48ページ/やり場のない怒り
八神麗緒は、病室の入り口でにっこり微笑むもみじに違和感を覚えていた。
感情豊かなもみじのことだ。自分がこんなことになって心配したに違いない。なんなら泣きはらした顔で現れると思っていた。
だが、麗緒の予想は大きく外れた。普段と何も変わらない。むしろすっきりしているような笑顔だ。これから出勤するのか、ダウンコートの下は、よく制服と合わせているスラックスだった。
もみじは経緯を知らないのだろうか? ならばにこにこ顔も納得できるが、この有様を見てにこにこ顔なのがそもそもおかしい……。
あの伊織でさえ涙ぐんでくれたというのに、以前麗美が押しかけてきた際の現場を知っているもみじにとってはさほど大きなショックではなかったということなのだろうか……?
それならそれでいいとも思う麗緒だったが、ちょっぴり淋しくもあった。
「もみじさん、あの……」
麗緒が起き上がろうとすると、もみじはいそいそ近寄ってきた。大きな紙袋がわさわさ音を立てる。
「あぁ起きないでいいですから。喋って大丈夫なんですか? ほっぺ、切れてて痛いんでしょう?」
確かに痛いし、ガーゼとテープがごわごわして喋りにくいのもある。だが、今まで散々事情聴取されていたのだ。麗緒にとっては今更である。
「ごめんなさい、もみじさん……塩レモ……」
「言うと思いましたっ!」
大声でバッサリ遮ったもみじはベッドサイドの丸椅子にドカッと紙袋を置いた。眉が思いっきりつり上がっており、マスクをしていても、唇を尖らせているのが分かる。冷ややかにぎろりと麗緒を見下ろした。
「麗緒さん? 他にも言わなきゃいけないことがあるでしょう?」
声色が変わった。先程の笑顔はどこへやらの急な変貌に、麗緒はびくっと首をすくめる。
「え、えっ? えっと……白菜買えなくてごめんなさい……?」
「違いますっ! おバカですか、あなたはっ。ごめんなさい以外は言えないんですか?」
伊織にも言われたばかりだ。自尊心の欠片もない麗緒にとっては痛くもかゆくもないお言葉なので、やっぱり怒られた……と苦笑してしまう。
「……麗緒さん? 何笑ってるんですか?」
「い、いえ、笑ってません、笑ってません」
さらにトーンが下がったので、さすがの麗緒にも焦りが湧いてきた。大きなアーモンドアイを細め、目力だけで怒りをにじみ出しているもみじ。いつも叱られてはいるが、ここまでお怒りなもみじを見るのは初めてだった。
オーラに青い炎が見えそうだ。激おこプンプンどころではない。次に的を得ない言葉を言おうものなら、今度こそ命を落としそうな危機さえ感じる。
もしかして先程のにこにこ顔は、この怒りを隠すための仮面だったのだろうか……。
塩レモン鍋を食べさせてやれなかった謝罪がしたかったのに、もみじがそれを阻む。もっと先に言わなければいけないこととはなんだろう……と麗緒は目を泳がす。
もみじはずっと見下ろしたまま黙っている。こちらの開口を待っているのか、はたまた言いたいことをぐっと堪えているのか分からない……。
「おまたせー!」
気まずい空気の中、勢いよく開いた扉から、今度こそ伊織が入ってきた。私服に着替えている。もみじが無言で会釈をした。伊織はもみじの存在に気付くやいなや、「わっ!」とたぷたぷの顎を揺らし後ずさった。
「誰もいないと思ったからびっくりしたぁ。面会時間は三時からですよ? ……と言いたいとこだけど、麗緒の大事な人みたいだから、今日のところは見逃してあげようかな」
伊織はにんまり笑い、「ほい、預かりもん」と麗緒の左手に輪っかのような物を握らせてきた。
「これ……あっ」
