22ページ/友の計らい
秋里伊織はもどかしく思っていた。
大学時代からの友人、八神麗緒は気付いていない。自分の魅力も、好意を寄せられていたことも、伊織が八神家の事情を察していることも……。
無防備でずぼらで真面目で純粋で、それでいて臆病な女、それが八神麗緒という二つ年上の友人だ。
実は伊織の父も医師である。ただ医師一家の八神家とは異なり、伊織の母と弟は看護師だ。のんびりマイペースな父とおだやかな母は、高齢者ばかりが集う治療院を郊外で開いている。
弟は初め、父と同じ医師の道を志していた。だが、姉である伊織が楽しそうに働く姿を見て、看護学部へ進学することを決意した。
決して優秀とは言えない弟でも、情熱だけは誰にも負けないのが伝わってくる。家族は一丸となって弟の夢を応援した。『母さんや姉ちゃんみたいな看護師になりたい!』そんなくすぐったいことも面と向かって言ってくれる弟がとてもかわいかった。
弟は無事、ストレートで看護師として就職した。県内の大学病院の心臓血管外科だ。外科は花形と呼ばれることもあったが、忙しいのでも有名だ。
弱音を吐くタイプではないものの、配属になり数ヶ月経った頃、弟はぶつぶつと愚痴をこぼすようになった。なんにせよ、仕事にストレスは付きものだ。先輩看護師として、伊織は毎日弟の愚痴に耳を傾けてやった。
『看護師を見下す、感じわりー八神ってドクターがいるんだ』
その時はまだ、それが麗緒の関係者だとは思いも寄らなかった。弟の話によると、新人はともかく、ベテランにも師長にも嫌味を言ってくるという。ムカつくねーそいつ、なんて同調し聞いていれば、そのドクターには美容皮膚科を任せている優秀な長女と、医学部に二度落ち看護学部へ進んだ落ちこぼれの次女がいると漏らしていたそうだ。
伊織の中のパズルが、少しずつはまっていった。名字はさることながら、家族の話をしたがらないし、経緯は知らないが同期ながら二つ年上だ。
彼女の闇を感じてしまった瞬間、伊織は麗緒の親友で居続けようと心に誓った。未だ闇を隠されたままではいるが、いつ打ち明けられても受け止められるよき理解者でいようと。
そして、彼女がいつか話してくれるその時がきても、知らなかったふりをし続けようと……。
依存型の伊織とは真逆に、人を頼ることをしない麗緒。仕事もプライベートもそうだ。八神父の目からすれば出来損ないの次女かもしれないが、同期目線からすればテキパキこなせる優秀な人材だった。
だが、何でも一人で解決しようとするがゆえに自分の首を絞めてしまうのだということに気付いていない……。
今でこそ少しずつ心を開いてきてはくれているが、当時は悩みも愚痴も口にしなかった。だから抱え込んでしまっていた。誰にもどうにも出来ない物事にぶち当たった時、『自分は何も出来ない落ちこぼれなのだ』と……。
完璧な人間などいない。全ての命を救える医師もいない。何度言い聞かせても、自分は看護師にはむいていないと病院を去ってしまった。
麗緒は新たな道を選んだ。自分の存在意義を求める彼女にとって、養護教諭という今の職業はぴったりだ。看護師時代よりも活き活きと輝いている。友人としてそんな麗緒を見る時が来て嬉しかった。
かといって、危うい性格は未だ変わっていない。パートナーさえ出来れば、自分ももっと安心して麗緒を見守ることができるのだが……。
「ねぇ、伊織」
伊織が鼻息荒くオクラ串にかぶりついていると、ベーコントマト串をふりふりしながら麗緒が問いかけてきた。
「伊織は自分のこと、好き?」
「は? 私、そんなにナルシーに見える?」
「あははっ。いやいや、そうじゃなくてさ。自分が自分のこと好きじゃないのに、人に好きになってもらう資格なんてあんのかなーっと思って」
どういうこと? と伊織は首を傾げる。
「私にだってコンプレックスの一つや二つあるし、大なり小なり誰だって自分の嫌いなとこくらいあるでしょうよ。資格もクソもないって。好意を寄せるのは相手の勝手でしょ?」
「んー、そんなもんかねぇ……」
今度は麗緒が傾げている。本能のまま動く自分と対照的で、頭でっかちな友人にため息が出た。
「あー……。恋愛って頭でするもんじゃないじゃん? なんつーか、もっと勝手に反応しちゃうってゆーかさぁ」
「うーん、エストロゲンが足りないのかなぁ、あたし……。結構お肉は食べてるほうだと思うんだけどなぁ……」
しみじみとベーコントマト串を見つめながら言う物だから、伊織はつい吹き出してしまう。
動物性脂肪を適度に摂取すると、女性ホルモンであるエストロゲンの働きがよくなるとは言われている。また、ちまたでは『恋をすると女性ホルモンが大量に分泌される』なんて噂されるが、実際に恋をするだけでは大量分泌に繋がるとは言いがたい。恋をして幸せを感じることで、有効なホルモン値が期待される……らしい。
「ぷははっ! おのれは天然かっ。頭が固いだけよ。自分がどうとか人がどうとか考えてないで、もっと本能を感じなさいよ」
