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7ページ/プライベートコミュニケーション

 

 八神麗緒は呆然としていた。

 ぺこりと頭を下げ、「では、失礼します」とペダルをこぎ出したもみじの姿が小さくなっていく。

 ニアマート前の街路樹では、ツクツクボウシたちが頭上でやかましい。真横で帰路に急ぐ車のエンジン音だってやかましい。

 だが今の麗緒には、その鳴き声すらも耳に届いていない。

『麗緒先生とお食事に行くことはできませんが、それでもよければよろしくお願いします』

 そそくさとメッセージアプリの連絡先追加画面を提示してきたもみじだったが、麗緒が読み取るや否や早口でそう告げてきた。畳み掛けるように「先生は真っ直ぐ帰られますよね? スーパー寄って行くので私はここで」と麗緒の開きかけた口を動かす暇も与えずに。

 麗緒は角を曲がり、見えなくなったもみじの跡を辿るようにのろのろ歩き出す。大学時代から愛用している赤い自転車が、ギアチェンジしたかのようにやけに重く感じた。

『麗緒先生とお食事に行くことはできませんが、それでもよければよろしくお願いします』

 もみじの言葉が何度もリフレインする……。

 食事には行かない……?

 連絡先交換すら迷惑だったのだろうか?

 だとすると、敬遠されている理由はなんだろう……。麗緒は頭の中で、この4カ月間のもみじとの出来事を回想する。だが残念なことに、自分の落ち度らしきことは何も見つからなかった。

 所詮は店員と客。一日に何百人と来店する客の一人に過ぎない。親しく話せる同性といえど、いきなり距離を詰めすぎたのだろうか。

 酒も飲めなくはないと聞いたことがある。だからいずれ食事や呑みに誘い、病気のことも打ち明け、相談できるような立場になれれば、と思っていた。

 呑めないのが口実だったとしても、食事にすら行けない理由はなんだろう……。

 マスクのことだろうか。やはり呼吸器疾患で副流煙を気にしている? いや、最近は禁煙店舗がほとんどだし、その可能性は低い。

 それとも、隠したいのは病気じゃなくて……もしかして……。

 あの場で理由を聞けなかったことに後悔もするが、大人として聞かなかったことが正解だったかもしれない、と複雑な気持ちになる。

 逃げるように去って行ったもみじの、申し訳なさそうな眉尻に答えが隠れているはずだ。元看護師として、現保健医として、言いたくても言えない事情があることを察知しているはずなのに、踏み込んではいけないフィールドのその奥が知りたいと思ってしまうのは、行き過ぎた職業病じゃないか、と自分を叱咤する。

 嫌われただろうか……。だとするなら、連絡先すら教えないはずだとは思いつつも、やはり後悔ばかりが膨らんでいく……。

「八神先生」

 ハッと我に返る。ボーッと歩いているうち、押していた自転車が白線を跨ぎ車道へはみ出していた。慌てて歩道側へハンドルを捻った。

 声のほうへ振り向くと、国語科教員の鷺ノ宮京さぎのみやきょうが、青い車の助手席側のウィンドウを開いてこちらを覗き込んでいた。

「あ、鷺ノ宮先生……すいません。ボーッとしちゃってて……」

「危ないですよ? クラクション鳴らすのもびっくりさせちゃうかなと思いまして」

「お気遣いありがとうございます。いやぁ、暑さでやられてるんですかねぇ。おかげで目が覚めましたよ。あはは」

「ならいいですけど」

 そう言って、京は安堵の笑みを浮かべた。中性的な雰囲気だが、笑顔もクールビューティーで羨ましい。

 京はまりあと同様、年下の先輩教員。大卒三年目ともあって落ち着きも貫禄もある。クールな容姿と人当たりの良さが相まって生徒からの人気も高い。ふとした時に陰りを感じることもあるが、麗緒にとってはわりと話しやすい教員の一人である。