右の薬指にはめていたはずの、お揃いのキャットリングだった。尻尾の付け根と胴体がぱっくり割れている。麗美の膝で踏まれ続けていたせいで、ひしゃげてしまったのだろうか……。
「運ばれてきた時点で歪んじゃってたんだけどね、金属だから検査と処置のために外させてもらったの。でもこれ、大事な物でしょ?」
それだけ言うと、伊織は「あっ、デートの時間に遅れちゃう! あー忙しい忙しい」と大声でボー読みの台詞を吐きながら出て行った。つくづく優秀な親友である。
扉が閉まると、再び沈黙が病室を包んだ。二人の視線は、無残に割られてしまったキャットリングに注がれる。麗緒はまたも「これ、ごめ……」と謝罪の言葉が出かけ、慌てて飲み込んだ。
「また買いに行きましょ?」
そう言って、もみじは麗緒の左手に握られたリングをさっと回収した。そして自分のリングも外し、ダウンコートのポケットに押し込んだ。
「いや、でも、もみじさんのはまだ……」
「いいんです。麗緒さんとお揃いじゃなきゃ意味がないんです」
強い意志を感じ、麗緒はもったいないなぁと思いつつ「じゃあコジローぬいぐるみの耳にでも飾りますか」とおどけてみせた。もみじは以外と頑固者なので、捨てると言ったら捨てる。それを言われる前に提案してみたのだ。
「……そうですね。考えておきます」
ふーっと息を吐き、もみじは麗緒の足元に腰かけた。目つきはいくらか落ち着いたように見える。空気を変えてくれた伊織様々だ。
もみじは座ったまま、麗緒の顔や肩、両手をゆっくり見渡している。麗緒も改めて眺めてみた。水色の検査着を着せられていた。コートも服も切られてしまったので着替えさせられたのだろう。
「明日退院したら、しばらく麗緒先生のおうちに泊まりますって言ってきました」
徐ろにもみじが切り出した。突然の報告に麗緒はぱちくりと瞬きをする。
「え……しばらく?」
確かに、泊まる時は両親に報告するように言ったのは麗緒だ。しかし『しばらく』という単語に引っかかった。
拒否したわけではないのだが、もみじは「ダメなんですか?」と覗き込んできた。
「ダメとは言わせませんよ? 右の手の甲が折れてて固定されてるからお料理もできない。左肩の傷が深くて上がらないから、お洗濯物すら干せない。左手でご飯食べれますか? 髪はどうやって洗うんですか? 身体だって……」
早口で一気に捲し立て、どんどん真顔を近付けてくるもみじ。寝転がっている麗緒には逃げ場がない。壁ドン状態である。
「わわわわわ分かりました分かりました! でも、身体洗ってもらうのはちょっと……」
「大丈夫です。包帯巻き直すのは麗緒さんに教えてもらいながらならきっとできます」
「いや、包帯とかの問題じゃなくて、いくら女同士でもお風呂は……」
「大丈夫です。麗緒さんだけに恥ずかしい思いはさせません。濡れてもいいように、私も裸で一緒に入ります」
「いやいやいやいや、だから全然大丈夫じゃ……」
ツッコミも聞かず、もみじは「あっ、そうだ!」と跳ね起きた。紙袋をごそごそし、取り出したのはダイアナぬいぐるみ。枕元にドドンと置き、それから歯ブラシや洗面用具、コップやらスマホの充電器やらを棚に並べだした。
「明日退院できるんでしょう? 一泊だけど足りない物あったら連絡くださいね。今日は三時で上がりなので、夕方には持って来れますから」
「あ、ありがとうございます……。それと、着替えも持ってきてくれたそうで……」
おずおず礼を言うと、もみじの顔がぱあっと明るくなった。
「ううん、だって麗緒さんには私しかいませんもんっ」
