17ページ/アナフィラキシー事件
八神麗緒はたじろいでいた。
もみじは謝るどころか険しい表情のままだ。睨みを効かされ、むしろ怒りさえ伝わってくる。
「分かりましたか?」
ずずいっと更に身を乗り出してきた。分かるはずがない。しかし「分かりません」などと言おうものなら、長々とお説教でも受けかねない気迫である。
「分かりました、よね?」
「は、はいっ! 分かりました分かりました。心がけます、頑張ります!」
デスクチェアの背もたれがギギギッと悲鳴を上げている。最可動域に達しているらしく、これ以上仰け反ったら壊れてしまう。麗緒はこくこく頷きながら、突っ張り棒代わりの両腕でもみじの肩を抑えた。もみじは疑わしげな表情のままだが、おとなしく背を正してくれた。
「もちろん私も協力します。自尊心なんて簡単につくものじゃないですから。麗緒先生が褒め言葉を受け入れられるように、自分を愛せるように、私が全力でサポートします!」
これまでの生い立ちを考えると、そりゃ到底無理な話しだが……と内心否定した麗緒だったが、そんなことを口にすれば、また火に油を注いでしまう。「はあ……」とため息だか返事だか判別しがたい息が漏れた。
嬉しくないわけはない。これはある意味人格否定だが、ネガティブな自分をポジティブに改造してくれるというのだから、可能不可能は別としても、その気持ちだけで嬉しいは嬉しい。
「そうですねぇ……まずは、麗緒先生自身がどのくらい紳士なのかを自覚してもらいます。私と一日お出かけして、私が『紳士!』と感じた時にそれを解説します。麗緒先生は自分が無意識にしている行動の良さをその場で一つ一つ知ってください」
なんじゃそりゃ、を喉元までで留め、麗緒はぎこちなく頷く。
「とはいえ、申し訳ありませんがまだ麗緒先生以外の人の前でマスクを外すのはちょっと抵抗があるので、映画とか水族館とか、初めはそういうところからでもいいですか?」
「あ、あぁ、そりゃ全然どこでも構いませんよ。もみじさんにおまかせします……」
この勢いで選択枝を投げかけられても、麗緒には選択権はなさそうだ。丸投げだとそれはそれでまた地雷を踏みそうではあったが、もみじはようやくいつもの天真爛漫な笑顔を取り戻した。
「ふふふっ。そうとなったらさっそく来週末にでもお出かけしましょう! 私、来週土曜日はオフなので。麗緒先生、洋画と邦画ならどちらがお好きですか? 水族館と動物園だったら? それとも博物館とか美術館のほうがお好みですか?」
ウキウキしながら問いかけるもみじは、まるで付き合い立ての恋人と初デートのプランを立てている女子高生のようだった。コンビニ店員は流行にも詳しかったりするので、現在上映中の作品などもスラスラ出てくる。まだ興奮気味なのか、肩を押さえていないと前のめりになってくるので腕を外せない。
「せんせーっ! たいへーん!」
またもノックなしに扉が開く。反射的に振り向けば、確認するまでもなく柚原七世の再登場。七世は目が合った瞬間、「ほわっ!」と南国のサルのような奇声を発した。
なぜなら今度は入り口から丸見えのデスク前でもみじの肩をがっしり掴んでいるのだ。隠れようも隠しようもない。慌てて離れはしたが、誤解が生じたのは七世のにんまり顔が物語っている。
「柚原ぁ、お前なぁ……」
「いやはや、これはこれは! ニアマートのもみじさんだったとは意表を突かれましたねぇ」
「何がだこらっ。もみじさんはただ、あたしに差し入れを持ってきてくれただけであって、柚原が妄想してるようなお目出度いことなぞ何もないからな?」
七世は「えぇー? どうですかねぇ?」と物欲しそうな顔をする。だがすぐにパンッと手を打ち、二人の前へ駆寄ってきた。
「それは後で聞くとして、急患ですよ、先生!」
「急患っ? 誰がどうした!」
「うちのクラスの美邦磨緋瑠さんが倒れました! 早く来てください!」
