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26ページ/初対面

 


 八神麗緒は呆然としていた。

 あれから数十分が過ぎたというのに、あの柔らかい感触がまだ唇に残っている。そして、未だ顔の火照りが治まらない……。

 そんな麗緒のロストファーストキスなど知らないもみじは、ソファですーすーと心地よさそうな寝息を立てている。ベッドまで運んでやりたいのはやまやまなのだが、外から見た憶測ではもみじの部屋は二階だ。あいにく麗緒のへっぽこ腕力では持ち上げることすら叶わなかった。

 鍵を開けたままおいとまするのも気が引ける。だが両親の帰りはシフトからするにおそらく七時か八時だろう。ソファをもみじに占領されてしまったので、麗緒は床にぺたんと座り、ため息をつきながらソファの側面にもたれた。

 ちらりと振り返る。知り合って五ヶ月、初めてもみじの素顔を拝んでしまった。多くの星花生徒や教職員も見たことないであろうもみじの素顔を……。

 マスクをしてても美人は美人だ。しかし、外せば誰もが目を見張るほどの美人だった。こりゃ変態でも一般人でも好意を持ってしまうわな……と納得する麗緒。

 素顔を見てしまっただけでなく、寝顔まで拝んでしまうとは……。あげく唇まで……と思い出したところで頭をぶんぶん振った。あれは事故、あれは事故。ファーストキスなんかじゃない!……と繰り返す。

 頬にかかった横髪を払ってやった。眠れる森の美女は起きない。先程よりも赤みは引いている。

 時計を見上げた。針はとっくに頂点を超え、月曜日を迎えている。数時間後には出勤しなければならない。寝たい。シャワーも浴びたい。かわいそうだが、やはり起こしておいとましようか……。

 と、キッチンのほうからガタンと物音がした。麗緒の肩が跳ねる。誰か帰ってきた……? いや、お邪魔したした際にはもみじが施錠していたし、開錠する音はしなかった。

 もしかして……? と、リビングの扉をちょっとだけ開けた。足元から「にゃー」と元気な声がした。

 かわいい短足が特徴的なマンチカンが三匹並んでいた。紫色の首輪の子は、真っ直ぐもみじの元へ。緑色の首輪の子は、麗緒の踝にごちんとマーキング。オレンジ色の首輪の子は、警戒しているのか、じっと見上げたままだ。

「初めまして。君たちのご主人が寝ちゃったから帰れないんだよ……」

 しゃがんで二匹を撫でる。マーキングしてきた子はごろごろと喉を鳴らしたが、警戒中の子は一秒たりとも視線を離そうとしない。もみじの元へ向かった子は、ソファの下からもみじの寝顔を眺めていた。

「んー……」

 もぞりともみじが寝返りを打った。緑ちゃんももみじの元へ。押し出されるように紫ちゃんがぴょんとソファに飛び乗り、もみじの胸元でにゃーにゃーと鳴きだした。緑ちゃんも負けじと加勢する。

「こらこら、静かにしなさい。起きちゃうでしょーが」

 小声で注意するも、『おばさん、誰?』な表情を向けられただけ。起きてほしいのは山々なのだが、今起きてしまっても気まずい。

 ここで寝ちゃ風邪ひくよー、とでも言いたげに、二匹のにゃんこはにゃーにゃーと合唱し続ける。

「ん……あけびぃ……?」

 もみじがうっすらと目を開けた。慌てて背を向ける麗緒。ここまできてもなお、目を逸らしてしまうのはもはや癖なのかもしれない。

「あれ……麗緒先生……?」

 お目覚めのようだ。麗緒は床に座ったまま「はぁーい」と陽気にひらひら手を振った。

「ご、ごめんなさいっ。私、寝ちゃってたんですね!」

「あーいやいや、お気になさらず。入れていただいた紅茶がおいしくて、おかわりをいただこうかなと思っていたところなので」

 とっさに目に付いたティーポットに手を延す。とっくに冷め冷めでアイスティー状態ではあるのだが、喉がカラカラなのは事実なのであながち嘘ではない。

「あぁっ、入れ直しますよ」

「いやいや、いいんですよ。これだけ飲んだらおいとましますんで」

「いえ、申し訳ないので……」

 こぽこぽとカップに注いでいると、もみじががばっと起き出した。弾みで、胸元に乗っていたにゃんこが飛び降りてきた。麗緒の腕に当たり、ティーポットとカップは盛大にひっくり返った。

「うわぁ!」

「あぁー! あけびぃ、ダメじゃないの! あぁ、ごめんなさい麗緒先生!」

 失禁したかのごとく、麗緒の純白のシフォンスカートが見事に茶色く染まってしまった。あっという間にショーツにも冷たいものが浸みていく。立ち上がってはみたものの、スカートのシミは広がる一方だった。

