広まった。
融に対して、態度が変わらなかったのは、隣りの島に住む父方の祖父母だけだった。
「融が視えてるものは、誰かを必ず助ける時が来るよ」
そう慰めてくれたから、何とかあの島でも折り合いをつけて生きてこられた。
そして高校を卒業し、もうここにはいられない、と思い、東京の寮つきの会社に就職を決めた時、二人が「融への餞別だよ」と50万円と言う大金をくれたのだ。
「これでもう自由になりなさい」と笑って見送ってくれた祖父母は二人とももう亡くなったと風のうわさで聞いたので、融は故郷へ帰る理由はなかったのだ。
未来視の力を改めて数年かけて色々検証してみて分かったのは、分かるのは半径100キロ圏内の1秒先から3時間先までのことだけ。海外の災害や圏外の災害は分からない。人の唐突な動きが見えないのは、人は寸前で動きを変えることもあるからだと分かった。電車の中で車掌が背を向ける未来も警察の検問も、決められていた動きだから視えたのだ。
それからしばらく休んでから、公園の水飲み場からほぼ空になっていた水のペットボトルに水を継ぎ足した。お茶のほうもほぼ空だったので全部飲んでから水を入れた。
「よし」
ラジオからはまだ被害状況が流れているが、もう融にここからできることはない。
なのでラジオを消してから東屋の下でバックパックを背負ってから合羽を着る。
ここから、山道を超えて長野方面に抜けて、日本海側へ出る。
そこから先のことはまだ決めていない。
まずはあの美しい山が見えない場所へ逃げたかった。
空には薄く火山灰が残っていて夜が明けているのに、薄暗さがある。
大気の温度が下がり、時折パラパラと乾いた音を立てて、融けない灰色の雪が空から降ってくる。
眠ったおかげか、頭はすっきりしているが、太ももの疲労はまだ強い。
だがずっとここにいるわけにもいかない。
「よし、行くか」
山道には火山灰は少なかったが、登りはやはりママチャリだとキツイ。
口の中の塩飴のおかげで、少しは疲労も紛れているが。
(下りに入ったら楽になるはず……!)
それだけを期待して、登りの山道を少しずつ上っていく。
やがて山頂へ着くと、眼下にはまだ山が広がっていた。
あといくつ山を越えたら海に着くのだろう。
融の肉体は、すでに限界を迎えていた。
新宿からの余裕のない猛ダッシュと、電車を降りてからの慣れない山道のママチャリでのヒルクライム。
太ももは乳酸で爆発しそうに熱く、防塵マスクの奥の呼吸はヒューヒューと悲鳴を上げている。
「下りて、また上がって……あと何日かかるんだよ、これ」
正直、空腹がかなりきつい。
飴やチョコでごまかすのも限界だった。
意識が朦朧とする。
ハンドルにしがみつく手の震えが止まらない。
ネカフェのパンはとっくに胃の中で消え、口に含んだ氷砂糖や塩飴の甘みだけでは、もう誤魔化しが利かなかった。
視界が急激に狭くなる。
このままこの山頂で倒れれば、灰に埋もれて死ぬ。
火山灰は風の方向もあるが、2週間くらいは降り続けるらしい。
(どこか……休める場所は……)
薄れていく意識の中で、融は必死に未来視の手綱を引いた。
暗闇の視界の先、一軒の、古ぼけた平屋の灯りがぽつんと灯っているのが視えた。
這うような速度でママチャリを押し進め、山を下りていき、山の途中に集落まで何とかたどり着いた。
木造の古い民家の引き戸に倒れ込むようにして体当たりした。
「た、たすけ……」
ガラガラ、と戸が開く音がして、融は土間に崩れ落ちた。
ステンレスボウルを仕込んだ黒キャップが、派手な音を立てて転がる。
「おやおや、大変だ。じいさん、人が倒れとるよ!」
驚いたような、しかしどこかひどくのんびりとした老婆の声が響いた。
奥から出てきた白髪の老人が、融の泥だらけのカッパや不気味な防塵マスクを怖がる風でもなく、不器用な手つきで融の身体を抱き起こした。
「……おい、しっかりしろ。東京の方から来たんか。チャリで山を越えてきたんか、大したもんだ」
融が目を覚ましたのは、それから一時間ほど後だった。
古い畳の部屋。
頭の上には、濡れた手ぬぐいが置かれて、火山灰をきれいにふき取った合羽は部屋の隅に干されていた。
「兄ちゃん、起きたかね」
