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 八神麗緒の至福の時が訪れた。キンキンに冷やした謎ビールをグビつくタイムである。

 今夜はカフェオレ割り。シャワーから上がるとカップ付きタンクトップと短パン、そしてインドカレー屋のキャラクターのごとく、濡れた髪をタオルで包み上げた姿でプルタブをプシュッと押し上げる。

 冷凍庫で凍らせておいたお気に入りのジョッキにカフェオレとビールを一対一で注ぎ、マドラーは使わずそのままグビついた。

「だはーっ! うんまっ」

 麗緒のマンションは2DK。キッチンのほか、くつろぎ部屋と寝室がある。くつろぎ部屋にローテーブルとソファを置き、麗緒はほぼ毎晩ここで晩酌をしている。

 謎ビールを四分の一程味わったところで、先程購入した牛すじ煮とニアチキをレンジへ。生徒に栄養指導してる立場が食べるもんじゃないな、と思いつつ、やはり欲望には勝てない。

 とはいえ十月の健康診断前だけは休肝日にしようと今のところだけ心に誓う。あくまで今のところだ。欲望に負ける自信ならある。

「なーん」

 足元のダイアナが見上げている。甘えた声を出す時はおねだりする時だ。

「今日はレッドだからだーめ」

「ぅなーん」

「だーめ。あげられないのー。辛いぞぉ?」

 なおも交渉の視線を浴びせ続けてくるダイアナをキッチンに残し、麗緒はあつあつのつまみをローテーブルに運ぶ。

 ソファにもたれ、衣のしなしなになったニアチキレッドを頬張った。苦いものは苦手な麗緒だが、甘いものの次に辛いものを好む。

「なー……」

 恨めしげな声でキッチンからにじり寄ってくるダイアナがおかしくて、麗緒は思わず吹き出した。もごもご動く麗緒の口元とテーブル上に、ロイヤルブルーの視線が行ったり来たり。さすがに牛すじ煮はお気に召さないらしく、やはりニアチキをねだっている。バッチリ目が合った。

「だめだってばぁ。アナたんのはあっちにあるでちょ?」

 指指すは部屋の隅に二つ並んだダイアナの食器。一つは猫缶、もう一つはミルクだ。そんなことは分かってる、とでも言いたげに指差しには反応しない。

 誰に似たんだか食べ物となると強情だな、と急いで咀嚼する。口内に全て突っ込みつつジョッキを片手にすると、放り投げたままのバッグから低い音が響きだした。

 消音モードにしたままのスマホが鳴っている。脂ぎった指をちゅぱちゅぱし、雑巾でも摘まむかのようにスマホを引っ張り出した。テーブル端の黒縁メガネをたぐり寄せ、光るディスプレイを覗き込む。

