4ページ/真夏の夜の夢
都合良く別の客が訪れてくれるわけもない丑三つ時のニアマート。何度見渡しても、客は干物女バージョンの八神麗緒のみ。助け船が欲しいところだが、そんな麗緒の心情とは裏腹に『♪みーつけたっ! にっあまーぁとー』というニアマートオリジナルCMソングが呑気に流れている。
「もみじ? お知り合いか?」
お互いに次の言葉を探していた麗緒ともみじは同時に振り返った。ぽっちゃりで人当たりの良さそうなおっちゃんがこちらに向かってくる。もみじと同じユニフォームから、ここの店員二号なのだと察した。
「あっ、お父さん。うん、こちら星花の保健医さんで、やが……」
お、お父さん……!
聴力が現実を拒んでいる。いよいよ視界もホワイトアウトしそうだ。
もみじに見られただけでも時間を巻き戻したいところなのに、更にそのパパンまで登場してきたのだ。しかも、ご丁寧に星花の教員ということも紹介されてしまった。
あの名門お嬢様学校に似つかわしくない干物女姿のままで……。
「そうでしたかそうでしたか。いつもごひいきにありがとうございます。場所柄、星花の先生方にも生徒さんたちにもお世話になりっぱなしでしてね。私はいつもこの時間にしかいないもんですから、なかなかお会いすることができなくて……。もみじ、バイトくんには連絡がついたからもういいよ。すぐに来るって言ってたから先生のお買い物のお手伝いしてさしあげて」
「そう? あの子がシフト忘れるなんて珍しいよね。じゃあ上がらせてもらおうかな。麗緒先生、買う物決まってたら持ってきますから、ここで待っててください」
そういえばもみじ父はこのニアマートのオーナーだと聞いたことがあるのを思い出した。店長であるもみじ母にはお目にかかったことがあるのだが、どうやらもみじは母の血が濃いらしい。多くは語るまい。
夜勤のバイトくんが来るまでのピンチヒッターとしてもみじが手伝っていたというわけか。そうでなければどんな鬼シフトだ。そして深夜に二十そこそこの娘を店番に置くとは危険極まりない。謎の糸が解けて、麗緒はちょっとだけ安堵する。
ブラックコンビニでもドッペルゲンガーでも猫又でもなかったのはいいのだが……。
どうせなら、真夏の夜の夢であってほしかった……。
相変わらずマスク越しでは感情を100%読み取ることは難しいもみじだが、大きなお目々をきりっと引き締め、「さあ、お姉さんに任せて何でも言ってごらん!」と言わんばかりのドヤ顔を向けてきた。
「え、えっと……じゃあ……」
麗緒はまず、つじつまを合わせるためににゃんこ用缶詰を三つ。その後思い出したようについでを装い飲み物をいくつかリクエスト。おまけに摘まみ代わりに、スナック菓子のカラメルコーンも追加した。
入り口脇のコピー機の前で待たされた麗緒は、言われた物を借り物競走のごとくさっさとカゴに入れるもみじの姿をぼんやり眺めていた。面倒見と責任感に溢れた横顔がりりしい。あっという間に自らレジを通し、小走りで戻ってくる。
「いつもの電子決済でいいですよね? スマホ貸してもらっていいですか?」
「え、あ……はい」
早口で言われ、麗緒は慌ててスマホを差し出す。「精算してきますね」とまた小走りでレジへ向かって行った。
「お待たせしましたぁ。エコバッグは私のですけど、あんまり使わないのでよかったら差し上げます」
缶詰とペットボトルががしゃがしゃ鳴くアイボリーの猫柄エコバッグを差し出しながらもみじはにっこり微笑む。ぎこちない手つきで受け取った麗緒は「あ、ありがとうございます……」と軽く頭を下げた。
「麗緒先生、その……よかったら一緒に帰りませんか? 心配なので送っていきます」
「え?」
もみじの提案に麗緒は思わず足を止めた。
「麗緒先生、二丁目って言ってましたよね? 私もそっち方面なので」
責任感丸出しの今のもみじに断りを入れたところで押し切られる気がして、麗緒はもうどうにでもなれと開き直り頷く。
「あー……そうなんですね。じゃあぜひ」
「ふふっ、よかったぁ。すぐ戻ります!」
もみじが裏口に自転車を取りに行っている間、麗緒はいつもの植え込みに座り、深いため息をついた。肺の中の空気を全部吐き出すと、蒸し暑さからか緊張からか、喉がからからだったことに気付いた。
借りたエコバッグに手を突っ込み、ジュースを適当に一本取り出し一気に流し込む。
いつもの場所から見えるいつもの景色。でも全く違う。空の色も静けさも、そしてここに座っている女の姿も……。
にゃんこたちも客も誰一人いない。店内の灯りはこんなにも明るかったのかと知る。『夏季限定 スパークリング梨』の甘さを口内で味わいながら、もうちょっとセンスのいいネーミングはなかったのかと一人ツッコむ。だいぶ冷静さを取り戻したようだ。
「大丈夫ですか? 少し休んでから帰ります?」
からからと自転車を押すもみじの声が近付いてくる。麗緒がなんとなく頷くと、もみじは「隣、失礼しますね」と並んで座った。
「もみじさん、ごめんなさい」
「いえいえ、これくらいどうってことないですから。体調の悪い時はお互い様ですよ」
「違うんです。別に体調悪いわけじゃないんです。ただ単に、買い物しに来ただけっていうか……」
もみじはやけに大きな声で「えぇっ!」とマスク越しに両手で顔を覆った。
「それって私の早とちりじゃないですかぁ。いやだ、恥ずかしい……。ごめんなさい、勘違いして……」
