23ページ/秋風の導くままに
八神麗緒はちょっぴり後悔していた。
キャットリングちゃんこと、もみじを今すぐここへ呼べという伊織と口論になった。思い立ったら即実行の伊織には、石橋を叩いて叩いて叩いたあげく渡らないタイプの麗緒がもどかしいのだということは充分過ぎるほど分かっている。
だが、いくらなんでも他人を巻き沿いにしていいことと悪いことがある。嘘も言い訳も下手くそな麗緒が頑として拒否すればするほど、私に紹介できない理由でもあるのかとツッコまれ、ついついお互いムキになってしまった。
大きな理由なら一つある。言えなかった。もみじは人前でマスクを外せないのだと。そんな過去のトラウマを他人がべらべら喋っていいわけがない。
気の利いた嘘を並べられれば伊織ともすれ違わなくてすんだのに……。麗緒はまた自分を責める。
時間がーだとか、仕事がーだとか、ごまかしようはいくらでもあったのだ。だが、自分のためを思って言ってくれているのを感じてるからこそはぐらかせなかった。
そういえばもみじは酒が飲めるのだろうか……。そんなことも知らない。ストーカー被害にあったのが二十歳を迎えてすぐだったし、居酒屋やバーなんかには行ったことがないかもしれない。
帰りの電車に揺られながらため息をつく。扉にもたれスマホを取り出した。ディスプレイを覗くと、メッセージアプリから数分前に通知がきていた。
『伊織:さっきはごめん。強引過ぎたかも』
『伊織:私は麗緒のこと親友だと思ってる。だからってなんでも話してくれってのは間違いだよね』
『伊織:寂しいけどしょうがない。嫌いにならんでね?』
伊織らしくないメッセージに、胸がぎゅっとなった。それは嬉しさか申し訳なさか……。あちらも夜風に当たって反省タイムのようだ。麗緒も慎重に言葉を選び、返信する。
『Reo:こっちこそごめん。日を改めてまた行こう』
これだけでいい。これだけで伊織なら分かってくれるはずだ。
少しだけ心のトゲが落ちた。根本的な解決には至っていないが、ここから先は自分の問題だ。
月曜まで一時間を切っているので、最寄り駅を降車する人は数名だった。改札の電子音が、やたらと構内に響く。昨日もみじと待ち合わせした柱付近も、こうも静かだと別の駅のようだった。
ちょっと遠回りして変えるかな、なんて横道に入る。日中は夏の暑さを引きずっているが、日が暮れればすっかり秋の風の薫りがした。パンプスの踵を鳴らし、春は見事な桜を咲かせる並木道を一人歩く。
緑を纏う桜の木を見上げた。季節を感じる。星花女子学園に赴任して、初めての秋がやってくる。この街はどんな秋色なのだろうか……。思いに耽ながらゆっくりゆっくり足を進める。
並木道から一つ住宅地に入る。特に目指すところなく右へ左へ曲がってみた。大きな屋敷やおしゃれな豪邸が並ぶ。お嬢様学園が立地するにふさわしい閑静な住宅地だ。
ふと視線を感じ足を止めた。灯りがこぼれるカーテンの隙間から、一匹のにゃんこが見下ろしている。目が合った。にゃんこは出窓に座り、微動だにせず置物のようにじっとこちらを観察している。
クリーム系に縞模様の入った奇麗なにゃんこだった。きっと愛されて大切に育てられているのだろう。さほど新しくもなさそうだが、出窓が特徴的な二階建ての一軒家。広いだけが取り柄の実家よりもよっぽど魅力的だ。
バイバイ、と手を振ってみた。にゃんこが微かに口を開けた。聞こえはしないが鳴いたのだろう。返事をしてくれるとは愛らしい。思わず口元が緩んでしまう。挨拶も済んだところで足を踏み出そうとすると、にゃんこの背後からにゅっと人の両手が延びてきた。
にゃんこはその腕に抱えられ、シャッと閉められたカーテンの向こうに消えた。ボブショートの女性だった。逆光で顔までは見えなかったが、もしかして……と門の中をそっと覗いてみた。
もみじの愛用の自転車があった。あぁやっぱり、とカーテンの閉まりきった出窓に視線を戻す。同時に灯りが消えた。部屋を移動したのか、寝てしまったのか。麗緒はしばらくそのまま見上げていた。
酔い覚ましに適当に歩いていたつもりだったのだが、自然と導かれてしまったようだ。今のもみじはマスクを外していたに違いない。逆光でよかった、と思ってしまう自分は、まだもみじを受け入れるのが怖いのだろうか……。
