13ページ/唐揚げ
「ふわぁ……」
八神麗緒は大あくびをしていた。
夏休みが明け、三日が経った。二学期初日こそわらわらと顔を見せに来てくれたものだが、ここ二日は誰一人訪問者がいない。
すなわち、怪我人も病人もいない。平和なのは結構なことだ。むしろ理想の姿だ。
というわけで、、麗緒は勤務の大半を孤独に過ごしている。
「暇だな……」
初日の来客のほとんどは、夏休みのテンションそのまま。日焼けの跡が痛いと言いつつ、海や山でハッチャケてきた擬音語満載の思い出報告をしにきただけという生徒が大半だった。
中には土産を渡しに来てくれた生徒もいた。甘党な麗緒は各地の名産スイーツを断る理由がない。お嬢様学園ならではのバカンスなので、さすが土産も高級で美味だった。
「こっちは海で知り合って付き合いだして、こっちは山で破局。んで、こっちはネズミーランドで破局、っと。あと、幼なじみとよりを戻したのが……」
ウハウハ報告のほとんどは恋愛話だった。あっちもこっちも夏の太陽よろしく燃えさかっていたらしい。青春だねぇ……なんてつぶやきながら、麗緒はそれぞれのカルテの備考欄に書き足していく。
高校の保健教育で最も注意しておきたい項目の一つに、『望まない妊娠』がある。身体は大人といえど、身分は学生。心も身体も傷つかないように守るのが麗緒たちの仕事だ。さりげなく聞き出した恋愛事情が、重要情報に繋がることもある。
「まぁ……」
今のところ、要チェック生徒はいないようだ。さすがお嬢様学園だな、と麗緒は感心する。
もちろん水面下で誰がどこで何をしているのかまでは把握できないが、少なくとも学園内では『鬼の軍曹』と畏れられている風紀委員が教員よりも厳しく取り締まってくれているし、華視屋流々や柚原七世という情報屋がアンテナを張っているので、大きな事件にまでは発展していない。そうなる前に教員の耳に噂が入るからだ。
金銭面でいえば、お嬢様たちはある程度お小遣いをもらっている。危険な闇バイトや売春に染まるほど飢えてはいない。そういった点では、そこら辺の高校よりも安心して見守ることができる。
もう一つ、安心要素といえば……。
「こいつらもとうとう百合ップルか……」
女子高あるあるの百合ップルだ。麗緒も女子高出身なので驚きはしない。あーやっぱりな、程度である。
こちらは妊娠の心配はないが、メンタルケアのサポートは男女の性差なく必要だ。青い春だけの過ちで少女の身体に傷が入るわけではなかったとしても、青い春が故の衝動的な自傷行為も珍しくないからだ。
「あたしには、どっちも無縁だったがな……。ふわぁ……」
追加作業はつかの間。繁忙期である一斉健康診断のある一学期が過ぎれば、あとは定期的な環境衛生管理と、毎月掲示板に掲載する健康管理新聞の作成。応急処置用の在庫と使用期限のチェックも幾度となく重ね、年間行事一覧に各部活の大会も全て書き足した。
健康を保守する保健医だからこそ、生徒たちが元気に青春している姿が理想だ。
だが、あまりにも……。
「暇すぎる!」
麗緒が立ち上がると同時に、昼休みを告げる鐘が鳴った。解き放たれた気分だ。ついでに今日はイチゴ牛乳の気分だ。白衣をデスクチェアに引っかけ、スマホをポケットに入れる。離席中の札を扉にぶら下げ、昼食を調達しにニアマートへ向かった。
店内はいつにも増してにぎやかだった。やたらとレジ前に行列ができている。それに紛れ、星花の制服がぴょこぴょこと視界を過ぎった。
昼休み、生徒は外出してはならない。そのために購買や食堂がある。けしからんな、と小柄な少女にそっと近づき、横顔をチラ見した。
だが、なかなか名前が思い出せない。胸の刺繍は紫色。中等部二年の証だ。どうりで思い出せないわけだ。
「おー? 先生よりいい物食べようとしてるじゃないかー、君ぃ」
チルドコーナーで『ズワイガニたっぷり! トマトクリームパスタ』を手にした生徒の肩越しに話しかける。からかい半分に、麗緒はコーナーで一番安い塩むすびを手に取った。
「わわっ、高等部のやが……!」
生徒はぎょっとして振り返った。慌ててパスタを背後に回している。麗緒は正面から見てやっと名を思い出す。色々とツッコミどころ満載で、思わず苦笑が漏れた。
