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Track 06 月下ディソナンス

 酒場を後にし、月光だけが照明の村道を教授と肩を並べて歩く。

 薪の煙と酒の残り香、湿った大地の匂い――三つの要素が入り混じって、胸の奥にほんのり温かな余韻を立ち上らせる。石畳を踏むたび靴底が小さく響き、夜の静寂にささやかなリズムを刻む。

 気づけば、こんな詩を紡ぎたくなるほどに酔いがまわっていた。

 終電を逃して下北を楽器抱えてさまよった夜を思い出す。あの直後トラックにひかれて異世界転移したわけだが、それほど時間の経っていないはずの今、知らない世界の夜風でアルコールを飛ばしている。人生、ちょっと先を読むのがほんと難しい。


「しかし教授、タフっすよね。年のわりに酒に無傷とか、肝臓ミスリル製ですか?」


 この世界にミスリルという素材が存在するのかは知らなかったが、そんな軽口を放ると、教授はメガネの奥でだけ小さく笑った――インテリ限定版スマイル。


「強いのではなく、慣れだよ。毒も酒も、歳月を重ねれば同じ味になる」


 はい、人生訓をありがとうございますと鼻で笑い、煙にまぎれて溜息一拍。


    ◇


 なぜか頭にちらつくのはイリヤの横顔だった。無口でクールに見えて意外と素直、ツンかと思えばデレもなく、分類学的には“ガラス製ハリネズミ”。……正直、ビジュアルは完全にチートレベルだ。前世の配信界隈に置いたら秒速でキモい連中のコメントの餌食となるだろう。


「……イリヤって、教授から見て何者なんすか? 実質娘みたいなもんでしょ?」


「もちろん娘だ。助手でもあるがね。――惚れたか? やらんぞ」


 こちとら赤面の暇もなく即否定。


「ないない。あれは推し枠です」


「冗談さ。だが陽介くん、願いがある」


 いつもの余裕を半音落とした声が、不意に夜気を引き締める。


「彼女と……イリヤと仲良くしてやってほしい」


 意表を突かれ、口が半開きで固まる。教授は続ける。


「実の親に捨てられた痛みは深い。わたしは研究にかまけ、父として十分なことをしてやれなかった」


 いやいや、俺から見れば十分にパパしてますって。


「大丈夫っすよ。イリヤさん、教授の話するときめちゃくちゃ嬉しそうだし」


「そう言ってもらえると救われるが……同年代の友達も恋も喧嘩も、あの子には少なすぎる」


 確かにこの村、若者がレアキャラ。都会へ流れるのがデフォらしい。しかしこちらの“都会”ねえ――見てみたい気もする。


「湿っぽい話はここまで! 教授の大好物、音楽トークの続きをどうです?」


 逃げるようにパンク史講義へ切り替えると、教授も苦笑してグラス(空)を置く仕草。


「興味深いが、今夜は飲み過ぎた。続きは明日だ」


「俺もアルコールで頭がダブルタイム気味す」


「実に楽しい夜だったな」


 その一言が胸をポンと叩く。前世への未練はあるけれど、今日の自分は確かに“ここ”にいる。


   ◇


 家の外観が視界に入った途端、夜気の質感が変わった。

 焚き火の匂いに紛れて、錆びた鉄を削ったような酸味が鼻を刺す。背中の筋肉が無意識にこわばり、足が地面の凹凸を探り始める。


 窓に灯るはずの柔らかな橙はなく、白く冷えた光が室内から漏れている。色温度がひと桁違うだけで、人が住む家が廃屋に見えることを初めて知った。


 教授がポケットから感知機を抜き、レバーを倒す。クリック音のあと、刃物でガラスを削ったようなノイズ。表示ランプが血色の赤で点滅した。


「……封印波が乱れている。イリヤ以外にも誰かが中にいる」


 酒で火照っていた胃が、氷水に沈められたように縮む。


 玄関前。ドアノブに指を置いた教授が振り向き、声を潜めた。


「中で何を見ても、声を上げるな」


 警告の余韻が胸に残るうちに、扉が静かに開く。


   ◇


 中へ一歩踏み込むと、空気は重く湿り、鉄粉が漂うような味が舌に乗った。

 ランプは点いているのに炎はほとんど揺れず、壁際の影だけが水面のように滲んでいる。


 光の下、イリヤが膝を折り縄で縛られていた。頬の乾いた血筋、手首を締め付ける縄の痕――そこにだけ生々しい赤がある。呼吸が浅く速い。


 隣に、闇を切り取ったような人物が立つ。漆黒の外套は床を這い、縁が静かに揺れる。

 片耳で揺れる黒曜石の飾りが、月光を反射して一点だけ冷たく光る。

 フードの奥、虹彩の色が抜けた双眸がこちらを捕えた瞬間、肺が反射的に息を止めた。


 外套の内側から微かな金属音がする。呼吸や鼓動ではなく、歯車がゆっくり噛み合うような硬質な擦過音。


 教授が低く名を呼ぶ。


「……セラ」


 ローブの人物――セラは口角だけわずかに上げ、温度のない笑みを形づくる。


「酒場で捕える手間が省けた」


 声帯は動いているのに、響きは空洞。言葉が耳に届いた瞬間、体温が一度下がる。


 セラの視線が俺に向き、内側の歯車がゆっくりと音を立てた。


演奏者プレイヤーが来たか。思ったより早い」


 喉が勝手に震える。教授の警告が頭の奥で鳴り続けているのに、声帯はかすかに痙攣した。


 セラの無彩色の瞳が、部屋の静けさを握り潰すようにじわりと収束していく。

 ――ここは、もう俺の知っていた世界じゃない。


 闇の真ん中で無表情に笑う怪異。それが、この世界線での“現実”だと骨に刻まれた。

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