3ページ/悪夢
八神麗緒は、よく悪夢にうなされる。
決まって家族の夢だ。薄暗いどこかで若い頃の両親と幼い姉が、顔のない少女を囲んで罵倒し続けるという夢……。
顔のない少女はその真ん中で三角座りをし頭を抱えている。ひたすら謝り続ける。三人は身動きが取れないほどの距離で少女を囲み、お経を唱えているかのようにぼそぼそと小声でののしり続ける。
上手に出来なくてごめんなさい、いい点取れなくてごめんなさい、期待に応えられなくてごめんなさい、かわいくなくてごめんなさい、生まれてきてごめんなさい、生きててごめんなさい、死ねなくてごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。
お姉ちゃんのように出来なくてごめんなさい……。
どんなに叫ぼうと、謝罪は深い闇へ吸い込まれる。緩むことのない圧迫感がピークに達した頃、突然ぐにゃりと地面に穴が開き、少女はその不気味な底なし沼に飲み込まれていく。
落ちる直前、少女が最後に耳にしたのは『私のようになれないくせに、生きてる意味あんの?』という、鼻で笑う姉のつぶやき……。
※
「……ぅ……」
ざらりとした感触が頬をなぞった。重たい瞼をこじ開けるとダイアナのどアップがあった。もう一度ざらりと麗緒の頬を嘗める。ロイヤルブルーの目をまん丸にして麗緒を覗き込んでいる。今にも「大丈夫?」としゃべりかけてきそうな表情だった。
「ごめんダイアナ……起こしちゃった?」
言って苦笑する。現実でも謝ってしまった、と。
カーテンの向こうはまだ暗い。枕元のスマホで時刻を確認した。ディスプレイが眩しい。二時五十分……。まだベッドに入って二時間も経っていなかった。
エアコンは心地よく効いているものの、この手の夢を見て中途覚醒する夜は別の意味で寝苦しい。むしろ眠りにつく度にリピート上映されそうで怖い。
「おいで」
もぞもぞ寝返ってダイアナを抱きしめる。麗緒の腕の中にすっぽり収まったダイアナはごろごろと喉を鳴らした。
星花に採用が決まった報告の帰省を最後に、勤めだしてこの四ヶ月はまだ一度も両親に会っていない。顔を見るなり嫌味を言われるのも苦痛だし、なにより姉には会いたくない。
医師も看護師も諦めた麗緒が養護教諭の資格を取ったことを、両親はおもしろく思っていなかった。
医師一家に生まれ、姉と同じように育てられたにも関わらず、家族の中で一人だけ異色の落ちこぼれ……なのか?
……なぜ医師でなければダメなのか。なぜ病院勤務でなければダメなのか……。
麗緒は養護教諭の次女も誇らしく思ってほしかった。苦痛を訴える人を助ける職業には変わりないではないか。学校の保健医の何が悪い?
姉ちゃんには姉ちゃんの、あたしにはあたしの適性がある。あたしが看護師にむいてなかったように、姉ちゃんはきっと養護教諭にはむいていない。いや、絶対にむいていないだろう。
「ダイアナもそう思うでしょ?」
痛みを知っているあたしだからからこそ、思春期の学生たちに向き合える。麗緒はそう自負している。
しばらく喉を鳴らしていたダイアナが、急ににょろりと腕を抜けぴょんとベッドを降りていった。暗闇の奥でお気に入りの低反発クッションにぼふんと寝転がる音がした。麗緒も寂しいは寂しいが、一緒に寝るにはこの夏は暑すぎる。ビールでも飲んでもう一寝入りするかな、と布団を剥いだ。
明日から盆休みだ。眠れなかったら眠れなかったで昼寝でもすればいい。仕事がないのだから、無理に寝ようとしなくていいと思うと心が軽くなった。
冷蔵庫からビールを取り出そうとして、あるはずの物がないと気付く。
「んー?」
有り得ないがダイアナに目を向ける。彼女はまだ寝室で丸くなっている。にゃんこはどう頑張っても冷蔵庫は開けられない。じゃあやっぱり自分か? とぼさぼさの頭をかく。
ビールしかない……。
麗緒はアルコールに強く、特にビールを好む。しかし、極度の甘党なので、そのままでは苦くて飲めないのだ。
『苦くて飲めないのなら甘い物で割ればいい』。ある日思いついた麗緒は桃のジュースで割ってみた。かき氷シロップやメイプルシロップを始め、チョコレートソースやクリーミーシュガーも試した。どれもおいしかったが、一番のお気に入りはなんだかんだジュース割りだった。
この極端な甘党の麗緒の発想は、友人たちの共感を得たことが一度もない。しかし、誰になんと言われようと麗緒にはこの甘い物で割る謎ビールがご馳走なのである。
「しゃーない……」
今更ベッドに戻ったところで眠れるわけでもない。麗緒は寝間着代わりの短パンを脱ぎ、前年度まで務めていた高校の生徒たちが餞別でくれたジャージに足を通した。左下腹部に『やがみん』とひらがなで刺繍された青のジャージである。
