馬術大会
馬術大会当日。
出場者の名前は、掲示板に張り出されている。
掲示板には人集りが出来ていた。
「え、マリーナ・サータディアと書かれているわ……! あの大悪女も出場するの?」
「嘘でしょう? 最悪じゃない。大会をめちゃくちゃにするつもりに決まっているわ」
「あんな悪女、出場しなければ良いのに」
皆、口々に私の悪口を述べていた。
しかし、学園内を歩いていると、ある声が聞こえた。
「ねぇ。でも、あの悪女、まだ噂のような行動をしていることを見たことがないのだれど……それにカートル公爵家の婚約記念パーティーでの出来事も……」
「そんなのまだ本性を誤魔化そうとしているだけに決まっているわ」
通りすがりに僅かに聞こえたどこかの噂の声。
それでも、その事が涙が出るほど嬉しくて。
私が起こした行動が無駄じゃなかったと教えてくれている。
これから馬術大会で優勝しようとしていることすら無駄ではないと教えてくれているようだった。
涙を堪える私に、隣を歩いていたクロルが何も言わずにハンカチを差し出してくれる。
「マリーナ様、きっとマリーナ様が国一番の自慢の王女と呼ばれる日も来ます」
「ありがとう。嬉しいわ」
それでも、涙はぐっと堪えた私は、ハンカチを使わずにクロルに返そうとした。
しかし、クロルは何故か微笑んだまま、ハンカチを受け取らない。
「クロル?」
「そのまま持っていて下さい。大会の会場では私はお側にいられません。お守り程度にしかならないとは思いますが……」
クロルの渡してくれたハンカチには、小さな花の刺繍が施されている。
「可愛い刺繍だわ。クロルも可愛らしいところがあるのね」
クロルがその時、小さく呟いた。
「それは……マリーナ様に渡そうと買ったものですので」
「え……! 私が頂いても良いのかしら?」
「はい。今回の大会の練習を頑張っていらしたので、お渡したくて……」
「ふふ、そういうものは優勝してから渡すものでしょう? 相変わらず、クロルは甘いのだから」
「王女であるマリーナ様に渡すのは躊躇ったのですが……もっと煌びやかなものの方がマリーナ様に似合ったかもしれません」
クロルが申し訳なさそうに視線を少しだけ下げた。
「ねぇ、クロル。私、本当に嬉しいわ。だって、クロルが刺繍の入ったハンカチを使うところを見たことがないもの」
「……?」
「クロルはいつも無地のハンカチを使っているでしょう? それにリーリルから聞いたわ。物に無頓着でいつも適当に選んでるって」
私はもう一度、クロルがくれたハンカチに視線を向けた。
「それだけ悩んでくれたのでしょう? 本当にありがとう」
その時、丁度チャイムが鳴った。
「そろそろ会場に行かないとね」
その時、クロルが私に頭を下げ、一礼をした。
「マリーナ様の健闘を心より願っております」
クロルが急に初めて出会った従者のように畏まる。
だから、私も王女らしく微笑んだ。
「ええ。ありがとう」
私は、そのままクロルと別れた。
だから……クロルがその後に呟いた言葉を知らない。
聞こえるはずもない。
「マリーナ様、貴方の側に居られることが私の一番の幸せです」
会場に人が集まっていく。
馬術大会が始まろうとしていた。
会場に着いた私は、自分の出番の順番を確認していた。
私の出番は、予選の中で三番目のレースだった。
今回の大会はコースにあるハードルのような障害物を超えてゴールを目指す。
そして、そのタイムを競う大会だ。
予選で良いタイムを残した5人だけが決勝に進める。
前のレースが始まり、タイムが記録されていく。
光景を見ているだけで緊張が広がっていくのが分かった。
最後の練習の日、クラヴィスにある質問をされた。
「ねぇ、マリーナ。君はもし優勝出来たら、表彰台の上で何を話すの?」
「え……?」
「前も言ったが、優勝して注目を集めている時に噂とは違う人物だと思わせるような発言をするのも良いだろう。確か優勝者は軽いスピーチをしても良いはずだ。優勝するだけで印象は変わるだろうから、マリーナに任せるが……」
クラヴィスの言葉が頭に残っている。