「倒れた? それを先に言わんか!」
麗緒は薬品棚から応急箱を取り出し、白衣を翻しながら保健室を飛び出す。「こっちです」と先導する七世に続く。もみじの存在を忘れほっぽり出して来てしまったが、そんなことより一刻も早く生徒の元へ行ってやりたかった。
「あ、あれ? 美邦さんは?」
七世がとある教室の前で立ち止まった。室内を覗きキョロキョロしている。麗緒からは中の様子が見えない。七世を押しのけ飛び込もうとしたが、入り口の看板が目に入り足が止まった。
「男装……カフェ……」
アドレナリンが一気に引いていくのを感じた。倒れた理由に察しがついたからだ。大事には至っていないといいが……。
「八神先生」
背後から呼ばれ振り返ると、美邦磨緋瑠の幼なじみ、桐生紗衣が立っていた。涼しい顔で軽々と磨緋瑠をお姫様抱っこしている。細腕の中ででろーんとのびているところから察するに、原因は一つに絞られた。
「あちゃぁ……。どうせ犯人はお前だろ、桐生」
白目を剥いたまま金魚のように口をぱくぱくさせている磨緋瑠を覗き込み、麗緒は紗衣に問いかけた。
「犯人とは人聞き悪い言い方ですね、八神先生。私はただ、磨緋瑠さんに強くなってもらおうと、男装カフェにぶち込んだまでです。愛の鞭です」
顔色も変えずきっぱりと断言する紗衣に、麗緒は安堵と呆れのため息をつく。
磨緋瑠は小・中学校のいじめが原因で、極度の人間不信だ。それは幼なじみの紗衣が一番よく知っている。理解しているがゆえの荒療治なのだろうが……。
カフェの行列と通りすがりの心配そうな視線が集まっている。普段から人目を気にする磨緋瑠の哀れな姿をこのままさらすわけにもいかない。麗緒は頭をぽりぽりし、遠巻きのギャラリーに告げた。
「大丈夫、軽いアナフィラキシーショックみたいなもんだ。時期に目を覚ますだろう。心配いらんよ」
保健医の見立てに、ホットしたギャラリーたちが散っていく。磨緋瑠を休ませ、紗衣には説教をしなければ……。お姫様抱っこのまま二人を保健室へ促した。
「ごめんねぇ、うちのバカが……。ほんとに大丈夫?」
背後を着いてきていた紗衣が声をかけられた。麗緒が振り返ると、赤毛の少女が心配そうに磨緋瑠を覗き込んでいる。誰だろうか。髪色のわりに常識はあるようだが見覚えはない。他校の学生か卒業生だろう。紗衣は赤毛の少女に首を振った。
「ご心配なく。至近距離で口説かれてバグっただけですので」
「そお? まぁ保健の先生が大丈夫って言ってるから安心したけど……。こいつ、免疫のない子にも容赦なく手ぇ出すのよ。ほらっ、あんたも謝りなさい!」
言って赤毛の少女は、男装カフェの行列に並ぶ別の少女に絶賛囁きかけている最中の黒づくめの少年の首根っこを掴んだ。「ぐぇっ」とカエルのように一鳴きして引きずられてくる少年。原因はこのナルシストっぽい少年らしい。人間不信の磨緋瑠には、一番相性が悪いチャラチャラタイプだ。
「謝れったって、ぼくは別に……あれ? 新しい保険の先生? 若いなぁ、ねぇ先生いくつ? 今度ぼくと一緒に……」
少年の意識が麗緒に向いた。整った顔を近付けてくる。年齢的には大人な麗緒だが、口説かれた経験など人生で一度もないので、そっと頬を触れられ固まってしまう。磨緋瑠が卒倒しないわけがない。
「このバカっ! 先生にまで何やってんのよっ」
バコッという鈍い音と共に、黒づくめの少年が後頭部を押さえ悶絶し出した。赤毛の少女の裁きがクリティカルヒットしたらしい。
「いてててて……何すんだよぉ。ぼくはもう学生じゃないから、別に先生と遊んだっていいじゃんかぁ」
「あーそう。そーゆーこと言うのね? じゃあ先生とでも生徒とでも誰とでも遊んでらっしゃいよ。じゃ、あたし先帰るから」
「えぇー! 分かった分かった、もうしないからさぁ」
