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25ページ/現実は甘く酒臭いもの

 

 八神麗緒は咳払いを一つし、ハンドバッグを持ち直した。

 静まり返った住宅街には、麗緒ともみじと、もみじの腕でみーみーと鳴いているマロ眉にゃんこしかいない。頭上で街灯がジジッと鳴った。

 小走りで駆寄ってくるもみじは長袖のTシャツにストレッチパンツというラフな装い。マスクこそしているものの、就寝支度済みのようだ。となると、青年との約束は突発的なものだったのだろうか。

「こんばんは。夜のお散歩ですか?」

 バイク青年が自分のことを女ストーカーだとかなんとか吹き込んでいやしないかと心配していたが、その心配はなさそうだ。もみじはいつもの調子である。ひとまずホッとした麗緒も笑顔で応える。

「こんばんは。あー、まぁそんなとこです」

「ちょうどよかった! うち、この近くなんです。よかったら寄っていきませんか? 両親は仕事でいませんし」

 自宅に誰もいないのに、青年は招き入れなかった。もみじ自ら出てきたということは、青年を上げるつもりはなかったということだろう。

 ならば、彼氏ではない……?

 もみじは海谷商業高校の出身だ。中学から女子だらけの畑で育った麗緒とは違い、男友達の一人や二人珍しくないのかもしれない。市役所の同僚という説だって有り得る。

 自宅の前まで来るのだ、どちらにせよ親しい仲なのだろうけど……。

 ぐるぐる思考を巡らせていると、じれったくなったのかもみじが腕を組んできた。「遠慮なさらずぅ」とにこにこしている。さらさらのボブヘアから、フローラル系のシャンプーの香りがした。風呂上がりらしい。

「い、いえ、もう遅いですし、明日も仕事ですんで……」

「少しだけ、ね? 手伝ってほしいスイーツがあるんです」

 ふふふっ、と無邪気に笑うので、麗緒の躊躇は傾いてしまう。散歩を嫌がるわんこのように半ば引きずられ、あれよあれよという間にもみじ宅まで来てしまった。

「麗緒先生、どうぞどうぞ? さっ、君は先にお部屋に入ってようねー?」

 ご機嫌なもみじがスリッパを出してくれた。麗緒は心の準備も出来ないまま「お邪魔します……」とごにょつく。

 もみじはマロ眉ちびにゃんこをにゃんこ用のキャリーバッグにすとんと入れ、「ちょっとだけごめんねー」とチャックを閉めた。振り返りこちらに手招きをし、リビングのソファに座るよう促してくる。

「麦茶でもいいですか? それともコーヒーのほうが……」

「いやいや、お構いなく。ほんっとすぐにおいとましますんで」

「あっ、そうだ! せっかくの高級スイーツだから、あのとっておきの紅茶開けちゃおうかなー」

 聞いてるんだか聞いてないんだか、もみじはウキウキでキッチンの戸棚を物色し出した。かなりご機嫌のようで、鼻歌まで聞こえてくる。

「スリランカのお土産でいただいたんです。まだ飲んでないんですけど、絶対おいしいはずですよー」

 白地に金の縁取りが入った上品なティーカップがことりと置かれた。そこへもみじが充分に葉の開いた紅茶を注いでいく。「お好みでどうぞ」と、小さな薔薇を模した角砂糖を二つくれた。

「あ、ありがとうございます……。でもあたし、ほんとにすぐ……」

「いいじゃないですかぁ。モンブラン、お嫌い?」

「んなわけないじゃないですか。もちろん好きですけど……」

「じゃあいいでしょ? 滅多に食べられない高級モンブランをいただいたのでー」

 じゃーん! とケーキボックスを掲げるもみじ。側面には超高級スイーツで有名な洋菓子店のロゴが印字されていた。

 高級すぎて一般人にはそうそうご縁のない店なのだが、麗緒は一度だけ食したことがある。初給料で自分へのご褒美にショートケーキを購入したのだ。あの時の感動は今でも覚えている。

