『鉄錆(てつさび)の恋文』
暴力には、常に言い訳が伴います。
「誰かのために」「何かのために」。
しかし、その拳が届く範囲に、本当にその誰かは存在しているのでしょうか。
雨の匂いと鉄の味、そして自分勝手な情熱が冷めていく瞬間の、どうしようもない静寂を詰め込みました。
泥臭い、救いのない男たちの記録です。
雨上がりの雑居ビルの屋上は、ひどく鉄の匂いがした。
錆びた手すりが夜露を吸って、じっとりと黒く光っている。排水溝が詰まっているのか、コンクリートの窪みには、墨汁のように濁った水溜まりがいくつもできていた。その水面が、遠くのネオンサインを反射して、毒々しい紫色の光を放っている。空から降り注ぐ微細な雨の粒が、その水面を叩き、絶え間なく波紋を広げ続けていた。
この閉鎖された空間では、酸素さえも雨に溶けて重たくなっている。俺はその空気を、肺の奥に無理やり流し込み、自分の生存を確認していた。
俺の拳は、すでに自分のものとは思えないほど熱を帯びていた。
指の関節を一本ずつ確かめるように握り込むと、破れた皮の隙間から、粘り気のある血が滲み出した。ジンジンとする痺れが前腕を駆け上がり、それが「痛み」という信号に変わるのを、俺はただ冷めた意識で観察していた。
俺は、この痛みが嫌いではなかった。痛覚が鋭敏であればあるほど、自分が彼女のために「犠牲を払っている」という実感が、甘い陶酔となって脳を麻痺させてくれるからだ。俺にとっての暴力は、彼女への献身を証明するための、最も手っ取り早く、そして最も醜い恋文だった。
「……まだ、やるのかよ」
数歩先で、男が吐き捨てるように言った。
男の顔は、もう元の造作がわからないほどに膨れ上がっていた。左のまぶたは完全に塞がり、切れた唇からは、絶え間なくどす黒い液体が零れ落ちている。男が吐き出す呼吸は、壊れた蛇腹が空気を漏らすような、湿った音を伴っていた。それでも、男の背負った「質量」は、少しも衰えていなかった。
こいつも俺と同じだ、と俺は心のどこかで冷笑していた。こいつもまた、自分の拳が砕ける感触に、自分勝手な正義を見出しているに過ぎない。俺たちは互いを殴り合っているようでいて、その実、自分自身の「男としてのメンツ」という鏡を叩き割っているだけだった。
男の肉体は、長年の暴力と労働によって、一つの重機のように練り上げられていた。分厚い胸筋を包む作業着は、雨と返り血を吸って黒ずみ、肌に張り付いている。
「お前が死ぬまでだよ」
俺は、肺に溜まった泥のような空気を吐き出した。
視線の先、二人の男のちょうど中間地点に、パイプ椅子が置かれている。そこに、彼女が座っていた。
手首を太い結束バンドで固定され、髪は雨と汗で頬に張り付いている。彼女は悲鳴を上げなかった。ただ、俺たちが互いの肉体を削り合う音を、まるで故障した時計の針の音でも聞くような、無機質な目で見つめていた。その瞳には、俺たちへの期待も、あるいは絶望すらも映っていない。俺は彼女のために戦っているはずなのに、その瞳の中に「俺」という存在を一度も捉えることができなかった。
男が一歩、踏み出してきた。
それは武道のステップではない。ただ、数百キロの鉄塊が自重で倒れ込んでくるような、逃げ場のない物理現象としての前進だった。男の右拳が、重苦しい空気を切り裂く。風切り音が鼓膜を直接叩き、鼻腔にはカビ臭い男の汗と、古い油の匂いが飛び込んできた。
俺はそれを、左の肩口で受け止める。
衝撃が骨の髄を通り抜け、脳漿を直接揺さぶる。肩の関節が嫌な軋みを上げたが、俺はそれを無視して、男の懐に滑り込んだ。