しかし、どちらにしてもまず優勝しないと。
予選が始まる直前、緊張して固まっていた手が解れていく感覚が分かった。
前に私はクラヴィスにこう言った。
「私には本当に度胸があるのか、それとも度胸があるフリが上手いのか、と。もしかしたら、私はフリが上手いだけかもしれない」
「それでも、いつだって諦めずに立ち向かうと決めていますの。だって、きっとそれが格好良い王女というものでしょう?」
私は国民に嫌われている王女だから……沢山の人々に嫌われているからこそ、自分が誇れるような王女でいると決めた。
緊張の解れた手をもう一度見つめる。
「格好良い王女になるのでしょう?」
私はギュッと何も持っていない手を握って、勇気を出した。
予選が始まっても、どこかまだ地に足が着いていないような感覚だった。
それでも、気づけば私は予選で一番にゴールテープを切っていた。
まだ心臓がドクドクと速なっているのが分かる気がした。
そんな心臓を治めるために、私は決勝が行われるまでの時間をテラスで過ごすことにした。
ほとんどの生徒が馬術大会を見に行っているので、テラスには誰もいない。
「マリーナ」
突然後ろから声をかけられて、ビクッと体が震えたのが分かった。
「クラヴィス、どうしてここに……?」
「会場から出ていくマリーナの姿が見えたから。緊張しているの?」
私は近くに置かれているテーブルに視線を落とした。
どこかクラヴィスと目を合わせるのが恥ずかしかったから。
「不思議と今はもう緊張していないのです。ただ……怖い。優勝出来ないことが怖いんじゃない。優勝することが怖いのです」
私の言葉をクラヴィスはただ静かに聞いていた。
「マリーナ・サータディアという大悪女が優勝すれば、それだけで注目を集める。注目を集めるために出るのですから、当たり前のことですわ……しかし、印象が変わる人もいれば、ただバッシングするだけの人もいるでしょう」
ああ、駄目だわ。
クラヴィスと話していると弱音を吐いてしまう。
心の弱い部分を晒してしまう。
「前も言った通り、この状況になったことに対して全く後悔はしていませんわ。それでも……皆に嫌われ、罵られることが嬉しいわけではない」
私はクラヴィスと目を合わせて、震えた声で言葉を紡いでいく。
「ねぇ、クラヴィス。本当に私が度胸がある『フリ』が上手いということは、ただの強がりとも言えるのかもしれませんね」
震えた声でそう述べた瞬間、クラヴィスが急に私を抱きしめた。
「っ! クラヴィス……!?」
驚いて離れようとする私をクラヴィスがさらに強く抱きしめた。
「マリーナ、君は……どれだけ甘えるのが下手なんだ」
クラヴィスの声もどこか震えているような気がする。
「どうかもっと頼ってくれ。一人で戦ってばかりいては、君の本心に気付けない」
クラヴィスの言葉に瞳が潤んで、視界が霞んだのが自分で分かった。
クラヴィスが私を抱きしめたまま、言葉を紡いでいく。
「ねぇ、マリーナ。君は安心して優勝すれば良い。君が誰かに嫌な言葉を吐かれた時は……その分、私が君を甘やかそう」
クラヴィスはいつだって優しくて、私が涙が出るほど嬉しい言葉を簡単にくれるのだ。
「君が度胸があるフリが上手いだけでも、強がりでも……私は君が大好きなんだ。君の力になりたいと心から思っている」
クラヴィスの言葉に顔が熱くなっていくのが分かった。
クラヴィスの言葉に他意はないことは分かっている。
きっと私を友人をして大切にしてくれているのだろう。
それなのに……
「マリーナ、大丈夫だから。どうか私に君を守らせて」
クラヴィスが私を抱きしめる腕を緩め、私と目を合わせる。
クラヴィスの顔に少しだけ赤くなっているように感じた。
その表情を見ると、さらに心臓が速なった。
その時、チャイムが鳴り、馬術大会の決勝がもうすぐ始まろうとしていた。
「そろそろマリーナは会場に行かないとね」
「クラヴィス……!」
クラヴィスはいつも通りの微笑みを私に向けて、テラスを出ていく。
私はしばらくクラヴィスの背中から目が離せなかった。