「いや、でも、そんな高級モンブラン、あたしがもらっていいんですか? ご両親と召し上がったほうが……」

「うーん、残念ながらここのモンブランは洋酒がたっぷりらしいんです。うちの両親は全く飲めなくて。私もそんなに強くないんですけど、せっかくだから。あっ、そういえば麗緒先生、どこかへお出かけだったんですか? いいところに通りかかったから、運命かと思っちゃいました。はい、どうぞ!」

 完全にもみじペースに持っていかれてなすがままな麗緒。そんなことはお構いなしで、深夜のティータイムの支度を終えたもみじが隣に座る。マスクに手が伸びた。麗緒は反射的に顔を背けた。

「食べましょ食べましょ! いっただっきまーす」

「い、いただきます……」

 至極当然のことだが、ここは彼女の家なのだ。マスクを外さないほうがおかしい。そしてケーキを食すのだ。外さないわけがない。

「んー! おいしーい! ラム酒かな? ブランデーかな? やっぱりかなりお酒入ってるけど、すっごくおいしいですねー、麗緒先生ー」

 スプーン片手に躊躇っている麗緒の隣で、もみじが歓喜の声を挙げた。誰よりスイーツも酒も好物な麗緒の喉がごくりと鳴る。躊躇いは欲望にあっさり飲み込まれ、麗緒も高級モンブランにスプーンを入れた。

「うまーっ! ご両親、もったいないですねぇ。酒が苦手だと、こんなうまいものも食べれないのかぁ」

「ほんとですねー! うちの両親ってばお酒弱すぎて、お友達に『アルコール探知機』なんて呼ばれてたらしいですよ? それにしても予想以上に効いてますね。これじゃ一口あげただけでも倒れちゃいそう」

「そんなに効いてますか? まぁあたしがザルだから気付かないだけかもですけど。あたしのアルコール探知機能、ぶっ壊れてんだろうなぁ」

「ふふっ、それはそれで羨ましいです。お酒強かったら楽しそうですもん」

 カチャリとティーカップを置く音がした。麗緒も香りを堪能し一口すする。こちらもしぶみの少なく品のある紅茶だ。愛想のいい糸崎一家なので、きっとお客さんからのいただき物が多いのだろう。

 もみじがこうしてマスクを外すのは三度目だ。一度目は麗緒の自宅。二度目は保健室。もみじは麗緒と二人きりの時だけ飮食ができる。友人同士が当たり前のようにしていることなのに、もみじにはそれが容易に叶わない。一番もどかしいのはもみじ本人なのだろうけど……。