「本能のままに生きたら、伊織みたいになるじゃんよ」
「どーゆー意味よ?」
「冗談冗談。このリンゴビールみたいに、うちらも足して二で割ればちょうどいいのかもねー」
こちらとしては絶対に足して二で割って飲みたくない謎ビールを飲み干す麗緒。思わず「それは混ぜるな危険」とすばやくツッコむ。
わりとポジティブ思考な伊織としては、常に悩みを抱えている麗緒を放っておけない。どうしたもんかなー、と頬杖をつくと、たぽんと顎の肉が揺れた。また丸くなってきただろうか。これだけ同じペースで飲み食いしているのに、シャープな輪郭とスタイルを保っている目の前の友人が羨ましい……。
「おかわり、お持ちしますかー?」
いつの間にか、テーブルの脇に小柄な少女が立っていた。先程のネズミ顔の青年と同じエプロンを付けている。店員その二だろう。こちら、というより麗緒のほうを見てにこにこしている。
空になったジョッキを手に取った麗緒は「んじゃ、カルピスと……」と言いかけジョッキを店員に差し出したところで飛び上がった。
「おわっ、根積じゃないか! びっくりしたぁ、こんなとこでバイトしてたのか!」
「へへ、いらっしゃいませ八神先生。こっちもびっくりしましたよ。まさか星花の先生がうちの店を利用してくれるだなんて」
「うちの店?」
どうやらこの根積という少女は麗緒の学校の生徒らしい。そして、言われてみれば、厨房のおやっさんや青年店員にも似ている。バイトではなく、この串揚げ屋の娘なのだろう。
一瞬厨房に目を向けた麗緒もその事実に気付いたらしく、急にわたわたと慌てだす。下げようとしたジョッキを少女から奪い取り、「酔ってるから! 先生、めちゃめちゃ酔ってるからなっ?」と、顔色でバレバレな嘘を申告しだした。
「せ、先生どうしたんですか? 酔ってるようには見えないですけど?」
少女はもちろん、友人を数年続けている伊織もポカンである。
「いや、だから、あたしは酔っていてだな? ここで喋っていたことは全部酔っ払いの戯言であってだな? 事実無根の大名行列であってだな?」
全く、不器用な友人だ。イタすぎて目も当てられないが、そこもまぁかわいいというか放っておけないというか……。伊織はパニくりまくりバグりまくりの友人の代わりに問うてみた。
「お嬢さん、いつからいたの?」
「えっと、ほんの一分前です。帰ってきたら八神先生の姿が見えたので、エプロン付けて飛んできたんで……」
少女は困惑しながらも、空いた皿を回収していく。伊織は空のジョッキを握りしめ、意味不明な言い訳をしている麗緒からジョッキを取り上げ、「これもよろしく」と少女に差し出した。
「ってことは、特にうちらの会話聞こえてないよね? どうやら麗緒、ピーマンが食べれないの生徒さんに知られたくなかったみたいなの。もし聞こえてたとしても、聞かなかったことにしてあげてくれない?」
少女は純粋なのか「あっ、そーゆーことっすか!」と、屈託のない笑顔を見せた。苦しいかと思われた嘘も、ここまでまともに鵜呑みにされると罪悪感が十倍増しだ。
「ピーマンの肉詰めにとろけるチーズ乗っけてもおいしいんですけどねぇ。先生も人間ですし、いくら保健医と言っても好き嫌いの一つや二つあってもおかしくないから気にしなくていいと思いますけど……でもまぁ、先生が恥ずかしいなら聞かなかったことにしときます! んじゃ、ごゆっくりぃ!」
納得と理解を示し、少女は元気に厨房へと戻っていく。見事にすばしっこくテーブルの間をすり抜けていくその姿は、まるでネコかネズミか……。
伊織は正面に顔を戻す。相変わらずベーコントマト串を握ったままの麗緒が「あんがと」とはにかんだ。
「まったく……ごまかし下手にも程があるっての。何が聞かれたくなかったわけ? 別に聞かれて恥ずかしい話しなんぞなかったでしょうよ」
問えば嘘もつけない馬鹿真面目が、申し訳なさげに眉尻を垂らした。
「いやいや、多感な高校生に教員のプライベートは知られたくないんだよ。伊織だって患者さんに『彼氏いんの?』って聞かれたくないでしょうが」
「べっつにー? フツーに『いますよー』って答えるけど? まぁ、相手まではペラペラ言わないけどね」
「あっそぉ……。でもあたしはイヤなの。なんつーか、上手く言えないけど、正体見られたヒーローみたいな気分。分かる?」
「うんにゃ、全っ然分かんないけど……。あ、ギンナン串いこうかな? あとキュウリの一本漬け」
中三でロストバージンした伊織には、麗緒の純粋さが眩しいし歯がゆい。恋愛の一つもまともに経験していないアラサー保健医を変える人が一人でもいてくれれば、もっと自分に自信がつくかもしれないのに……。
「ギンナン串いーね! あたしもあたしもー」
「おっし麗緒、呼ぼう!」
「うん、頼も頼も。あとナンコツも」
「そうじゃなくて……」
伊織はずずいっと身を乗り出した。
「そのキャットリングちゃん、ここに呼ぼう!」
ベーコンを纏ったプチトマトが、麗緒の串から一つころんと転がり落ちた。