俺の頭の中にあるのは、勝利の算段ではない。もっと暗く、粘ついた感情だ。ここで俺が倒れれば、彼女はこいつのものになる。それだけは許せなかった。だが、それは彼女を愛しているからなのか、それとも、自分の「所有権」が侵害されるのが耐えられないからなのか。その境界線は、すでに血と雨にまみれて判別不能になっていた。
俺は男の鳩尾に向けて、剥き出しの拳を叩き込んだ。
柔らかい腹壁が沈み込み、男の肺から、汚い吐息が漏れる。
「……ぐ、っ」
男が俺の頭を両手で掴み、そのままコンクリートの床へと叩きつけようとした。俺は男の指を一本、力任せに逆方向に折り曲げた。生木が折れるような、湿った破壊音が夜の屋上に響き渡った。
一撃一撃を交わすたびに、俺の意識は彼女との記憶へ飛んでいた。
初めて出会った夜、彼女が漏らした小さな溜息。あの時、俺は彼女を「守らなければならない対象」として勝手に定義した。彼女がそれを望んでいるかどうかなど、一度も確認せずに。俺は自分の孤独を埋めるために、彼女という聖域が必要だった。今、目の前でのたうっているこの男も、きっと同じ孤独を抱え、同じ傲慢さで彼女に縋り付いているのだ。
俺たちは、縺れ合うようにして水溜まりに倒れ込んだ。
冷たい雨水が顔にかかり、俺は男の顔面に向けて、頭突きを放った。自分の額が割れる感触。それ以上に、男の鼻梁が粉砕される感触。暴力がもたらすのは解決ではなく、ただの「麻痺」だ。俺たちは麻痺し続けなければ、この虚しい場所で立ち上がることさえできない。
男は仰向けに倒れ、激しく咳き込んだ。吐き出された血が、雨水に混じって紫色の模様を描く。
俺は這いずりながら、近くにあった錆びた室外機を支えにして、ようやく身体を支えた。
「……はぁ、はぁ……。おい、見てるか」
俺は、パイプ椅子の彼女に向けて言った。喉の奥で血が泡立ち、言葉を濁らせる。
「こいつが……お前を、どこにも連れて行かせない……。俺が、俺だけが……」
彼女は答えない。ただ、水溜まりの中でのたうつ男と、ボロボロになって室外機にしがみつく俺を、平等な無関心で見つめている。その無関心が、骨折の痛みよりもずっと深く、俺の胸を抉った。
男が、再び立ち上がった。その動きは、もはや人間のものではなかった。折れた指をぶら下げたまま、近くに転がっていた錆びた鉄パイプを掴む。
「……ガハッ、……お前が、何を知ってる……。俺が、どれだけこいつを……」
男の声には、執着という名の猛毒が混じっていた。
俺は室外機の横に落ちていた、割れたバケツの破片を手に取った。プラスチックの鋭利な断面が、俺の掌を切り裂く。痛みは、もう感じない。ただ、武器を握っているという確信だけが、俺をこの場所に繋ぎ止めていた。
男が鉄パイプを振り上げた。雨が、その軌道に合わせて弾ける。
俺は飛び込んだ。鉄パイプが俺の背中に直撃し、肉が焼けるような衝撃が走る。俺はその代償として、手にしたプラスチックの破片を、男の大腿部に突き立てた。
「あああああっ!」
男が叫び、崩れ落ちる。
俺たちは再び、血と雨水が混じる床に倒れ込んだ。
もう、指一本動かす気力も残っていない。視界は真っ赤に染まり、雨の音すら遠ざかっていく。
屋上の静寂が、戻ってきた。
聞こえるのは、ただ一定のリズムで降る雨の音と、俺たちの浅い呼吸音だけだ。
その時。
パイプ椅子のきしむ音がした。
結束バンドが、鋭利な刃物で切られる音が、一度、二度と響く。
彼女が、立ち上がった。
彼女の手には、いつの間にか小さなカッターナイフが握られていた。彼女は最初から、自分を縛っていたものを断ち切る手段を持っていたのだ。
彼女は、俺たちの方へ歩いてきた。
俺は、彼女が俺の血まみれの手を取ってくれるのを待った。男は、彼女が自分に縋り付くのを期待して、泥の中で手を伸ばした。
彼女は、俺たちの間を通り抜けた。
一度も、足を止めることなく。