語尾に音符マークが付いたような言い方だった。麗緒はころころ変わるもみじの表情に全くついていけず、こちらは疑問符ばかりが頭に浮かぶ。
「麗緒さん、私あの後、麗緒さんが運ばれた後……」
また急にトーンが変わる。もみじは丸椅子にぺたんと座った。じっと麗緒の目を見つめながらぽつりぽつりと話し出す。
「私が降りて行った時には、もう麗緒さん意識なかったんです。妹ですって言って一緒に救急車乗りました。検査と処置の時間が長くて長くて、このまま私、おいていかれちゃうのかなって思いました……」
そしてもみじは「ふふっ、でも……」と続けた。
「帰ってきてくれてありがとうございます。私、また一人っ子になっちゃうかと思いましたよ」
もみじの安堵の笑みに、麗緒もやっと頬が緩んだ。
「もみじさんおいて死ぬわけないでしょ? 勝手にお姉ちゃん殺さないでくださいよ」
「違います。麗緒さんは世話のやける妹です」
「えー? あたしのほうが五つも年上なのにー?」
「あっ、やっと麗緒さんの口から教えてくれましたね? 年齢」
「あ……」
二人でくすくす笑う。喋っても笑っても頬が痛いが、今はそれでもいいと麗緒は思えた。
そしてもみじは、鍵を持たずに飛び出してしまったので着替えを取りに帰った際、なかなかオートロックを突破できず苦労したこと。搬送時に妹だと名乗り出たので、刑事に事情聴取された際怪しまれたこと。なかなか意識が戻らない麗緒の手を握った際、「お姉ちゃん……」と握り替えしてきたことをつらつら語った。
「うわごとで『もみじさん』じゃなくて、『お姉ちゃん』って言ったんです。だから、私がお姉ちゃんでしょ?」
「ははっ……そうでしたか……」
麗緒は苦笑するしかなかった。実の姉に殺されそうになってもなお、心のどこかでは麗美にそうしてもらいたかったという願望があったのかもしれない……。
優しく包んでくれる、姉を求めていたのかもしれない……。
「仕事の前に麗緒さんの顔見れてよかったです。それじゃ行ってきますね。足りない物があったら遠慮なく連絡してください」
「はーい、もみじお姉ちゃん」
言わせておきながら、もみじは「やだぁ!」と照れ隠しに麗緒の足をばしばし叩いた。とても嬉しそうだった。背を向けても黒髪の隙間から見える耳が真っ赤で、かわいいなぁと胸が熱くなる麗緒。
扉が閉まり、ダイアナぬいぐるみと二人きりになった。点滴が繋がれたままの左手で抱き寄せる。本物のダイアナは、今頃どうしているだろうか。半日いないことなんて日常茶飯事なのに、デフォルメされたビー玉のようなお目々に情けない自分の顔が映る。
もみじが合鍵が欲しいと言ってきた時のことを思い出した。麗緒が倒れたら、誰がダイアナたちの面倒を見るのかと言われた。もちろんもみじの意図はそれだけではないと読んでいたが、あの時素直に渡してよかったと思った。
そういえば、もみじが怒っていた理由は結局なんだったのだろうか……。
「あは、そっか……」
麗緒はゆっくり目を閉じる。自分が無意識に吐露してしまったうわごとが、もみじにやり場のない怒りを植え付けてしまったのだ。意識がなかったとはいえ、まだ麗美に捕らわれている愚かな麗緒を責めても仕方ないとは分かっていても、自己犠牲が過ぎる麗緒がもどかしすぎてやるせなかったに違いない……。
「んじゃ、遠慮なく甘えさせてもらいますよ、もみじお姉ちゃん……」
麗緒はダイアナぬいぐるみを抱えたまま、スマホに手を延ばす。左肩がずきっと痛んだ。メッセージアプリを立ち上げ『ビールとリンゴジュースお願いします』と送信する。
スマホを枕元に置き、さてなんて怒るだろうなーといたずらな笑みを浮かべ、麗緒は再び目を閉じた。