とんだ茶番だ。遠巻きに見ている在校生も苦笑している。チャラい言動をしておきながら許しを乞うている少年の肩を掴み、ぷんぷんしている赤毛少女が紗衣と磨緋瑠のほうへくるりと向かせた。
「あんたが謝るのはこっち!」
赤毛少女に促され、デフォルトで鋭い目つきの紗衣と少年が向き合う。急に怯んだのか、少年は「えっと……」と引きつり笑いを浮かべた。
「謝罪なら結構です。こんなことで卒倒してお騒がせしているのはこちらのほうですから。では」
紗衣はぺこりと会釈し、「先生、行きましょう」とすたすた歩き出した。またもわちゃわちゃもめている赤毛少女と黒づくめ少年をおもろいな、と眺めていた麗緒も名残惜しいが後に続く。
保健室の前ではもみじが待っていた。こちらの様子を見て「あらら……」と眉尻を下げる。麗緒は離席札を出すのを忘れていたことに今更気付いた。
「あぁ、もみじさんすいません! もしかしてお留守番してくれてたんですか」
「えぇ、でも誰も来なかったのでご心配なく。それより美邦さん、貧血……?」
もみじは白目金魚状態の磨緋瑠を一瞥し、「じゃなさそうね」と苦笑した。紗衣が「大丈夫です」と頷く。
手前のベッドに磨緋瑠を寝かせ、麗緒と紗衣は肩でため息をついた。卒倒した際、紗衣が抱き留めているので頭は打っていないのも確認している。二人はベッドサイドの丸椅子に腰かけた。
「あのなぁ桐生、いきなり男子に口説かせるのは、美邦にはハードルが高すぎるだろ……。人間不信を克服させたい気持ちは分かるが、荒療治も段階を考えてやらんと逆効果になるぞ?」
「男子じゃありません。私だってそれくらいは手加減して『男装』の中へぶち込んでます」
「いやいや、あの黒づくめ少年に口説かれたって赤毛の少女が言ってたじゃないか。違うのか?」
「いえ、あのお方は……女性です。……多分」
無表情なわりに歯切れの悪い紗衣が、麗緒の背後に視線を向けた。麗緒もその視線を辿ると、もみじが「あぁ!」と手を打った。
「赤毛の女の子と一緒にいたの、ふわふわした茶髪の子じゃなかったですか? ハスキーボイスの」
「あー……はい。もみじさん、ご存じなんですか? ってことは卒業生?」
「はい。二人とも、今年卒業したOGですよ。うちの店でもよくケンカしてた、夫婦漫才で有名な子たちです。本人たちは漫才してるつもりじゃないみたいなんですけど、傍から見てるといっつもケンカしてじゃれてるから夫婦漫才って言われてました」
一瞬しか接していない麗緒だったが、言われてみればまぁ……と納得。そしてそのケンカの原因は、先程のような女癖の悪さに違いない。現役生でもボーイッシュは数人いるが、あぁいうチャラいタイプはいないので、昨年度まではさぞかしにぎやかだったのだろうと推測する。
「磨緋瑠さーぁん、そろそろ起きないと叩きますよーぉ?」
紗衣がベッドサイドで磨緋瑠の頬をぺちぺち叩き出した。すでに叩いているじゃないか、とツッコミたかったが、磨緋瑠が急にガバッと身を起こしたので、思わず「おー!」と拍手を送ってしまった。
「紗衣のバカバカ! だから男装カフェなんてイヤだったのに、なんてことしてくれたのよー」
「磨緋瑠さんのためです。いきなりくそ男どもの中へ放り込まれるよりましでしょう? 優しい私に感謝してください」
「誰が感謝するかー! 紗衣の鬼畜ー!」
こちらはこちらで幼なじみがわちゃつき出した。いつも人に怯えてばかりで無口な磨緋瑠が流暢に会話している姿を見て、麗緒は仲裁するのをやめた。心を許している紗衣の前だけではこんな顔もするんだな、と微笑む。
お嬢様女子校らしからぬのからしいのか分からないが、ひとまずケガのなかった珍事にホッと胸を撫で下ろす麗緒だった。
◆今回のゲスト
筆者作「姫騎士様と美ニクイあひるの子」より 美邦磨緋瑠&桐生紗衣
同じく筆者作「百合色横恋慕」より 相葉汐音&獅子倉茉莉花
こちらの作品もよろしくお願いいたします。