「あの……鷺ノ宮先生? 急に変なこと聞いてもいいですか?」

「はい、何でしょう?」

 京は後続車がないことを確認し、助手席側に身を乗り出した。

 また後悔することになるかな、と懸念しつつ、麗緒は腹をくくって切り出す。

「鷺ノ宮先生は、あたしが急に食事に誘ったら困りますか?」

 当然ながら、京はきょとんとする。

「どうしたんですか、突然。……別に構いませんよ、食事でも呑みでも」

「い、いえ、もうすぐ二学期が始まりますし、生徒たちのいろんなことを先生方からお伺いしたいなと思っていまして……」

「あぁ、そういうことでしたら、ぜひ日程合わせてご一緒させてもらいますよ。いつでも誘ってください」

「ありがとうございます。すいません、お引き留めして。ではまた明日」

「はい、お疲れ様でした」

 今度はチャレンジ成功、と胸をなで下ろす。

 ウィンドゥを閉める間際、クールに片手を上げた京。加速していく青い車を見送り、あの人はきっと、昔はおイタしていた側だっただろうな、と嗅ぎ分ける。

 小学校から高校まで、習い事と勉強しかしてこなかった麗緒は、学年に必ず一人はいる『教員泣かせ』に憧れを抱いていたことがあった。

 制限されても注意されても、あんな風に大人の顔色なんて気にせずに自由に生きてみたいと……。塞がった京のピアスの穴の数を見て、そう願っていた頃の自分を思い出す。

 麗緒は恋愛も夜遊びもしたことがない。だが、口にこそしないが京からは麗緒とは真逆の香りがするのだ。きっと、昼間には見せない別の『京』がいるのだろう。夜になると干物になる麗緒とは違い、彼女には『夜』がとても似合う気がする。

 もうすぐ夏休みが終わる。青春なんて言葉がかすりもしなかった自分に足りないものがなんとなく見えてきた。

 プライベート時のコミュニケーション能力だ。

 もちろん、友達がいなかったわけではない。看護師の時も前校の時も、常に患者や生徒に寄り添ってきた。

 だが、学生らしい遊びをしてこなかったせいか、麗緒には決定的な欠如がみられる。

 学校や職場、囲われた箱の中では人間関係を築くことはできる。だが、外に出ると、途端に距離感を掴めなくなるのかもしれない。

 京は基本的に人当たりが良い。だが、誰の前でも一定の距離というものを持っている。踏み込んで欲しくないテリトリーの話題になると、いつの間にかひらりと交してしまう。

 そういう他人の態度を見分けることはできるのだが、麗緒には京のように器用にそれができない。ある意味馬鹿正直で正面しか見せられないのだ。

 誰だって踏み込んで欲しくないフィールドがある。もみじは仕事以外では客と会わないようにしているのかもしれない。仕事とプライベートは分ける、連絡先は交換しても、一緒には出かけたくない、とそういうことだったのだろうか……。

 推測はしても答えはもみじの中にしかない。霧が晴れぬままペダルをこぎ出す。

 身体だけは大人になっても尻尾の取れていないカエルのような生徒たちとは違い、大人の繋がりは腹の探り合いだ。ちゃんと子供らしい子供でいられなかった麗緒も、まだオタマジャクシの尻尾が取れていないのかもしれない。

 保健医として学生たちに同じ視線で話せる利点があるとしても、外の大人社会で浮いているアラサーは実にイタい……。

 ため息が漏れる。交換はしたものの、なんてメッセージしたらいいのか分からなくなってきた。

 かといって自分から聞いておきながら放置も意味不明だろう。まずは謝罪からか? 『無理矢理聞いちゃったみたいでごめんなさい』とか?

 いや、なんか向こうにも謝罪させそうで嫌味っぽいかも。気の利くもみじは絶対こちらこそとか言うに違いない。罪悪感が増幅していくだけだ。

 自分への腹立たしさを抱えたまま、マンションの扉を開ける。待ってましたと玄関でお出迎えしてくれたダイアナを抱き上げ、「お前はこんなあたしでもいいのかい?」と問いかけた。ダイアナはただ、ごろごろと喉を鳴らすだけだった。


◆今回のゲスト


桜乃夜月様作「ラブソングにはまだ遠い」より 鷺ノ宮京さん


こちらの作品もよろしくお願いいたします。

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