「いやいや、挙動不審だったあたしが悪いんで謝らないでください。ちゃんと訂正しなかったんだし、勘違いさせてもしょうがないですよ。あたしこそ、誤解させてほんとにごめんなさい」
「いえいえ、先生こそ謝らないでください! 言いにくくしたのは私のほうですから。あの、恥ずかしいから生徒さんや先生方には言わないでくださいね?」
麗緒は驚いて思わず上半身ごと振り返る。本当に恥ずかしいらしく、マスクから出ている部分が真っ赤だ。
「い、言わないですよ! あたしのほうこそ……い、言わないでもらっていいですか?」
後半ごにょりながら、おずおず尋ねる。もみじは赤面フェイスのままきょとんとした。
「え? 何をですか?」
「え……その……」
麗緒は一瞬躊躇った。もみじがこの干物姿を何もおかしくないと感じているのならば、あえて口止めするまでもないだろうか、と。
しかし、そうだとすると、何の悪気もなく「この前麗緒先生がねー、ジャージでねー、すっぴんでねー、ださださ黒縁メガネでねー、ぼさぼさの髪の毛キャップに押し込んで真夜中に買い物来たんだよー」などと言いふらされても大いに困る。
しかししかし、人の口に戸は立てられない。バラすなと言われるとバラしたくなるのが人間というものだ。もみじの勘違いなどバラす価値もないので言うつもりもないが、保健医としての威厳もクソもなくなるような干物バージョンをバラされては非常に困る。
「麗緒先生のプライベートスタイルのことなら言いませんよ?」
「プライベートスタ……」
カタカナにすると、急にシャレこいて聞こえる。
「先生だって人間ですもの、顔が一つのほうが人間として不自然じゃないですか」
「いや、でも……」
「それに、全然おかしくないですよ? ノーメイクでもメガネでも、麗緒先生が素敵な女性なのは変わりないです。夜中にジャージで来店するお客様なんて珍しくないですし。保健医なんてとっても気の抜けないお仕事ですよね? プライベートくらい気抜いて当たり前じゃないですか」
「気を……抜く……?」
「そのほうが人間らしくて、私は好きです。お休みの時くらい頑張らないでください。ねっ?」
いつの間にか赤みが引いたもみじがにっこり微笑む。今度は麗緒が赤面する番だ。耳まで熱くなってきたのを感じて俯いた。
自尊心の欠片もなく育った麗緒には、自分への褒め言葉など嘘か冗談か社交辞令かでしかないと思っている。嬉しくないと言えば嘘になるが、疑心暗鬼に打ち消されてしまうのだ。
「でも、麗緒先生が気になさっているなら言いません。私のことも秘密にしてくださいね。約束ですよ?」
頑張っている自分以外を見せてはいけないと思っていた。『評価してもらえない』、それが麗緒の心を鎖でがんじがらめにしている。勉強もスポーツも必死で頑張った。だが『姉』というゴールテープはどんなに頑張っても届くことはなかった。
頑張っても頑張っても褒められなかった少女、それが八神麗緒であり、歪んだプライドを死守しきれない中途半端な女、それが八神麗緒なのだ。
店内の灯りを背にしているもみじは、まるで後光が差しているようだった。
「もみじさん、あたしが送りますよ」
「え?」
麗緒はすくっと立ち上がり、自転車のカゴに荷物を入れた。
「買い物、手伝ってもらった御礼です。それに、かわいいお嬢さんがこんな時間に一人で帰るのは危ないですからあたしが送ります」
頭では分かっている。ダメな自分がいてもいいのだと。
「えー、でも多分麗緒先生のほうが近いですよ?」
だけど求めてしまう、仕事以外でも認めて貰える存在であることを。
「盆休みですから。おとなしくアラサー女に護衛されてください」
「い、いいんですか? じゃあ、お言葉に甘えて……」
必要とされる人間でありたいと、願ってしまう……。
始めは黙っていた麗緒だったが、並んで自転車を押しているうち、ぽつぽつと他愛のない話をしだした。
低血糖だと言い張って麗緒のおやつを分けてもらいに来る生徒の話、恋人の愚痴を吐きに来る生徒の話、救急箱を持ち歩いている生徒の話し、生理用品が欲しいと言われあげようとしたらごっそり持って行こうとした生徒の話、恋愛相談と言いつつノロケてばかりの生徒の話……。
もみじはマスク越しにけらけらとよく笑った。「それは○○さん?」と当てた時には驚きのあまり「本人に聞いたんですか?」と聞き返してしまった。
街灯を一つ超える度、二人の影が伸びたり縮んだりしている。昼間聞こえるはずの虫がジジッと鳴いた。誰もいない歩道に、二人の笑い声と二つの自転車のからからという音だけが響く。
「ところで、麗緒先生はおいくつなんですか?」
「えー? アラサーっつってんのにその先まで言わせますー? そういうもみじさんは?」
「来月で二十三ですよ?」
「うわー、あたしも速答してみたーい!」
「いいじゃないですか、速答してくださいよー」
鼻歌で遮り回避する。そしてまた二人で笑う。
乾ききった干物女の、一時の潤い。
錆び付いた鎖は決して簡単には解けないけれど、この糸崎もみじという女性や生徒たちがこんな自分を認めてくれる。
だから、認めてもらえている自分をいつかちゃんと認めてあげたい……。
夏休みが明けたら、もう少しかっこいい保健医でいられるよう頑張らなきゃな、と夜空を見上げた。
今夜のビールは、きっといつもよりおいしい。