『もみじ:れお先生、こんばんは。』

 メッセージアプリに届いた文字に目を疑う。思わずジョッキを落としそうになった。

『もみじ:先程は失礼なことを言ってしまい、申し訳ありませんでした。』

 連続で届く。二通目はもっと疑った。落とす前にジョッキをテーブルへ戻す。

『もみじ:誤解させてしまったと思いますが、れお先生とお出かけしたくないとかではないです。連絡先交換できたことは嬉しかったです。』

『もみじ:今日はそれだけお伝えしたくて。突然失礼しました。』

 しばらく呆然としていた。頭を包んでいたタオルがはらりと肩に落ちる。

「なんで?」

 仕方なしに自分のご飯をカリカリ咀嚼していたダイアナが振り返った。「ごめん、お前じゃない」と訂正し、もみじから送信された四行を何度も読み返す。

「でも……行かれないんでしょ……? どゆことよ」

 つぶやき、ぐるぐる思考を巡らせる。

 既読無視も失礼なので、おずおずとテキストフィールドを開いた。ビールを飲み干し、さて何と返そうか顎先に片手を添える。

『Reo:もみじさん、こんばんは。メッセありがとうございます。』

 ひとまず一行送信。やけに暑さが増してきたのでエアコンを二度下げる。いつの間にかダイアナが隣に座っていた。

『Reo:気にしてないので大丈夫ですよー!』

『Reo:もみじさんこそ気にしないでくださいねー』

 おまけに『よろしく』と書かれたぽっちゃりにゃんこのスタンプを添える。語尾を延ばしたのは、テンション下がってないですよというアピールのつもりだ。

 すぐ既読になった。だが、数分待っても返事は来ない。スタンプ投入=会話終了、の概念に麗緒が気付いたのは、それからまもなくだった。

「あーぁ……」

 麗緒はまだ水分を含んだままの髪をぐしゃぐしゃかき回す。あっちこっちに水滴が飛び散り、隣のダイアナが迷惑そうにぷるるんと頭を振った。

 ソファにずりずり身を委ね、半座位でスマホを見つめる。もみじからの返信は、何分待とうがやってこない。

「またやっちまった?」

 ぼやいて座面にスマホを放り投げる。いたずらに混ぜた絵の具のような色の謎ビールを横から眺めていると、モミジは紅いイメージだが、もみじは淡い緑色のイメージだなぁなんてぼんやり思う。

 隣で顔を洗うダイアナは、見たまんまグレーか。額の三日月模様は真っ白だが、大部分がグレーなのでイメージもグレーだ。

 ならば自分はどうだ……?

 他人にどう思われているのだろう。白衣の印象から白か? それは自分からすれば一番遠い色だ……。

「ねぇダイアナ、どう思う?」

 同居人はすでに丸くなって寝に入っている。俗に言う『アンモニャイト』というやつだ。一歳六ヶ月の成猫のわりに小ぶりな身体を一撫でし、干物女はよっこらしょっと身を起こす。

 気を取り直して二杯目を注ぎ、ジョッキを口にしようとした瞬間、再びスマホが震動した。連続二回震える。麗緒は急いでスマホを手にした。

『伊織:お疲れー!』

『伊織:例の医者と別れたー。三年も付き合っていながらマザコンだと気付かなかった自分が情けないー!』

 病院勤務時代の同僚からだった。

 秋里伊織あきさといおり、看護学部から同じ国立病院に就職した、麗緒が心を許せる友人の一人である。病棟勤務で忙しくなかなか会えないが、こうしてちょくちょく連絡は取っている。

『伊織:れおー! 寂しいよーぉ! 会いたいよーぉ!』

 苦笑が漏れる。もみじからでなかったがっかり感が先走ったものの、友人からのラブコールはそれ以上に嬉しい。無論、友人の破局を笑うつもりはないが、婚約直前でのマザコン発覚は非常に重要なので、危機一髪救われたことに胸をなで下ろす。

『Reo:色々お疲れー! あたしはいつでも会いたいぞー!』

『伊織:うぇーん。そう言ってくれるのれおだけだよー! やけ酒したーい!』

『Reo:いつでも付き合うぞ!』

『伊織:あんがと! 今夜勤中だからまた連絡するー』

 仕事中だったんかい! と肩を揺らす。頼ってくれる友人がいてくれることに感謝し、改めてジョッキを傾ける。必要とされている実感に、少しだけ元気を取り戻した。

 伊織は新卒から内科勤務で、体力的にも精神的にもタフである。そんな友人が寂しいとこぼしてくれるのだ。嬉しくないわけがない。やたらと夜勤を多く引き受けているので上手い用に使われているようだが、次のオフにはこっちがおごってやるか、とカレンダーアプリを開く。

 八月も半分を切った。三十一日、夏休みの終わりと共に、あの子の命日が訪れる……。

 麗緒が新卒初めて配属になったのは小児病棟だった。もともと子供は好きだったし、二年遅れでやっと職務に就けたので、麗緒は毎日水を得た魚のように活き活きしていた。

 担当していた患者に、特発性肺繊維症という難病で入院していた中学生で、夢子ちゃんという少女がいた。なぜか麗緒にとても懐いていて、麗緒もまた、そんな夢子ちゃんをとても気にかけていた。