「おいこら、誰がやがみんだ。授業が終わるまで校門から出ちゃダメだろー? 優雅にカニクリームパスタ選ぶとはいい度胸してるなぁ」
「す、すいません! 星花祭の準備で朝早く来たらお腹空いちゃって……持ってきたお弁当、早弁しちゃったんです……」
星花祭とは、毎年九月の第二週末に行われるいわゆる文化祭である。例年他校からも大勢来場するほどの大盛況で、多数ある年間行事の中でも生徒たちの意気込みも一入と聞く。
「頑張るのはいいが、身体壊すまで頑張るんじゃないぞ? 中学生はまだまだ育ち盛りなんだから、しっかり食べてしっかり寝ろよ? それと、今度からは購買か食堂を使いなさい」
「はいっ。あ、あの……内申に響くんで、担任には……」
「さてね。君の名前もクラスも忘れたから、チクろうにもチクれんよ。さぁさ、他の先生に見つからないうちに戻った戻った」
麗緒がにやりと笑うと、中等部の風紀委員、二年一組の庵野望は「ありがとうございます!」とラットのごとく駆けだした。せっかく逃がしてあげたので、どうか見つからずに校舎まで辿り着いてほしい。
冗談のつもりで手にしてしまった塩むすびを棚に戻すのも気が引けるので、麗緒は追加で唐揚げの甘酢あんかけとゴボウサラダ、それとイチゴ牛乳をカゴに入れた。
レジへ向かう途中で『新商品』というポップが目に入った。麗緒の好きな『がっつりとみかん』の梨バージョンだ。すかさずカゴに入れ、今度こそレジ列に並ぶ。
二台開いているにも関わらず、列はなかなか進まなかった。数人前にいる庵野望もそわそわしている。込んでいるように見えたのはそういうことだったのか、と気付く。今日はバイトのおっちゃんしかいないらしく、二人とももたもたしている。もみじは休みなのだろう。
やっと会計を済ませ唐揚げをチンしてもらったまではいいが、せっかくのアイスが溶けてしまうのは損した気がした麗緒は、ニアマート前の植え込みに腰かけて『ニャーマートランチ』することにした。たまに開く自動扉から漏れる冷気と木陰のおかげで、ちょっとだけ暑さが和らぐ。
さすがに白衣のままは目立つが、ブラウス1枚なので特に注目する人はいない。その代わり、唐揚げのニオイぷんぷんなので、にゃんこらの視線は大集合だ。
足早に職場へ戻っていく大人たちを横目に、『がっつりと梨』にかぶりついた。冷凍にした果実をそのまま食べているようなジューシーさに舌鼓を打つ。即買いして正解だったな、と麗緒はご機嫌だ。
「麗緒先生」
最後の一口を中心の棒ごと口に入れたところで、不意に名を呼ばれた。咥えたまま声のほうへ振り返れば、今にも吹き出しそうなもみじと目が合った。「こんにちは」と会釈をされたので、こちらもぺこっと頭を下げる。ちょっと恥ずかしい。
もみじが店頭に自転車を止めると、今まで唐揚げのニオイに釘付けになっていたにゃんこらがもみじの元へ群がっていった。
「こんにちは、もみじさん。今日はお休みじゃなかったんですか?」
「お休みですけど、この子たちにご飯をあげに。唐揚げ用の鶏肉が余ったので食べるかなーと思いまして」
「へぇ? 冷凍しとけばいいのに」
麗緒の冷凍庫は、冷凍食品と余り物の食材でぱんぱんだ。たまに自炊はするのだが、なにせ独り暮らしだとコスパが悪い。ちまちま冷凍しては、ちまちま使って食べるというのを繰り返している。
しかし揚げ物なんかはどうしても作る気にはならない。こうして一食分を食べきるほうが手頃で楽だ。なにより、最近の惣菜はバリエーションも豊かでおいしい。
「それもそうなんですけど、麗緒先生もおいしい物はダイアナちゃんと食べたいと思いません?」
「確かに。ダイアナが欲しがるとついついあげちゃいますねぇ。人間の食べ物はにゃんこには毒だと分かってはいるんですが」
「うちもです。だからなるべく味付けする前に取っておくんです。うちの子にもこの子たちにも」
にゃんこらが早く早くとせかすので、もみじは苦笑し「はいはい」と目線を合わせて肉をちぎっていく。集まっていた四匹に公平に与える姿を見物しつつ、麗緒もおかずたちを膝上で開いた。
「相変わらず面倒見がいいですねぇ」
「よかったら食べませんか? えっと……以前、助けていただいた御礼です」
