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2ページ/ニャーマート

 

 糸崎もみじと出会ったのは、麗緒の出勤初日のことだった。

 採用通知が来てからバタバタと引っ越してきたため食材を買い揃えていなかった麗緒は昼休みに学園前のコンビニへ向かった。

 ニアマート学園東店は、名の通り星花女子学園の目の前である。自動扉が開くと軽快なチャイムと共に、コンビニ独特の油っぽいニオイが麗緒を包んだ。

「いらっしゃいませー」

 澄んだ女性店員の声が響いた。入れ違うように退店していくおばちゃまが「どうもねー」とご機嫌な様子で出て行った。

 初めて入店するので一通りぐるりと循り、それぞれの売り場を確認する。どこのコンビニでもさほど代わり映えはしないが、極度の甘党な麗緒はまずお菓子コーナーとスイーツコーナーは要チェックだ。

 生徒たちは学食や購買を利用しているのだろう。店内に制服の姿はなかった。ニアマートオリジナル商品らしきキャラメルブリュレと豚角煮丼、それと緑茶をちゃっちゃとカゴに入れレジへ向かう。

「いらっしゃいませー。あら、教頭先生。今日はお弁当じゃなかったんですね」

「恥ずかしながら娘の支度に手間取って時間がなかったもので。それに、これ前から気になっていたんですよ」

 レジ前の会話でひとつ前に並んでいたのは、先程まで学校案内をしてくれていた教頭だと気付いた。ランチピークを過ぎたのをいいことに、おばちゃま特有の苦労エピソードを披露している。

 上司に当たる教頭のプライベートはなんとなく聞かないほうがいい気がして、麗緒は飴コーナーへ回れ右しようとした。

「あら、八神先生?」

 教頭が気付いたようだ。麗緒も今気付きましたを装う。精一杯眉を上げ、「ぁっ、教頭先生!」とレジへ戻る。

「もみじさん、紹介しますね。今日から配属になった保健医の八神先生です」

 斜め後ろに立つと、教頭はぽんぽんと麗緒の肩を叩いた。店員と教頭、二人の視線が麗緒に向く。

 コンビニ店員にまで紹介? 麗緒は一瞬戸惑った。

 午前中は教頭に連れられて校内を隅々まで案内された。その際に用務員や警備員、学食や購買のおばちゃんたち一人一人を紹介された。

 教員だけでも名前と顔と担当クラスと科目を覚えるのに一苦労しそうなので、とりあえず学年主任のお三方だけ覚えておこうと思った矢先、あろうことか校外の、しかもコンビニ店員にまで紹介されるとは思ってもみなかったのだ。

 つい先月まで公立高校の保健医として勤務していた麗緒は、中高一貫の広大な星花の敷地だけでも卒倒しそうだったのに、校舎といい設備といい生徒数といい教職員数といい、あまりの前年度までの全てのスケールの違いに圧倒されるばかりだった。

 麗緒はひとまずカウンターにカゴごと置き、ぺこりと頭を下げた。

「八神です。よろしくお願いします」

「八神先生ですか。こちらこそよろしくお願いします。素敵なお仕事ですよね、保健医さんって」

「えぇ、やり甲斐のある仕事ですよ」

 言っておきながら少し気恥ずかしさを覚えた麗緒は、はにかみながら視線を落とした。てきぱきとカゴから商品を取り出す手元を眺めていると、店員の胸元の『糸崎もみじ」というネームプレートが目に入った。

 教頭も『もみじさん』と親しげに接していたくらいだ、ご近所とあって星花の利用者の多くと顔見知りなのだろう。放課後になれば生徒たちも立ち寄るはずだ。丁寧な接客と人当たりの良い店員だから、きっと人気者に違いない。

 これから出会う大勢の生徒たちの名前と顔と性格、それに部活や体質まで把握しなくてはならない麗緒だが、職業病なのか無意識に会話や表情から性格分析をしてしまう。

 だが、この糸崎もみじという店員は花粉症なのか、白いマスクをしているので全貌が読めない。その時点で麗緒の無意識が我に返る。コンビニ店員まで分析しようとするとは、仕事も過ぎるとただのお節介だぞ、と。

 そうは思いつつも、尚のことじっと見入ってしまう。

 小顔の中に存在感のあるアーモンドアイが魅力的な人だなと思った。中央でマスクを押し上げている鼻もスッと通っているように見える。眉は前髪で隠れ気味だが、見えている限りは穏やかそうなアーチを描いていた。マスクをするにはもったいない美人さんだろうと推測する。

 この春は杉花粉が例年より多いと聞く。麗緒は幸い花粉症ではないが、職業柄切っても切れない縁ではある。

 抗ヒスタミン薬はアレルギー性鼻炎ではよく処方される薬なのだが、眠気や頭がボーッとする、口が渇くなどの副作用がある。花粉を物理的にブロックするためにマスクは必須アイテムだ。しかし鼻が詰っている時や口が渇いている時には余計に苦しいというリスクも避けられない。