融がゆっくりと上半身を起こすと枕元には湯気を立てるお粥と、梅干しが置かれている。
「気がついたかい。無理しちゃいかんよ」
「……あの、ありがとうございます……。助けていただいて……」
「なんのなんの。困った時はお互い様だよ」
老夫婦は、何も尋ねなかった。
ただ「山が怒って、世間は大騒ぎらしいねぇ」と、お茶をすすりながらテレビのニュースを眺めている。
何とかテレビの放送は届いているらしい。
テレビの画面では、火山灰で完全に機能停止し、真っ暗闇に沈んだ東京のお天気カメラ映像が、悲痛なアナウンサーの声と共に流れていた。
老夫婦が「今のうちに食べなさい」と部屋を出ていった後、融は震える手でお粥を口に運んだ。
塩気と温かさが、干からびていた五臓六腑にしみわたり、涙が出そうになる。
こんなに温かいご飯を食べたのはいつぶりだろうか。
融はバックパックの底から、スマホを取り出した。
ここはまだ山梨の山奥。
辛うじて電波が一本だけ立っている。
テレビが映っているということは、と思って確認してみたがまだ通信インフラは完全には死んでいないらしい。
融は、息を呑んで電源ボタンを入れた。
画面がゆっくりと立ち上がったかと思うと、すさまじい勢いで通知が始まる。
一気に数万件の通知がタイムラインを埋め尽くした。
「おい、本当に噴火したぞ」
「預言者、お前何者なんだよ」
相変わらずの狂乱とテロリスト扱いの怒号。
しかし、融の指は、その奥にある個人宛てのダイレクトメッセージを静かにスクロールしていった。
『あなたのツイートを見て、すぐに会社を飛び出して埼玉の地下街に逃げました。外は今真っ暗です。信じてよかった。ありがとう』
『中央線に乗っていましたが、あなたのつぶやきを見てすぐ駅に子どもと一緒に降りました。さっき、車内に灰が吹き込んで自力で出られなくなった電車のニュースを見ました。あなたのおかげで、私たちは生きています。本当に、本当にありがとう』
無数に並ぶ、名もなき人々からの、剥き出しの「ありがとう」
涙が、お粥の器の中にぽつりと落ちた。
子どもの頃から、この力は自分を孤独にするための呪いだと思っていた。
故郷の島を追われ、都会のネカフェの暗闇で、誰にも名前を呼ばれないモブとして死んでいくのだと思っていた。
違った。
自分の三時間先の未来視は、確かに、この世界の誰かの命を繋ぎ止めたのだ。
「……よかった」
だが、次のDMを見て頭の芯が冷える。
『警視庁サイバー犯罪対策課です。桜塚融さん。あなたが投稿した情報について確認したいことがあります』
バレた。名前まで把握されている。
だがそれも当然だ。警察が本気になれば、自分の情報などすぐに丸裸にされるに決まっていいる。
「情報って言われてもな……」
融は小さく呟き、再びスマホの電源を落とした。画面は静かな闇に戻る。
だが、もう胸の奥の寒さは消えていた。
居間へ戻り、老夫婦に「ありがとうございました。明日、夜が明けたらまた西へ行きます」と深く頭を下げた。
老爺はフンと鼻を鳴らし、古い工具箱から油の匂いがするスプレーを取り出した。
「行くなら、これをやるわ。そのチャリのチェーンにこれ吹いときな。山道で錆びたら一発で動かなくなる」
融は苦笑し、ありがたくそれを受け取った。
「今日のとこはゆっくりうちで休んでいくといい。今街に下りたってどうにもならん」
「……ありがとうございます。お言葉に甘えます」
融はスマホにあった通知の重みを胸に感じながら、その夜は深く安らかな眠りへと落ちていった。
翌日の目覚めはすっきりしていた。
風呂まで借りることができ、着替えまで貸してもらった。
至れり尽くせりだった。
こんなにも誰かに世話を焼いてもらったのは、いつ以来だろう。
外を見ると、風向きが変わったのか、庭先に薄く灰が積もり始めていた。
「まったく困ったもんだ」
老人が眉をしかめながら空を見上げる。
「あの……そこにあるのは防じんマスクとゴーグルですか?」
融が土間にあったものを指差すと、老人は振り返った。
「ああ。仕事道具だ。木を削る時に使うやつだ」
「できれば、今つけてください」
「え?」
「灰がこっちに降り始めてます」
融は珍しく強い口調になった。
「火山灰はただの砂じゃありません。細かいガラスの粒みたいなものです。吸い込んだら肺を傷つけます」