左手でそっとキャットリングをなぞる。世話好きで気が利くもみじ……。きっと誰にでもそうなのだろう。自分だけが特別なわけじゃないはずだ……。
長いため息をついた。ぼちぼち帰ろう。ダイアナがすねてしまう。現在地が分からないのでグールグルマップを開いた。
まずはもみじ宅を超えて右折、それから三つ目の十字路を左折。そこまで確認してスマホから顔を上げた。
なんとなく急ぎ足でもみじ宅を過ぎようとしたところで、電柱の脇の人影に気付いた。後頭部で腕を組み、壁にもたれかかっている。一瞬だけ目が合った。暗がりでハッキリとは分からなかったが、美形の青年だったと思う。傍らの黒いバイクは青年のだろうか。
麗緒はすぐに目を逸らし、マップが示す通り右に曲がった。同時に背後で「待たせてごめんねー」と弾んだ声がした。もみじの声だ。麗緒の足がぴたりと止まる。
と、すれば、相手は先程のバイク青年だろう。誰なんだ? どういう関係なんだ? 麗緒の心臓は早鐘を打ち出した。なぜだ? 分からない。足が進まない。
内容までは聞き取れないが、楽しそうに談笑している。合間に「みー」というにゃんこの鳴き声も混じった。幼い声だ。もみじが連れ出してきたのだろうか。
ニアマートの客以外でも、親しげに話せる男性がいるのだとは意外だった。男性は苦手なのだと勝手に思い込んでいた。静かな住宅街に響く二人の笑い声に、麗緒の喉に何かが詰っていくようだった。
自分は何に引っかかっているのだろう? 重い足を進めるのは諦め、角からそっと覗いてみた。談笑する二人は話しに夢中になっているが、もみじの腕に抱えられたチビにゃんこがこちらを向いた。
まだ生後まもない黒いにゃんこだった。鼻先が白い。白いのは鼻先だけでなく白いマロ眉がある。柴犬のようでおもしろい。こっちへ来いと呼びかけているかのように、みーみーと鳴いている。
あまりにもかわいいのでつい見取れていると、チビにゃんこの呼びかけ先が気になったのか、青年がこちらを向いた。再び青年と目が合う。麗緒は反射的に顔を引っ込めた。その勢いで重かった足がようやく動き出す。
覗き見しているのがバレた。青年はもみじに伝えるだろうか……。今度は女のストーカーにつきまとわれていないか不安になるだろう。顔が火照っているのを感じながら、自分は何をしているのだと呆れる。
二つ目の十字路を越えたところで、バイクのエンジン音が近付いてくるのに気付いた。さっきの青年かもしれない。何もやましいことなどないのだが、麗緒は更に足を速め、三つ目の十字路を目指した。
「待ってくださいよ!」
ようやく辿り着いた三つ目の十字路を左折しようとした時、麗緒の横でバイクが止まった。エンジンは吹かしたままだし、青年はヘルメットを被ったままだ。二度も目が合ったが、今度は直視できない。麗緒はそっぽを向いて「な、なんですか?」と足を止めた。
「さっき、もみじさんの家の周りウロついてましたよね?」
「ウロ……」
ウロついてはいない。偶然辿り着いたのだ。そして偶然目撃してしまっただけだ。
「角から見てましたよね?」
「み、見てたっていうか……たまたま通りかかっただけですけど?」
語気を強めたつもりなのだが視線が泳いでしまったので、きっと開き直っているようにしか聞こえなかっただろう。麗緒は一つ咳払いをした。
「言っとくけど、あたしストーカーとかじゃないからね?」
「ふーん……」
ヘルメットの中のくぐもった声はいぶかしげだ。青年は一度後ろを振り返った。そしてひらひらと手を振った。
「ま、いーや。なら、あの子のこと頼みますね。んじゃ」
麗緒の返答も待たず、青年は騒々しいエンジン音と共に真っ直ぐ走り去った。赤いテールランプが小さくなっていく。青年が残した言葉の意味が飲み込めず立ち尽くす麗緒。緩くウェーブした長い髪を秋風が弄ぶ。
「麗緒せんせー?」
振り返る。もみじが遠くで小さく手を振っている。何が何だかのままの麗緒も、少しだけ手を上げた。
もみじは先程のマロ眉チビにゃんこを抱っこしたまま駆寄ってきた。その間もチビにゃんこはみーみーと鳴いている。
小骨が刺さったかのように、喉の奥に何かが引っかかっている。麗緒は動揺を悟られないよう「こんばんは」と小さく頭を下げた。