 麗緒もマスクは常備している。だが看護学部時代から色々なタイプを試してみたが、未だこれといってベストフィットなマスクに出会えていない。一人の時は常に外しているものの、やはり立場上着用しないわけにはいかない場面もある。いつでも着用できるようにポケットに常備してはいるのだが、やはりできる限り付けたくないのが本音だ。

 花粉と戦い続ける人たちはそんな甘えは二の次だろう。絶対に口にはできないが、息苦しさよりも花粉を寄せ付けないほうを選んでいる戦士たちを心の中で尊敬するのだった。

 この場合、挨拶はよろしくで合っているのか? という疑問はなかったことにし、笑顔で「八百五十三円になります」と言われるがまま電子決済アプリを開いた。

「星花の生徒さんはみなさんいい子ばかりですので、八神先生にもきっとすぐ懐いてくれますよ」

「ははっ、そうなってもらえるよう頑張りますよ」

 苦笑する麗緒を見て、店員は「大丈夫ですよ」と大きな黒目を細めた。マスカラでだいぶ睫毛を盛っている麗緒と同じくらいの長い睫毛が揺れた。

 整った顔を持つのは姉も同じだが、全く嫌味も飾り気もない女性だなと思った。

 心機一転の日にさえ姉のことを思い出す。どこまでも呪いのように纏わり付く……。

「一緒に戻りましょうか、八神先生」

 教頭にまた肩を叩かれ、麗緒は慌てて「はいっ」とビニール袋を肘にかける。

 ふと顔を上げるともみじの姿はなかった。じっと眺めていたりぼーっとしてみたり危ないおばはんと思われただろうか……。麗緒は焦り、バックヤードにでも逃げてしまったのだろうかときょろきょろ辺りを見渡した。

「あーん、もうっ、ダメだったらぁ」

 もみじの声がした。台詞だけ聞くとなんとも悩ましげな言葉が並んでいるが、その声はとても楽しそうだ。

 覗き込もうとした棚の間からではなく、その澄んだ声は入り口のほうから聞こえる。「ちょっとちょっとぉ、ほんとにダメだってばぁ」と続く。

 電話でもしているのだろうか? もみじは立ったり座ったり、一人でわたわたしているように見える。独り言にしてはやたらデカいな、と麗緒はその奇妙な光景をレジ前から眺めていた。

 教頭と顔を見合わせた。首を傾げ自動扉へ向かうと、立ち上がったもみじが何かを手にしながら振り返った。

 もみじの手には、餅のようにでろーんと伸びきったキジトラがいた。にゃんこは抱っこされたくない時、このように伸びる時がある。もみじはそれを「ダーメ」と言いながら植え込みのほうへ連れて行く。植え込みの前には空になった器が置いてあった。

 なんとなく察した麗緒は、叱られてしゅんとしているキジトラの前にしゃがんだ。

「かわいい。奇麗だけど野良猫ちゃんですか?」

「えぇ、この辺、野良猫ちゃんが多いんですよ。人なつっこいのはいいんですけど、たまに入って来ようとする子もいて……」

 独り言ではなく、やはり野良猫を叱っていたのか、と納得する。

「へぇ、かわいいですね。にゃんこたちもランチタイムなんですかね?」

「あはは。そうかもしれないですけど、中には猫苦手なお客さんもいますからねぇ。八神先生は大丈夫ですか?」

「大好きです。実はうちにもいるんですよ、一歳二ヶ月の甘えん坊が」

 麗緒には同居人がいる。ダイアナという、額に白い三日月ポイントが特徴のグレーのメス猫だ。前年度まで勤務していた高校の生徒が飼い主を探しており、一目惚れしてその日に連れて帰った自慢のかわいい娘である。

「えー、そうなんですね! 私も三匹飼っているんですけど、みんなもう大人だから甘えてくれなくて……って、ごめんなさい! お昼休憩の時間短く鳴っちゃう」

 にゃんこトークで盛り上がりたいのはこちらもなのだが、言われた通り休憩時間は待ってくれない。「行きましょうか」と教頭が促してきたので立ち上がる。

 足元から視線を感じた。キジトラがじーっとこちらを見ていた。

 もともと人見知りする麗緒ではないが、午前の自己紹介ラッシュでさすがに気疲れしていた。ご褒美に飯より先にスイーツを頬張るつもりだった。

 だが外の空気のおかげかにゃんこのおかげか、少しだけリカバれた気がする。

 麗緒は温めてもらうのを忘れた豚角煮丼を職員室でかき込みながら思う。たまには息抜きに野良猫たちに囲まれてコンビニランチもいいな、と。

 以来、麗緒の中でニアマートは『ニャーマート』と勝手に改名されている。そしてたまにコンビニ前の植え込みに腰かけては、にゃんこたちと共にランチタイムを楽しむようになったのだった。


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