老人は少し黙った。
そして納得したように頷く。
「なるほどな……木くずと同じか」
「……はい」
「そりゃ、吸わんほうがいいわな」
老人は素直にマスクとゴーグルをつけ、隣の老婆にも渡した。
「婆さんもつけとけ」
「はいはい」
二人が当たり前のように融の言葉を信じてくれる。
それだけのことなのに。
融の胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「兄ちゃん、もう一晩泊まってけや」
「え?」
「その顔じゃ、まだ無理しとるのが分かる」
老人はため息をついた。
「昔、無茶して山で倒れた奴を見たことがある。若いから大丈夫なんてのは嘘だ」
「……いいんですか?」
「構わんよ」
ゴーグルの向こうで優しい目が笑うのが見えた。
亡くなった祖父の目を思い出させてくれた笑顔だった。
その夜は、採取したばかりだと言う栗で栗ご飯をふるまってもらい、山菜のお浸しと汁物をしみじみと味わった。
「若い人向けの食事じゃなくて悪いねえ」
なんて言っていたけど、昔、祖父母が食べさせてくれた食事を思い出すようで、とても美味しかった。
風呂のあと、用意してもらった布団に寝転がり、布団の柔らかさに和む。
ネカフェの狭い騒がしいブースで、毛布一枚にくるまって眠る夜とは違う。
畳の匂い。
干した布団の匂い。
人のいる家の音。
(そうだ)
融は静かに目を閉じた。
(僕が目指すのは、こういう暮らしだ)
豪邸じゃなくていい。
高級車なんていらない。
毎日ちゃんとご飯を食べて、布団で眠れる。
そんな当たり前の暮らしがしたい。
その瞬間だった。
――視界が、ぐにゃりと歪む。
突如として脳裏に弾けたのは自分を救ってくれた、この古い平屋の「三時間後」の映像だった。
(……土砂、崩れ?)
午後二十二時十五分。外は富士山からの黒い灰が激しく降り積もっている。風は思った以上に西に吹いているらしい。
その重みに耐えかねたのか、あるいは大噴火に伴う微小な群発地震の震動のせいか。
民家のすぐ裏手にある急斜面の山肌が、かすかな地震のあと、轟音と共に一気に崩落していた。
大量の土砂と巨木が、容赦なくこの平屋を押しつぶす。
寝床についたばかりの老夫婦が、逃げる間もなく生き埋めになる陰惨な映像。
「はっ……!」
融は布団を跳ね除け、激しく息を荒げた。
冷や汗が再び全身から噴き出す。
時計を見る。現在は十九時十五分。
猶予はジャスト、三時間。
融は慌てて布団を出て居間へと駆け込んだ。
老夫婦は相変わらずのんびりとお茶をすすり、テレビに映る東京の惨状を眺めている。
「じいさん、ばあさん、今すぐここを出てくれ!裏山が崩れる!」
必死の叫びだった。
しかし、老爺は怪訝そうに眉をひそめる。
「何を言っとる。ここは先祖代々、大雨が降っても崩れたことなんかない頑丈な土地だ。第一、外は灰が降っとるんだぞ。年寄りが暗くなってきた夜にどこへ逃げろと言うんだ」
当然の反応だった。電波も届かない山奥で、余所者の、奇妙な若者の妄言など、信じられるはずがない。警察に電話しようにも、この大災害の最中、山梨の山奥の一軒家のために動いてくれる組織などどこにもなかった。
説得する時間はない。
三時間という時間は、老人二人を無理やり動かすにはあまりにも短すぎる。
(僕が、止めるしかない)
融は理性を総動員した。
自分には、土砂崩れそのものを止める力はない。
だが、三時間先の未来から「逆算」することはできる。
融はリュックから蛍光イエローの付箋と油性マジックを取り出し、新しいメモを書き殴った。
『19:40 家の倉庫:スコップとブルーシートと杭を確保』
『20:30 裏山の斜面:水路の詰まりを直す』
融は老夫婦の制止を振り切り、土間へ降りる。
「とにかく今夜は絶対に山側の寝室には入らないでくれ!」
外は、暗黒の灰の雨だった。
百均のヘッドライトの白い光だけが、パラパラと衣服を叩くガラスの粒子を照らし出す。
融は防塵マスクをキツく締め直し、庭先にあるこの家の倉庫の扉を開けた。そこからブルーシートとシャベル、杭を数本を拝借し、融は平屋の裏手にある、鬱蒼とした裏山の斜面へ向かった。
