9ページ/魔法のドリンク
糸崎もみじの心臓は早鐘を打っていた。
夏風邪で寝込んでいる母が「ミニスキップのソフトクリームが食べたい」と言うので購入しにきたまではいいが、どうも先程から背後の足音が近付いてきている気がする。
気のせいだ、気のせいだ。もみじは胸骨の内側から叩き上げる鼓動を宥めようとそう言い聞かせる。だが過去の恐怖がもみじの自律神経を狂わせてしまう。暑さだけではない汗がこめかみを伝っていく。
職場であるニアマートと自宅の中間にあるコンビニ『ミニスキップ』。母ももみじも、ライバル店であるここのソフトクリームを気に入っている。普段は自転車を利用しているもみじだが、さすがにソフトクリーム片手に自転車に乗るわけにいかないので、早歩きで帰ろうとした途中のことだった。
やっぱり自転車で来ればよかった……。もみじは泣きそうになりながら足を進める。次の角を右に曲がり、十分程歩けば自宅だ。二つ買ったソフトクリームの透明なカップが、ビニール袋の中でカチカチぶつかりあっている。
振り返ることすらできない。目が合って、『あの人』だったらどうしよう……。という最悪なシナリオが湧き上がってくる。
ふと足が止まりそうになった。『あの人』は自分の家を知っている。このまま真っ直ぐ帰ってしまったら、それこそ自宅に招くようなものではないか……。
額の汗が次々にこめかみを滑っていく。どうしたらいい? どうしたらいい? もみじはパニックになりながらも、左へ曲がることを選択した。
地元でありながら、あまり反対側は詳しくない。更に左へ右へと角を曲がっていく。入れる店などあっただろうか? 地図を思い浮かべようとしても、焦りのせいで現在地すら不確かになってきた。
ふと見覚えのある物が目に入った。どこで見たのだったか、赤い自転車がとあるマンションの駐輪場に並べてあった。
八神麗緒の物だ。もみじの記憶力が目を覚ます。敷地内の壁に身を潜めた。どのフロアかまでは知らないが、どうか部屋にいてほしい……。祈りながらスマホを取り出した。
誤解を招くような発言の謝罪をしたのは、ミニスキップへ出かける直前だ。つい二十分くらい前のことだ。ならば通話にも応答してくれるはず。そうであってくれと通話ボタンをタップした。
『ももっ、もしもし?』
ガツンという固い物が当たるような音と共に、少し上ずった麗緒の声が聞こえた。もみじは先に漏れそうな嗚咽を飲み込み、代わりに必死に声を絞り出す。
「……麗緒先生、ですか?」
『はい。えっと、どうしました? あたし、さっき何か変なことでも……』
「助けてください! 麗緒先生、助けてください……」
麗緒の言葉を遮ったにも関わらず、理由も言い訳も話す余裕なんかなかった。それだけしか言葉に出来なかった。言葉はそれ以上出てこないくせに、涙は嗚咽と共にどんどん溢れてくる。
『どちらにいますか? 今、どこですか?』
いきなりの電話でわけが分からなかったのだろう。少し間を置き、麗緒は早口で尋ねてきた。もみじは六階まであるマンションを見上げる。
「下です。麗緒先生のマンションの下です」
『……分かりました。もみじさん、すぐ行くので通話切らないでくださいね?』
「は……い……」
しゃくり上げながら一言だけ返す。頼もしい返答に、また涙が次々と流れ落ちていく。
もみじは耳に当てたままのスマホをギュッと握りしめる。布の擦れるような音や扉の開閉音の奥で、「なーん」と猫の声が聞こえた。廊下を走る足音で、麗緒がいかに急いでくれているかがうかがえる。
やがてエントランスの自動扉の向こうに、髪を振り乱した黒縁メガネの麗緒の姿が見えた。汗やら涙やらでびしょびしょになったマスクのまま、もみじは麗緒のほうへ駆け寄る。開ききらない自動扉に肩をぶつけた麗緒もまた、びっしょりと汗をかきながら走ってきた。
「もみじさんっ? どうしましたっ?」
肩で息をしながら、麗緒は真剣な眼差しを向けてきた。説明したいのはやまやまなのだが、あいにくもうもみじには恐怖と安堵の嗚咽しか出てこない。
ひたすら涙を拭うだけでごめんなさいもありがとうも言えぬもみじに、麗緒は少し困った顔で「うち、上がりますか?」と小さな声で問いかけた。もみじは泣きじゃくりながらうんうんと頷く。人の迷惑も常識も考える余裕などなかった。
麗緒の部屋は五階だった。エレベーターの中ではずっと麗緒が「大丈夫、大丈夫」と背中をさすってくれた。明るい建物の中に入ったのと麗緒のおまじないで、もみじの不安は少しずつ薄らいでいった。
部屋の扉を開けるや否や、先程の声の主が「なーん」とロイヤルブルーの大きな目でお出迎えしてくれた。麗緒は慣れた手つきで「はいはい」と抱き上げ、もみじにはスリッパを用意してくれた。
「めっちゃ散らかってますけど、どうぞ」
「おじゃまします……」
もみじは鼻をぐずぐずさせながらもぺこりとお辞儀をする。玄関横のキッチンから見える奥の部屋では、テレビが点けっぱなしになっていた。先に入っていた麗緒はそれを消すと、「どうぞ?」ともう一度中へ促してきた。
「ソファにでも座っててください。ビールかジュースしかないんですけど……。あっ、『紅茶秘伝』のロイヤルミルクティーもあったかな?」
「……ありがとうございます。おかまいなく……」