「子猫をもらってくれないかって言われて」

 徐に切り出され、麗緒は思わず振り返りそうになった。危ない危ない、と心中で思いつつ「さっきのマロ眉ちゃんですか?」と返す。

「はい。一度は断ったんですけどね、里親が見つかるまで預かることにしたんです。それで、その御礼に」

「御礼に高級モンブランとは……ずいぶん羽振りがいいんですね」

 脳裏に先程の青年の姿が過ぎる。車やバイクには詳しくないので、リッチマンかどうかまでは分からない。だが、流れからしてあの青年に間違いないだろう。

「彼女さんのアパートの前に捨てられてたそうなんです。自分ちはお母さんがアレルギーだし、彼女さんちはアパートでペット禁止だから助かるって」

「彼女……さんが拾ったんですか……」

 なぜかホッとしている自分がいる。やはり男友達か元同僚か、もしくは元彼……ということも考えられるが、少なくとももみじの現役彼氏ではないようだ。

『あの子のこと、頼みますね』

 青年の意味深な言葉がリフレインする。あの子? もみじをあの子呼ばわりするとすれば、やはりよほど親しい関係なのか、はたまた親戚か……。

「先生、紅茶のおかわりはいかがですか?」

 もんもんとしていたのでビクッと肩が跳ねた。「い、いや大丈夫です」とカップを手に取る。

「そうですか? お酒が強すぎて、なんだか私……」

「え? ……どうしましたか?」

 いくら待ってもそこから先は続かなかった。麗緒は片耳に集中するが、布の擦れる音一つしない。

「え、え、え? もみじさん? もしかして寝ちゃいました?」

「いえ……起きてます……」

 もみじは気だるそうだ。酒に弱い一家とはいえ、いくらなんでもモンブランで酔っ払うほどのゲコなのか? アルコール探知機能ゼロな麗緒は焦ってきた。

 家主にこのまま寝られてしまっては帰りづらい。おいとまするなら早くしなければ、と紅茶を一気飲みした。

「もみじさん、あたしそろそろおいとましますね。ごちそうさまでした」

「……えー?」

 いつになく間延びした返事だった。やばい、本格的に寝てしまいそうだ、と麗緒は急いで立ち上がる。

「どーこいくんですかーぁ? れーおせーんせー?」

「もみじさん、ほんとに酔ってるんですか? ここで寝ちゃ風邪ひきますから、鍵だけかけてベッドで寝てください」

 変に間延びはしているものの、ろれつはちゃんと回っている。酔って赤いのか青いのか、職業柄気にならないわけがない。だが顔色を覗き込むわけにもいかず……。

「せんせー……? なんか、動悸がして苦しいんですぅ……」

 座ったままもみじが手首を掴んできた。熱かった。立ち上がったはいいが、スイーツに入った洋酒だけで酔いが回ってしまったもみじを独り放っておけず、麗緒は首だけ背けたまま立ち尽くすしかできなかった。

 と、ローテーブルの隅のマスクが目に入った。これさえ付けてくれれば、いつも通りに接することができる。麗緒は自由になっているほうの片手をマスクに伸ばした。

「せんせー、帰っちゃうんですかぁ?」

 もう少し……というところでもみじに強く腕を引かれ、麗緒は大きくバランスを崩した。

「ちょ、ちょっともみじさん! 危ないから引っ張らないで! まだ帰らないから、ね?」

「もんとですかぁ? 私、ドキドキが止まらないんです……。せんせー、見てください」

 言うや否や、背けたままの麗緒の頬に両手を添え、無理矢理ぐいっと自分のほうへ引き寄せてきた。

 十センチあるかないかの距離だ。近すぎて目元しか視界に入らない。ばっちり目が合ってしまった。

 もみじは真っ赤だった。目尻をとろんと垂れ下げている。潤んだまま見つめられ、麗緒までみるみる紅潮してしまう。

 麗緒がソファの背もたれにかろうじて手を付けたので覆い被さるまではいかなかったものの、もみじは未だ麗緒の両頬に手を添えたままじっと見上げている。

「も、もみ……」

「れーおせーんせー? 私のドキドキは病気ですかーぁ? それともー? こーいでーすかーぁ?」

「いやいや、どっちでもないですよ! お酒です、お酒に酔っただけですから!」

「えーぇ? じゃあせんせーも酔っちゃったんですかーぁ? お顔、真っ赤ーぁ」

 言われ、余計に顔が火照っていく。当たり前だ。目に睫毛が入った生徒を診た時でさえ、こんな至近距離で診たことはない。後ろからド突かれようものなら、百%ぶちゅっと……。

「あー! せんせー、もしかして照れてるんですかーぁ? かーわいーい!」

「ど、どっちも違います! つーかもみじさん、お水持ってきますから放してっ」

「お水ーぅ? お水欲しいんですかー? んー、しょうがないですねぇ、じゃあ私が持ってきてあげますよぉ。よっこい……」

 しょ、と立ち上がりかけてふらついた。慌てて支えようとした麗緒の唇に柔らかいものが触れる……。

 昔、初めてのキスはレモンの味だと聞いたことがある。酸っぱい唾液など存在するのかと考えたことがあった。

 しかし、麗緒の現実は、甘く酒臭いものだった……。


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