「あちゃぁ……」

「やだぁ、ごめんなさい! すぐ脱いでください、先生。私の服貸しますから」

「いや、貸すって言われても……」

 下着までびしょびしょなのだが、それはさすがに……と途方に暮れる。

 だがいくら深夜といえど、しっかり茶色く染まってしまったスカートとびしょびしょのショーツのまま帰るわけにもいかず、かといってスカートを借りてノーパンで帰るわけにもいかず。ましてや「新品のパンツないですか?」などとも言えず……。

「下着、私が買ってきます!」

 後ろからぐいっと腕を引かれ、強引に振り向かされる。目が合ってしまった。素顔のもみじと目が合ってしまった……。

 眉毛は申し訳なさげに八の字に垂れているわりに、お目々は何かを決心したかのようにりりしい。ぱくぱくと動く唇は、奇麗な桜色だった。

「何色がいいですか? こんな時間だからコンビニで買いますんで、あまり選択枝はないですけど」

「い、いやいやいやいや、もみじさんに買ってきてもらうなんてできないですよっ? このまま帰りますんで大丈夫です、大丈夫です!」

「ダメです! うちの子がしちゃったことですし、風邪ひいちゃいますよ! 早く洗わないとシミになっちゃいますから、麗緒先生はシャワー浴びて待っててください!」

「ちょ、ちょっともみじさんっ?」

 麗緒の制止も虚しく、もみじはバタバタと二階へ駆け上がって行った。にゃんこたちも後を追う。

 もみじの正義感と面倒見の良さはいつも有り難いのだが、行動力の速さに毎度置いてけぼりになっている麗緒……。

 忙しなく階段を駆け下り、もみじはリビングへ戻ってきた。濡れたまま座るわけにいかず立ち尽くしていた麗緒に「はい!」とバスタオルが渡される。

「それと、こっちはワンピースです。洗ったばっかりなので奇麗ですよ? 多分ちょうどいいと思います。お風呂場は廊下出て左に行った突き当たりです。両親は仕事で朝まで帰ってこないので、安心してゆっくり入っててください! じゃ、行ってきますね」

 早口で一気に説明し、お決まりのマスクを装着したもみじが、鍵束とスマホを片手に玄関を飛び出して行った。施錠の音と、自転車のスタンドを上げる音が耳に届く。車輪の音が遠ざかって行った。

「まじで……? あは、あはははは……」

 初めて上がった家に独り取り残された。勝手に風呂に入れと、バスタオルと着替えまで用意された。なんだか笑えてきた。笑うしかなかった。というより、開き直るしかなかった。

 言われた通り風呂場へ向かう。廊下には所々、子供が描いたと思われる絵が飾ってあった。幼少期のもみじの作品だろうか。中には『金賞』や『優秀賞』などと勲章シールが貼られているものもある。

 絵の才能もあったのか、と自分と比べる。麗緒も絵を描くのは好きだった。だが、現在は得意ではない。むしろ苦手になってしまった。

 きっかけは小学生の時に描いた人体解剖図。クラスで金賞を取り、教室に貼り出された。自分でも力作だったと思う。

 しかし、それは実は姉の宿題を押しつけられて描いたもの。麗緒が描いたとは知らない周囲は姉を褒めちぎった。

 親には『お姉ちゃんのように上手に描けるようになりなさい』と言われ、姉には『コレより上手く描かないでよ?』と圧力をかけられ……。それ以来、麗緒は絵を描くことが好きではなくなってしまったのだ。

 一人っ子だと、親の愛情を独り占めできて羨ましいなぁと思ったことは数え切れないほどある。もちろん、そんな家庭ばかりではないだろうし、果たしてそれが幸せに繋がるのかと言えば一概には言えない。

 少なくとも、もみじは愛情一杯の仲良し家族だろう。ニアマートで見かける糸崎親子は仲睦まじい。もみじの過去には同情するが、守ってくれる家族がいて、そして帰る家があるというだけで、麗緒には眩しく見えてしまう……。

 自立心がなく、甘え上手な姉を持つ麗緒には、自立するという選択枝しかなかった。ああはなりたくないという反面教師のおかげだ。誰にも頼らず、何でも自分でできる人間でいなければならないと思っていた。

 だが、もみじには世話をやいてもらってばかりだ。完璧とは言わずとも、人に頼らず迷惑かけず生きてきたつもりだったのだが……。

 強引過ぎるけどね、と苦笑が漏れる。脱衣所の扉を閉めようとすると、一番警戒心を表していたオレンジちゃんがひょいと滑り込んできた。一撫でし、びしょ濡れのスカートをショッピングバッグへ詰め込む。

 主のいない他人の家でシャワーを借りるなど落ち着かないには変わりないが、ここはもうもみじの好意に甘えて開き直ることにした。頭からシャワーを被り、メイク落としもシャンプーも拝借。

 もみじとお揃いの香りのするシャンプーをわしゃわしゃと泡立てながら、この御礼はどうやって返すかな……と考える麗緒だった。




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