「だははっ。いくらあたしがにゃんこ好きでも、さすがに生肉は……」
「あはっ、そんなわけないじゃないですか。こっちはちゃんと火の通った唐揚げですよ」
もみじは自転車のカゴから、大きめのタッパーを一つ取り出した。半透明の容器から透けて見えるのは、確かに茶色い衣を纏った唐揚げだ。麗緒の目がきらんと輝く。対称的に、麗緒の膝上の物に気付いたもみじの顔色が曇っていった。
「お昼、唐揚げだったんですね……」
「あぁ、でもこれは甘酢あんかけですし、一人で自炊したら連続で同じ物食べるのなんて日常茶飯事ですから。貰っていいなら喜んで!」
「ほんとですか? じゃあ私の手作りがお嫌じゃなければぜひ」
「手作り……」
麗緒はぼそっと呟く。何気なくリピートしただけだったが、なんだか急に照れくさくなってしまい、「あああありがとうございます」と吃ってしまう。つられて気恥ずかしくなったもみじも、「い、いえ……」と目を逸らした。
もみじは半ば押しつけるような勢いで、「どうぞ!」とタッパーを麗緒に突き出した。反射的に受け取るとずっしりと重たい。それこそ一人分の量ではない。
「も、もみじさん? これ、どなたかにあげようと持ってきたんじゃないですか? ほんとにもらっても……」
「い、嫌なら無理しないでください! バイトの方たちに差し入れで持ってきたんですが、麗緒先生が食べてくれるなら……」
「えっ、差し入れなら、尚更あたしがもらっちゃぁ……」
なんだか微妙な空気になってきた。お互いに歯切れが悪い。渡そうとして引っ込めたり、受け取ろうとして差し出したり。遠慮がちな日本人ならではの矛盾のやり取りは幾度となく続く。
「そうですよね、他人の手作りは気持ち悪いですよね。やっぱり返してください!」
「い、いやいやいや! もらいます食べます! 晩酌に全部いただかせてもらいます!」
「いえっ、お昼も唐揚げだし、手作りなんて……あっ!」
もみじが負けじと取り返す。慌てて麗緒も手を延ばす。押し問答してるうち、麗緒の膝から甘酢あんかけの唐揚げが滑り落ちた。
二人の時が止まる。にゃんこらの視線も止まる。二人が固まっている間、先に動き出したのはにゃんこらだった。全員で囲んで『おいしいやつ?』とくんくん確かめる。
「あー……ダメダメ。これはあんたらには味濃いし、酸っぱいよ?」
にゃんこらを押しのけ、麗緒は一つ一つ割り箸で回収する。四匹は非常に残念そうだ。
「ご、ごめんなさい! すぐに代わりの商品を……」
「いやいや、膝に乗せてたあたしが悪いんですから。それに、代わりなら……」
麗緒は、ひょいっとタッパーを奪い返した。
「もらっても、いいですよね?」
八の字眉にしたもみじがもう一度「ごめんなさい」と頭を下げる。
「謝らないでください、悪いのはあたしもですから。お昼代と晩酌代が浮いちゃいました。有り難くちょうだいしますね! いただきまーす!」
今度こそ唐揚げを手にした麗緒は、次々とそれを口の中へ放り込んでいく。幸せそうに「うまっ!」と頬を膨らます麗緒を見て、もみじもようやく笑顔になった。残念そうなのはにゃんこらだけである。
「お口に合ってよかったです」
「合わないわけないじゃないですか。こんなおいしいもの、口に合わない人なんていませんよ? もみじさんも一緒に……」
もみじの眉が再び八の字になっていくのを見て、麗緒は言葉の続きを飲み込んだ。おいしさで興奮していたあまり口走ってしまったが、もみじはマスクを外せないのだ。外で一緒に食べるなど叶わない。
「ごめんなさい……。つい……」
「いえ、私こそ、ご一緒できなくてごめんなさい……」
再び微妙な空気が訪れる。ずるいぞずるいぞ、よこせよこせ、と麗緒の腿に無数の猫パンチがヒットする。麗緒はもぐついたままタッパーの蓋を閉め、残りの唐揚げをビニール袋に入れた。
「タッパーお借りしますね。明日、洗って返します」
立ち上がり、他の購入商品も袋に戻していく。にゃんこらが抗議のにゃーにゃーを合唱しだす。もみじは切なげにその光景を眺めていた。
「麗緒先生、あの……」
「はい? なんでしょう」
「よかったら今度、うちへ来ませんか?」




