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肉声

作者: 義倉 茶房

 目の前に、壁があります。私の目の前に、壁があるんです。大きいのだと思います。白っぽくて、でも透けています。ツルツル、ツヤツヤ、滑らかで、なだらかで、取っ掛かりになるものは何もありません。垂直のような、此方に倒れ込んでしまいそうな、そんな壁です。私はずっと、それを見上げています。首が痛くならないのが不思議です。先は見えません。もっと先があるのか、それとも、意外と低いのか、私にはわかりません。

 足場に立っています。見えないので分かりませんが、何となく、感覚で、私は立っていると思います。どこに立っているかは分かりません。取り敢えず、靴底の上に立っています。ここは何処なのでしょうか。私にはわかりません。何も無いのです。ここには、何も…。分かりませんが、わかるのです。ここは空洞です。きっと、とても広い空洞なんです。支えを失い、崩落して、更に広がったような。でも、瓦礫はありません。無いんです。何もありません。壁だけです。ポッカリと、ポッカリと空いています。身体の真ん中、そこだけが空白なんです。ゾワゾワとした寒気が、下から上がってきます。まるで浮き足立つような、ふわふわとした感覚が離れません。足が浮いているのでしょうか。立っているのに。不思議です、不思議です。ここは意外と明るいですね。いえ、暗かったのかさえ知りません。でも、明るいなと思ったのです。壁が見えているからでしょうか。ずっと、何かに追われています。いえ、実際には追われていません。背後には何もいません。それだけはわかっています。でも、常に焦燥感が拭えません。何かに焦っているのです。わかりません。

 すみません。何かありませんか。ここに、ここは、何も無いんです。あったと思ったんです。でも、何もなかった。無いんです。結局、あったと思ったのは幻でした。偽物でした。嘘でした。この手には何もありません。本当です。でも、膜がかかっています。柔らかく纏わりついて、指を少し動かせば、意外と張られていることがわかる、そんな膜です。厚みがあります。確かな重さも感じます。でも、何も無いんです。手だけがあります。私はそれを知っています。手先が痺れて、悴んで、それを錯覚しているだけなんです。脳って、馬鹿なんです。だから、無いんです。

 ずっと、空気を喰んでいます。砂でも噛めれば違うのでしょうか。つぶつぶザラザラとした何かがあれば、少しは気も紛れたでしょうか。でも、空気しかありません。実際は空気があるのかも分かりません。でも、息ができています。でも苦しいです。自ら首を絞めているような。でも、手はここにあります。

 喰んでいると、歯が当たります。歯と歯がぶつかって、脳に電気が流れます。直ぐに消えて、歯の感触だけが残ります。なんて味気ない。

 片目が潰れています。いえ、開いてはいるんです。でも、潰れています。感覚があるんです。見えてはいます。真ん中以外の部分だけ、見えてはいます。真ん中は見えません。まるで、黒目の真ん中に、分厚い膜を張られたように、そこだけが見えません。片目を瞑と、よくわかります。みにくいです。両目を開けると、圧迫されているような、違和感があります。瞼は開いているのに、上から押さえつけられているようで、なんとも居心地悪いです。

 ここには、匂いがあります。履き熟れた靴の蒸れたような臭いと、服屋の布の臭いと、少し、腐りかけの苺と、煙草の臭いが混じっています。臭いんですかね、わかりません。本当に、何もわからないんです。

 お願いです。何かくれませんか。何でもいい、何でも構いません。目を、鼻を、口を、耳を、脳をください。何も無い、何も無いんです。どれか一つ、一つで構いません。もし、くれるなら、私はこの頭を差し上げます。不出来な頭です。等しいものではないでしょう。でも、私が差し出せるのはこれだけなんです。あなた方の、その一部、どれか一つでもあれば、私はこの手で、何かを書ける気がするのです。だから、どうか一つ、頂けませんか?

 せめて、狂気を、幻想を、執着を、飢餓を、喪失を、知識を…。何か一つでもあれば、何か書ける気がするのです。でも、私にはありません。どれ一つ、何も無いんです。だから。持っているフリをして、ひたすら殻の中で想像して、真似にならない真似をします。どれも造り物、紛い物なんです。ほら、だから薄いんです。浅いんです。軽いんです。書けません。

 壁に一つ、取っ掛かりをください。何も無いんです。こんな場所で、一体何を書けばいいんですか。何か書けますか。誰が読むんですか。ねぇ、凡人です。凡人なんです。凄いって言われたい?そうです。そうなんです。認めて、知って、わかってほしい。でもね、本当に凡人なんです。だって、知っているんです。その先を、深さを、高さを、暗さを。まるで、山のようなんです。知っていますか?高い山は海の中にあるんですよ。深い、深い場所に、どっしりと高い山が聳え立っているんです。そんな場所を知っている人がいるんです。私は知りません。だって、凡人ですから。

 こんなものを書いて、何になるんでしょうか。でも、手だけは動くんです。相変わらず、壁があります。蜘蛛の糸はありません。ただ、手だけを動かしています。スランプなんです。




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