ヘッドライトの光を頼りに泥と灰まみれになりながら、融は未来視で見えた土壌にシャベルを突き立てた。
この裏山が崩れる直接の原因は、火山灰が山の斜面にある古い排水路を塞ぎ、行き場を失った湧き水が地盤を急速に緩めていることだった。
「間に合え……っ!」
泥水を浴び、ガラスの灰がゴーグルにこびりついて視界を遮る。
口の中に放り込んだ氷砂糖を噛み砕き、強引に心臓を動かした。
三時間後の未来視を何度も上書きする。
自分が泥をすくい上げるたび、脳内の映像が少しずつ変化していく。
二十一時四十分。ついに排水路を塞いでいた巨石と泥の塊を突き崩した。
溜まっていた水が一気にゴボゴボと音を立てて流れ落ちていく。だが、このままではまた灰がたまれば危険だ。どうしようかと思っていると後ろから肩を叩かれた。
「何をやっとるかと思ったら……」
「じいさん……」
「ここの石が落ちて水路をふさいだうえに灰が積もっとたんか……。これはこのままだと確かにまずかったな。しかし、なんで倉庫にあるもんが分かったんだ?」
「……」
「……まあ詳しいことは聞かねえよ。ほら、そっち抑えて、水路に灰がこれ以上はいらないように覆っちまってくれ」
「は、はい!」
水路を覆うようにブルーシートで覆い、動かないように杭を打ち込んで、再度この水路を灰でせき止められないようにした。
作業終了はジャスト、二十二時。15分先を視ても、もうそこに土砂崩れの悲劇はなかった。
融は泥だらけの身体のまま、暗闇の中、裏山を見上げていた。
――ズズズ、と鈍い地震の地鳴りが響く。
しかし、裏山は崩れなかった。
斜面の一部がわずかに滑り落ちただけで、大量の湧き水は融が通した水路を勢いよく流れていく。
古い木造の平屋は、確かにそこに佇んでいた。
融は激しい呼吸のまま、その場にへたり込んだ。
家から、老婆が二人のためにタオルを持って出て来た。
「まあまあ、二人とも、もう一回お風呂に入らなきゃだねえ」
「婆さん、風呂の準備もっかい頼むわ」
「分かったよ」
老婆からタオルを受取り、汗だくになった顔から首を拭く。
「……じいさん」
融は土間に入ると防塵マスクを外し、干からびた声で微笑んだ。
「裏山、もう大丈夫だから」
老爺は何も言わず、融の泥だらけの肩をがっしりと掴んだ。
その手の温かさは、ネットの向こうの何万件の「ありがとう」と同じくらい、融の心を強く満たした。ネットの神様として世界を救うのではない。目の前の、自分を助けてくれた人たちの「三時間後」を、モブの融は自分の肉体と知恵だけで、確かに守り抜いたのだ。
翌朝、融が出発する準備をしていると、老爺が融にある申し出をしてきた。
「山の下までならうちの軽トラで自転車ごと送っちゃるわ」
「え?で、でも下は危険かもしれませんよ?」
「まあ普通の状況じゃねえのは分かっとるが、山の下の街に住んでる息子家族が心配でな。ちょっと様子見のついでに、食料と水を届けに行こうかと婆さんとも話してたんだ」
「そういうことなら……お言葉に甘えます」
「おうよ」
荷台にママチャリを乗せてもらい、老婆の作った山菜おこわのおにぎりを少し多めに持たせてもらいバックパックに押し込む。
まだほんのり温かいおにぎりは、じんわりと融の心も温めてくれた。
名前も知らない、通りすがりの老夫婦と過ごした三日間は、融にとって忘れられない思い出になった。
「本当にお世話になりました」
「わしらも助けられたからお相子じゃ。兄ちゃん、気を付けて行けよ」
「はい」
山を下りて温かく見送られた融は、再びママチャリのペダルを踏み込んだ。
まだ山を下りて数分。軽トラの姿が見える距離だった。
融は遠ざかっていく車体に意識を集中して未来視してみる。
住宅街の一軒家の横に軽トラが止まっていて、家の中では爺さんによく似た男性が安心したように笑っている。そばには奥さんらしき女性と子供が二人跳ねまわっているのが視えた。
(息子さん家族も無事みたいだな……。良かった……)
誰かの無事を確認もできるこの力を初めて嬉しいと融は思った。
「よし、行くか。甲府方面は……あっちだな」
灰で煤けた看板を頼りに甲府方面へとママチャリを走らせる。
途中で寄った道の駅には車中避難をしている人たちも多かった。そこで他愛のない会話をした。