そうは言っても麗緒はいそいそとキッチンへ消えていく。何やらシンクでガシャガシャしだした。突然ずうずうしく上がり込んだ知人の室内では視線のやり場に困る。もみじは大きく深呼吸し心拍を整えた。
「これ、めっちゃおいしいんで飲んでみてください。元気でますよ」
麗緒が差し出してきたのは大きなサワーグラス。受け取ろうか躊躇しているもみじの手に「はい」と持たせてくる。冷えたグラスに触れたおかげで、自分の身体が相当火照っていたことに気付いた。
二人がけのソファだが、麗緒はもみじの隣には座ってこなかった。ローテーブルの向こう側であぐらをかきだす。短パンなのでショーツが見えそうだ。もみじはグラスに視線を戻した。
視線を感じる。飲むか話すか促したいのだろう。当たり前だ。ここに至るいきさつを麗緒に話すのは当然のことだ。でも、どこから話したらいいのか分からない。もみじはグラスを手にしたまま、ずっと俯いていた。
「あー……」
何かを思い出したように、麗緒はぼりぼりと頭をかいた。そしてテーブル越しにティッシュ箱を差し出してくる。
「隣の部屋にいるんで、思いっきりチーンしてください。そのミルクティー、絶対元気出るんで騙されたと思って飲んでくださいね。あー、それと、あたしのでよければマスク持ってきます」
髪は半乾きでぼさぼさだし、タンクトップに短パン、ノーメイクに黒縁メガネと、いつもの麗緒とは全く違うただのだらしない干物女なのに、にっこり笑うといつもの頼もしい保健医の姿に見えた。安心感が湧いてくる。
そしてその計らいに胸が熱くなり、またじんわり涙がこみ上げてきた。
「ありがとうございます、麗緒先生……」
「いえいえ、ごゆっくり」
バタン、と隣室の扉が閉まる。ダイアナと言っていただろうか。じぃっと遠目からこちらを見ていたが、目が合った瞬間とてとて近寄ってきた。
もみじはびしょびしょになったマスクを外し、遠慮なくチーンと鼻をかんだ。やっと冷静さを取り戻してきた。はぁっと肩で大きなため息をつく。
紅茶秘伝のミルクティーはよく冬にホットを飲んでいる。甘すぎるくらいなのだが、冬にはあの甘さがたまらなく恋しくなる時があるのだ。コールドは初めてだ。有り難く思いながらちびりと飲んでみた。
「甘っ!」
思わず言葉に出てしまった。知っている紅茶秘伝の甘さではない。ホットとコールドの違いというわけでもない。通常の三倍は甘い。もみじは恐る恐る二口目も口にしたが、やはり喉に絡みつくような異常な甘さだ。ハチミツでも混ぜたのだろうか。
だが、せっかくの好意を無駄にするわけにもいかない。もみじは吐き気を覚えながらも半分ほど喉に流し込む。
「ダーイアナーぁ」
隣室から呼ぶご主人の声に、ダイアナの耳がぴくんと動いた。しばらくもみじの様子を観察していたダイアナだったが、「なーん」と一鳴きして去って行く。再び隣室の扉の締まる音がした。
もみじはどうしたもんかとグラスを置く。確かに喉はからからだったが、残り半分を飲みきれば嘔吐しそうだ。今でさえすでに胸やけしている。到底ごちそうさまできそうにない。
しかし、意表を突かれたとんでもないドリンクを飲んだおかげで、麗緒の言っていた通り、ちょっぴり元気が出てきた気がする……。
「むー……」
ダイアナがとてとて戻ってきた。鳴き方がおかしいと思ったら、口に何か咥えている。封筒くらいのサイズの白いビニールのようだ。「どうぞ」と言わんばかりにもみじの前にぽとりと落とした。
もみじはそれを拾い上げる。マスクだった。麗緒が気を利かせてくれたのだろう。個包装を破り、いつもより柔らかい生地のそれを耳にかけた。
「ぴったりですー、麗緒先生ー」
隣室に聞こえるよう、もみじは大きめの声で伝える。「よかったでーす」と返ってきた。
麗緒は気付いていた。自分がいたらマスクを取りづらいだろうと。マスクを取らなければ鼻もかめないし飲み物も飲めない。換えのマスクもダイアナに託すとは、完璧過ぎる気配りだ。
今こみ上げてくるのは胸やけ中のミルクティーではなく、感激と感謝の気持ちだ……。
もみじは再び溢れてきそうな涙を堪え、こんこんと隣室の扉をノックした。「はいはーい」と陽気な声が返ってくる。
黒縁メガネの麗緒が顔を出す。だがさすがにまずいと思ったのか、『タンクトップ&短パン』から『Tシャツ&ジャージ』バージョンに切り替わっていた。ボサボサだった髪は、まだ湿っているが、きちんとブラッシングされている。
「あの、溶け気味ですけど……よかったら召し上がりませんか?」
「何をです?」
「ミニスキップのソフトクリームです。二つあるので」
麗緒の表情がパアッと輝く。甘い物が好物なのはとうに知っていたが、どうやらソフトクリームもお好みらしい。
「うわー、いいんですかぁ? 嬉しいなぁ。でもこれ……」
「いいんです。ずうずうしくお邪魔させてもらって、ミルクティーまでごちそうになったので」
もみじがビニール袋ごと差し出すと、麗緒は「やったー!」と子供のように喜ぶ。先程までの頼もしい女性ともまた違う一面を見た気がした。
「あたし、後ろ向いてるから一緒に食べませんか?」
「え……」
もみじは沈黙してしまった。麗緒はにっこり微笑んで返答を待っている。助けを求めた理由も聞かず、マスクを常時しているわけも聞かず。この人はどこまで察しているのだろう?
何も話さず甘えたままではダメだ。口にして瘡蓋が剥がれてしまう恐怖は拭えないが、もみじは麗緒に全てを打ち明けることを決めた。