会場に着くと、レースのスタート地点に並ぶ。
私を見つけた生徒たちがザワザワとし始めたのが分かった。
「あの大悪女、本当に出場しているわ」
「大会をめちゃくちゃにするつもりじゃないの。迷惑だわ」
「出なければいいのに」
会場で係員を担当している生徒の声が聞こえる。
私には聞こえないが、きっと観覧席で見ている生徒も同じ反応をしているだろう。
それでも、私は平然と騎乗してスタートラインに立った。
「表情も変えないで……気味が悪いわ」
知ってるわ。
それでも、ここで悲しい顔をするのは私の理想の格好良い王女に反するの。
だから、私は王女らしく微笑んだ。
どこまでの距離の人々が見えているかは分からない。
それでも、きっと小さなことで世界は変わっていく。
スタートの合図である笛が鳴ろうとしていた。
ピー、という音と共に一斉に馬が走り出す。
それでも、私の前を走っている馬は居なくて。
誰も前にいないコースを私は走り抜けていく。
後ろが気になるのに、前しか見えないような感覚がどこか面白い。
周りの声もスタートする前より全然聞こえない。
それでも……
ゴールテープを切る寸前、「マリーナ!」と叫んだクラヴィスの声が聞こえた気がした。
ゴールテープを一番に切り、馬が止まる。
周りの音や歓声が一気に耳に入ってくる感覚がする。
会場を見渡せば、罵声ではなく歓声が聞こえる。
いや、罵声も混じっているのかもしれない。
それでも、歓声も聞こえるのだ。
それが何より嬉しくて。
私は気づいたら、観客席を見渡していた。
無意識にクラヴィスの姿を探しても、見つからない。
そんな私に係の者が声をかけた。
「これから表彰式なのですが……」
私は慌てて我に帰り、すぐに表彰式に移る準備を始めた。
会場の視線が私に向いているのを感じる。
表彰式が始まっても、皆の注目は私に向いたままだった。
観客たちが私のスピーチ……言葉に集中しているのが分かった。
「誰か正しい言葉を教えて下さい」と願っても、当たり前だが誰も教えてなどくれない。
何が批判を集める言葉で、何が批判を鎮める言葉なのかなんて誰にも分からない。
正解が誰にも分からないのならば、無いのならば、自分の言葉で話したい。
だって、噂と違う人物だと証明出来るのは……この場で私しかいないのだから。
さぁ、後は勇気を出すだけでしょう?
私は観客席を見渡した。
「ここから見ると、皆さんがあまりに遠く感じますわ」
私の言葉の意味がまだ誰にも伝わっていない。
だから、沢山の観客席にいる生徒たちと目を合わせるような気持ちで前を向いた。
「ここからでは、皆さんの性格や人柄、好きな物は分からない。だって、遠いですもの」
私は、前を向いたまま続けた。
「きっとそれと同じことだと思うのです」
「今ここで『私が噂とは違う人物だ』と言ったところできっと誰も信じないでしょう。だから、もっと近くで私を見て下さい」
「遠目で陰口を言っていては、私の本性に気づけない。私が噂通りの人物かも判断出来ない。私が何も考えずにただ悪政を行う人間か『皆さんの目』で判断して下さい」
さぁ、スピーチの最後には一番伝えたいことを。
「言いたいことがあるのでしたら、面と向かって言って下さいませ。悪口でもいいのです。全てにしっかりと向き合うことを約束しますわ」
悪い噂が広がった世界で生きていると、ずっと誰とも目が合っていない気がした。
皆が噂というフィルターを通して、私を見ている。
苦しくないはずなどなかった。
皆が私を遠巻きに見て、誰も私と目を合わさない。
誰と目が合っているのか、皆が何を考えているのか分からなくなっていく。
観客席に目を向ければ、他の生徒と初めて目が合った気がした。
その時、どこかの生徒がパチパチと小さく拍手をする。
それを皮切りに少しの生徒だけだが拍手をしてくれる者が増えていく。
最後には全体の半分ほどが拍手をしてくれていたように感じた。
勿論、釣られただけの者も多いだろうが、涙が出そうなほど嬉しかった。
それでも、何とか表彰式が終わるまで涙を堪えた。