 命とは教科書通りにはいかない。急性増悪を発症した夢子ちゃんは、わずか十四歳でこの世を去った……。医師だろうが看護師だろうが、救えない命は五万とある。死を待つしかないと知りながら、それでもたくましく明るく生き抜いた夢子ちゃんの笑顔がいつまでも脳裏から離れなかった。

 割り切れなかった。当たり前のように命が燃え尽きていく病院という箱の中で、自分が助けたい命に何もできないことがどうしても割り切れなかった。それは逆に看護師として失格だと師長にキツく叱咤された。

 言われて当然だとは思う。伊織にも「それも含めてうちらの仕事じゃん?」と切なく言われた。分かってはいるくせにそう言わせてしまった自分が余計に嫌になる。

 師長や伊織が強いんじゃない。死が隣にある職場は自分にはむいていないんだと今更自覚した。看護師にもなりきれなかった自分は、初めから医師になんかなれなかった。浪人という屈辱を二度も味わう必要なんかなかった……。

 どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。麗緒は次から次へと自分を責め続け、看護師を辞めることを決意した。

 牛すじ煮をちびちびつまみ、写真アプリから夢子ちゃんとのツーショットを開く。青白く痩せこけた少女が、新人ナース時代の自分と頬をくっつけて嬉しそうに笑っている。

『麗緒さんみたいな人が保健医さんだったら、毎日保健室行くのになー』

 入退院を繰り返していた夢子ちゃんは、登校してもほぼ保健室にいたという。だけど馴染めなかった同級生たちの中にいるより、保健室にいるほうが落ち着くと言っていた。消毒液の匂いのする、保健室が好きだと言っていた。

 夢子ちゃんの行きたくても行けなかった学校に、今自分が勤務している。

 麗緒はその保健室の教員になった。心身共に救いを求める保健室に。

 咳き込みながらも笑顔でそんなことを言ってくれた夢子ちゃんの理想とする保健医に、自分はなれているのだろうか……。

 生徒たちだけではなく、頼れる大人に……。

 二杯目も一気に呷り、なんとなくテレビを点けた。知らない芸人が野菜を収穫している。途中から見ても特別面白いわけではない。明日のつまみはきゅうりの梅肉乗せにすっかな、なんて思いながら二本目のビールを取りに行く。

 蒸し暑いキッチンで冷蔵庫に首を突っ込んでいると、またもスマホがブーブーと唸り出した。はいはい、どうせ伊織でしょ? と缶ビール片手に覗き込めば、『もみじさん』と表示されていた。しかも、今度はメッセージではなく電話着信である。

「ももっ、もしもし?」

 半ば叩きつけるように缶ビールをテーブルに置き、急いでスマホを耳に当てる。謎ビール二杯で酔っ払う麗緒ではないが、とっさのことに思わずどもってしまった。

『……麗緒先生、ですか?』

 外だろうか。車の走行音が微かに遠くで鳴っている。少し風の音も聞こえる。

 麗緒は脳内を急速回転させ、メッセージを一行ずつ巻き戻す。やらかしたはやらかしたが、いきなり電話で咎められるような文は送っていないはずだ。そうは思いつつも自信のない麗緒の手にはじんわり汗が滲んでくる。

 親の顔色ばかり伺って育つと、自分の落ち度をあら探ししてしまう。何かしでかしてやいないかと、常に自分の言動を振り返るくせがついてしまう。心拍数が上がっていくのを感じながら、スマホを反対の手に持ち替えた。

「はい。えっと、どうしました? あたし、さっき何か変なことでも……」

『助けてください! 麗緒先生、助けてください……』

 想像も付かなかった言葉に驚く間もなく、通話口からはもみじの悲痛な嗚咽が漏れてきた。


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