「兄ちゃん、東京からママチャリで走ってきたのかよ……」
「ええ、まあ」
「すげえな。で、何処まで行くんだ?」
「日本海側へ」
「故郷かい?」
そう問われて、少しだけ黙った。
「……まあ、そのようなものです」
融の故郷は瀬戸内の小さな島だ。だけどあそこへ帰ろうとは思わなかった。
もう祖父母もいない、家族はきっと融を嫌がる。
なら、あの島じゃない場所を目指すしかないのだ。
具体的には決めていない。
だけど、海のそばがいいとは何となくぼんやりと考えていた。
「そういや、今回の富士山の噴火、ネットで予言されてたって兄ちゃん知ってるか?」
「予言、ですか?」
「ああ、これだよ」
かろうじて通じてる電波で見せてくれたのは、あの日、融が新宿のネカフェで書き込んだ最後の予言。
「噴火の三時間前でさ。これを信じた人たちは早めに脱出したってさ」
「……へえ」
リプライにはたくさんの感謝の言葉。
それは融の心を満たしてくれた。
(僕の発信で、誰かを助けられたんだ)
それがただ嬉しくて。
「で、この予言者を皆探してるんだってさ」
「え?なんで?」
「そりゃ、色々教えてもらいたいからだろ。たとえば、当たり馬券とか」
「……なるほど」
融はこの力をギャンブルに使ったことはなかった。競馬など最もたるものだ。そこには人の意志がかならず介入するし、馬の意志など更に分からない。何度か試してみたことはあるが、うまくいかなかった。精神的に疲れるだけだった。実際リプライで、明日の競馬の結果教えて!なんていうのもあったが、基本的には無視していた。
「それで当たるならいいですね」
「まあ、ほんとに預言者なら、もうとっくに逃げてんだろ」
「え?」
「だって、こんなでかい災害なら少なからず巻き込まれてんだろ。そんな場所にいつまでもいるわけねえよ」
「確かにそうですね」
道の駅を出る前。
融は久しぶりにスマホの電源を入れた。
たまっていた通知が一気に流れる。
予言者探しの投稿。
自分への疑念。
感謝のメッセージ。
そして、その中に一つだけ違うものがある。
『警視庁サイバー犯罪対策課です』
最初に見た時と同じ文面。
以前なら恐怖しか感じなかった。
でも今は違った。
融は少し迷ってから、返信ボタンを押す。
『何の御用ですか?』
送信。
数秒後。
『確認しました。お返事ありがとうございます。桜塚融さんですね?』
『現在地を教えていただけますか』
融は画面を見つめる。
そして少し考える。
自分が助かった場所。
老夫婦の家。
避難している人たち。
「全部は無理だけど……」
融は地図を開く。
『山梨県甲府市付近です』
『迎えに行かせていただいていいですか?』
『どうしてですか?』
『安全を確認させていただきたいのと、可能であれば情報提供をお願いしたいのです』
『何の情報ですか?』
『あなたが公開した予言についてです』
『……何のことですか?』
『責めるつもりはありません』
続けてメッセージが届く。
『あなたの発信で助かった人がいることも確認しています』
『ただ、今後発生する可能性のある二次災害について、もし何か知っていることがあるなら教えてほしいのです』
一瞬目を閉じる。
『僕の持っている情報なんてありません。予言のことなら今後二度と出すことはありませんので。お役に立てることはもうないと思います』
『私どもにあなたを拘束する意図はありません』
『ただ、一つだけ伝えたいことがあります』
『あなたの投稿を見て避難した人が、何人もいます』
『あなたが思っている以上に、人はあなたの言葉を信じました』
『ですから、私どもからもお伝えしたかったのです。たくさんの人を助けていただいてありがとうございました』
その言葉を確認してもう一度電源を切る。
助けられた人たちが確かにいる。それを知れただけで十分だった。
途中の道の駅ではとくにもめることもなく水を確保し、老夫婦にもらった手ぬぐいで体を拭いて再び山を越えるルートを走る。
道路には放置された車が何台も残されていた。灰を吸い込んだエンジンが止まったのか、避難の途中で捨てられたのかは分からない。
だからこそ、融はママチャリを捨てなかった。
遅くてもいい。
自力で動き続けられることが、一番重要だった。