こんな丑三つ時に星花の生徒にばったり会うわけがない。というより、外にいるのは夏の虫と自分くらいだろう。クリアするのは最寄りのコンビニ店員くらいなので、そこは特に気にならない。
メイクするのはめんどくさいのですっぴんのままでいい。コンタクトレンズを入れるのもめんどくさいので、家用の黒縁メガネでいい。ブローするのもめんどくさいのでキャップの中に押し込めばいい。ブラジャーをするのもめんどくさいが……これはさすがに付け直す。
スマホと鍵のみをジャージのポケットに入れ、「ちょっと行ってくんね」とダイアナを一撫で。そんな同居人は返事の代わりに目をつぶったままぷるるっと耳を震わせた。
今夜の麗緒の目的は『濃厚! 白桃のスカッシュ』という炭酸飲料だった。だが、徒歩二分の最寄りのコンビニにはなかった。店員に聞くのもなー……と別の甘々ジュースを選別してみたが、口はすでに白桃。手ぶらで出るのも申し訳ないので濃厚ミルク飴だけ購入しポケットに突っ込んだ。
外国人店員の「アジャシター」という送り言葉を聞きながら麗緒は思い出す。あの白桃スカッシュはニアマート限定だったということを……。
今夜何度目かの仕方なしさを重ね、一度マンションへ自転車を取りに戻る。通勤時は余裕をもってこいでいるが、誰もいないこの時間なので四・五分といったところだろう。
少し蒸し暑いが、スピードを出すと風が気持ちよかった。見慣れた景色も真夜中とあっては違う町に来たようだ。ちょっと新鮮だった。
至極当然のことだが、深夜の学園前も昼間とは打って変わってしんと静まりかえっていた。
敷地内に隣接する学生寮に目をこらしてみると、一つ二つ灯りが見える。こんな時間まで起きてる夜更かしさんは誰だ? もしくは明るくないと眠れない怖がりさんか? 該当しそうな生徒の顔を思い浮かべながら駐輪場に自転車を止めた。
ふと辺りを見渡した。にゃんこたちは夜行性のはずなのに、文字通り猫の子一匹見当たらない。夜は帰るところがあるのだろうか、とかなんとか思いつつ、いつものチャイムに迎えられた。
「いらっしゃいませー。……あれ? 麗緒先生?」
外は全くの別世界だったが、店内に入るといつものニアマートだった。いつも日中にいるはずのもみじが、なぜかこんな深夜にもいたのだ……。
麗緒は驚きと羞恥心で固まっていた。キャップとメガネで完璧な変装だとまでは思っていないが、入店早々すっぴんのみならずだらしない姿の完全オフ八神麗緒を一発で見抜かれてしまったのだから気まずさ満点である。恐るべし洞察力……。
なんの根拠もない偏見だが、こんな時間に店番をしているのは日本語八十点の外国人かデビューを夢見る金髪のバンド兄ちゃんか、あるいは脱サラしたはいいが転職先が上手く見つからず、繋ぎにバイトしてるおっちゃんばかりだと思い込んでいたのだ。
完全なる油断である。思い込みの偏見が生み出した落とし穴に自らハマったお馬鹿さんである。
「麗緒先生、こんな時間にもうちを利用してくれてたんですか?」
「……」
「先生?」
麗緒は今すぐUターンしたい気持ちをぐっと堪え、ガクつく足を一歩踏み出した。だがそれ以上は動けなかった。一方で脳内は余計なくらいフル回転している。
どうするどうする? この干物バージョンを開き直って八神麗緒として応対するか? いやいや、通りすがりの干物女を気取ってやり過ごすか? いやいやいやいや、今ならUターンしても遅くない。真夏の夜の夢だったのだと思わせられるのでは……?
もしくは……。
「眠れなかったんですか? ありますよね、そういう時も。……麗緒先生?」
フル回転には違いないが、名案は思いつかないほぼ空回り状態の麗緒の心情なんて何も知らないもみじは、あろうことかいそいそとカウンターから出てきた。
「どうしました? 顔色悪いですよ? 具合悪いんですか? ポカリスケットとかアクエリオスとか買いに来られたんですか? ゼリー飲料がいいですか? お買い物お手伝いするので何でも言ってください!」
……完全に勘違いさせてしまっている。それどころか体調不良で食欲でもないのかと心配かけてしまっている。不安に揺れるもみじの顔を直視できず、麗緒は気まずさが増す一方だった。
そして何より、ビールを割る物を買いに来たとは言えるわけがない……。
生徒の健康を管理する職務の養護教諭が、丑三つ時にアルコール分とたっぷりの糖分を摂取しようとしているだなんて言えるわけがない……。
「にゃ……」
「……にゃ?」
「にゃんこのご飯をきらしてしまって……え、えへへ」
なんとも苦しい嘘と引きつり笑いのせいで、もみじの表情に更なる困惑が重なった。