一度も、視線を落とすことなく。
彼女は屋上のドアの前に立つと、ようやく一度だけ、振り返った。
その顔には、慈悲も、怒りも、悲しみもなかった。ただ、一晩中降り続けた雨に洗われたような、冷たく、そして澄み切った無表情があった。
「……二人とも、いつまでその『ごっこ遊び』を続けるつもり?」
彼女の声は、雨音に混じって、驚くほど透き通って聞こえた。その冷徹な響きに、俺の思考は氷結した。
「私を奪い合うっていう名目で、自分たちの価値を証明したかっただけでしょ。相手を殴れば殴るほど、自分が『愛のために傷つく英雄』になれる。……滑稽だわ。その血も、その傷も、全部あなたたちの自己満足でしかない」
彼女は一歩、俺たちの方へ踏み出し、床に広がる血の海を見下ろした。
「私を救いたいんじゃない。私を救っている自分に酔いたいだけ。……あなたたちが愛しているのは私じゃない。私をダシにして、自分たちの意地をぶつけ合っている、その醜い独占欲よ」
俺の指先が、ぴくりと動いた。反論したかった。だが、言葉が出てこない。俺の喉に詰まっているのは、愛という名の美しい言葉ではなく、吐き気のするようなエゴの塊だったからだ。
「……あ、……」
隣で男が、縋るように彼女の名を呼ぼうとした。だが、彼女はそれを一瞥で切り捨てた。
「私の名前を呼ばないで。汚らわしいわ。……あなたたちは、私に守られる価値さえない。明日、この雨が止んだら、私という存在ごと、その傷跡を消去しなさい。……私には、あなたたちの『恋文』なんて、一文字も読めなかったから」
彼女は、屋上の重い鉄の扉を開けた。
扉が閉まる瞬間、カチリ、と鍵がかかる音がした。
残されたのは、血の匂いと、降り続く雨と、立ち上がることすらできない二人の男だけだった。
俺は、泥水の中に顔を埋めた。
口の中に広がる鉄錆の味は、さっきまでよりも、ずっと苦く感じられた。
俺は一体、誰のために、何のために、この拳を振り回していたのだろうか。
彼女の言った通りだ。俺は彼女を救おうとしていたのではない。彼女という偶像を傷つけることで、自分の「存在の重み」を確認したかっただけなのだ。
意識の端で、雨音が巨大な嘲笑に変わっていく。
隣で男が、喉を鳴らしながら、まだ何かを掴もうとして虚空を掻いている。その指先が、ふと俺の手元に触れた。だが俺は、その手を払い除ける力さえ、もう持ち合わせていなかった。
俺の視界は、次第に溶けていく。
冷たい雨が、俺の体温を奪い去っていく。
それは死の気配というよりは、あまりに不毛な闘いを終えた後の、深い虚脱感だった。
夜が明ける頃には、この血も、俺たちの喘ぎも、雨がすべて流し去っているだろう。
そして彼女は、この街のどこかで、俺たちという「ノイズ」を消去した新しい一日を始める。
俺たちの戦いには、最初から「敵」も「味方」もいなかった。
ただ、自意識という名の狭い檻の中で、二匹の獣が噛み合っていただけなのだ。
俺は重くなったまぶたを閉じた。
最後に聞こえたのは、屋上の隅で、風に吹かれた空き缶がコンクリートを転がる、乾いた音だけだった。
その音は、俺の人生という名の舞台が、誰にも見取られることなく幕を閉じたことを告げているようだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
当初はもっと派手なアクションを想定していましたが、書き進めるうちに「殴る側の独りよがり」が浮き彫りになり、最後は彼女にすべてをなぎ倒してもらう形になりました。
拳で語る、などと言いますが、語っているのはいつだって自分のエゴでしかないのかもしれません。
読後の皆さんの心に、カチリと鍵がかかるような余韻が残れば幸いです。