灰は多少は積もっていたが、タイヤの邪魔になるほどではなかった。また風向きが変わったのかもしれない。
途中、ラジオで得た情報によると、都心ではすでに積雪ならぬ積灰は5センチを超え、大規模停電と断水に見舞われているらしく、東京から逃げだそうとしている避難民で大混乱らしい。
首都機能を取り戻すのはすぐには無理だろうとラジオのニュースで聞いた。
長野の険しい峠を越え、岐阜の山深い夜を100均のヘッドライトの光だけで走り抜け、ついに火山灰の届かない福井の日本海側へと抜けた。
そこからは、パニックなどどこ吹く風の、静かな地方の景色が広がっていた。
まったく影響がないわけではない。物流は滞ったままだ。
それでも人々の生活は停まっていなかった。
融はドラストを見つけるたびに立ち寄り、残金を細かく使いながら店の棚に残っている水や食料、新しい乾電池を買い足し、ただひたすらに西へ、西へとママチャリを走らせた。
道中は、道の駅や空き家の軒先が寝床だった。
新宿を出発してから1か月半後。
融がたどり着いたのは、富士山の灰が一切届かなかった、兵庫県の静かな港町だった。
ウミネコが鳴き、テトラポットを洗う穏やかな波の音が響いている。
ここには東京のような狂騒もなければ、かつて自分を化け物扱いした故郷の島の人々もいない。
何より、ここからはあの巨大な災厄の象徴――富士山が、逆立ちしても見えなかった。
融は防塵マスクを外し、潮の香りがする美しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
港にママチャリを止め、リュックの奥からスマホを取り出す。
電源を入れた画面は、電波を拾い通知が押し寄せる。
その中には避難した人の感謝の写真とメッセージが無数にあった。
もちろん中には「分かってたのならもっと早く教えろよ」などの他責思考のものも多かったけれど、今の融にはそんな悪意は気にならなかった。
「……」
少しだけ考えて、融はアカウントを削除した。
東京の崩壊と共に、ネットの神様だった『@預言者_3hour』のアカウントは完全に消滅したのだ。
だが、画面をスクロールすれば、あの日に届いた無数の「ありがとう」の文字が、そのままネットの海の中には残っている。
融は微笑み、スマホの電源を完全に落とした。
もう、これをお守り代わりに眺める必要はなかった。
「おい、にーちゃん。見ん顔だな。どこから来た」
船の引き波が岸壁を揺らす中、日に焼けた初老の漁師が、漁網を繕いながら声をかけてきた。
融は薄汚れたリュックを背負い直し、まっすぐに漁師を見つめた。
「東京からです。ここで、働かせてくれませんか。何でもやります」
それから数ヶ月が経った。
桜塚融は、その港町で小さな漁船の「漁師見習い」になっていた。
早朝のパチパチと爆ぜる冷たい波を浴びながら、先輩漁師たちに怒鳴られ、泥臭く網を引く毎日。
日雇い派遣で培った体力だけが唯一の武器だったが、融にはもう一つ、誰にも言えない秘密の武器があった。
「融!次はどこに網を入れる!お前の勘の通りに動かしてやる!」
船長が舵を握りながら、豪快に笑って叫ぶ。
「次、一マイル先の魚礁です!2時間後に、あそこに信じられない数のアジの群れが飛び込んできます!」
「今日も勘かよ!」
「勘です!」
融は船首に立ち、ウミネコが舞う日本海を見つめながら叫び返した。
彼の脳内――一秒先から三時間後までの未来視は、今や世界の破滅や誰かの死を予知する呪いではなかった。
2時間先の海。
そこには、網を揚げた瞬間に銀色の鱗をギラギラと輝かせ、甲板を埋め尽くすような大漁のアジの群れと、それを見て「大漁だ!」と子供のように万歳をして喜ぶ、仲間たちの最高の笑顔が映っていた。
かつて孤独だったモブの男は、今は富士山の見えない町で、自分の力を使って隣の誰かを笑顔にしていた。
融は頭のキャップを深く被り直し、小気味よい音を立てる漁網の手綱を力強く握りしめた。
見える未来は今ではもう呪いではない。
だからこそ愛おしい新しい人生の海原へ向かって融を乗せた船は、白波を立てて進んでいく。
もうここには、かつてネットの片隅で「予言」を発信していた預言者はいなかった。
終




