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12ページ/アレルギー

 

 八神麗緒は全身の鳥肌を感じた。

 世の中の大半の人間が苦手とする、あの黒くテカテカした足の速い虫と遭遇したような拒否反応。生理的に拒絶してしまうのだ。姉アレルギーと言っても過言ではないと麗緒は自負している。

 店内は相変わらず鉄板上の食べ物が焼ける音や換気扇の音、談笑やBGMなどで騒がしい。今の今までその環境を楽しんでいた麗緒だったが、一人の女の介入によって全てを台無しにされた気分だった。

「伊織、ごめんけど店変えよ」

 麗緒はそう言って、手つかずだったおかわりを一気に胃袋に流し込む。伊織は麗緒の一気飲みよりも退店を提案されたことに驚き、慌てて身を乗り出してきた。

「えー! バレたら気まずいのはケロちゃんのほうでしょー? うちらが帰ることないじゃーん。もんじゃは? もんじゃ」

「一気に冷めたわ。ごめんけどもんじゃはまた」

「えー、麗緒ーぉ」

 落胆の声も聞かず立ち上がった麗緒にただならぬ異変を感じた伊織は、「んーもう、分かったよぉ」と、男子大学生顔負けの勢いでみかんサワーを一気に飲み干す。二人そそくさとレジへ向かおうとすると、甘ったるい声が麗緒を引き留めた。

「あー! 麗緒ちゃーん」

 最悪だ。思わず舌打ちが漏れる。気付かぬふりをして伊織の腕を掴み「行こ」と促す。一瞬うろたえた伊織だったが、他局医師の不倫現場を目撃したという面倒ごとに巻き込まれたくなかったのか、振り返ることはしなかった。

「久しぶりねー、麗緒ぉ。いたなら声かけてよぉ」

 甘ったるい声が追いかけてくる。レジ前で伊織に一万円札を渡し、「ゴチるから払っといて」と先に店を出た。しぶとく姉もついてくる。

「待って、麗緒ぉ。ねぇ、今晩麗緒の家に泊まってることにしてくれなーい? 最近連泊してたらママに怒られちゃってぇ。あのストーカー事件以来さ、ママ過敏になってるのよねぇ。まぁ、いくつになっても心配なのは分かるんだけどぉ、ちょっと過保護過ぎると思わなーい? だからね、おねがーい」

 店の扉を閉めたところで、姉のきゃしゃな腕に捕まった。こちらの態度になどおかまいなしで、一方的に畳み掛けてくる。振りほどくのは容易だが、さすがに伊織を置いて先に帰るわけにはいかず……。

 三ヶ月程前、姉の麗美はストーカーに悩まされていた。それというのも自業自得、数週間単位でころころ男を換えていたため、捨てた男が逆上し付け回してきたというわけだ。

 未だ実家暮らしの麗美は悪びれもせず、自宅と職場の往復に別の男を同伴させた。案の定刺激されたストーカー男は、麗美との性交渉の画像を両親に送った。両親は『捏造されたリベンジポルノだ』と主張する娘の言葉を信じた。

 麗美は母が院長を勤める皮膚科クリニックで美容皮膚科を任されている。二週間の休暇を与えられ、なるべく外出しないよう命じられていた。もっとも、男遊びの激しい麗美がそんな言いつけを守れるわけがない。こっそりデートに出かけようとしたところでまたストーカー男に付け回されたのだ。

 警察への相談も被害届も面倒になった麗美は、「三日だけ匿って?」と麗緒のマンションへ押しかけてきた。姉の自業自得に手を差し伸べるのもバカバカしいので一度は断った麗緒だったが、両親からも懇願され最終的には受け入れる形になってしまった。

 だが、麗美は三日どころか数週間も居座った。おとなしく部屋にいるわけでもなく、相変わらず男と出かけたり仕事へ行ったり。幾度となく「もう出て行ってよ」と言いかけた麗緒だったが、強く言い切れない自分への歯がゆさを飲み込むことしかできなかった。

 とっかえひっかえされている男どものように、いつかうちからも飽きて出て行ってくれるだろう……。そう願って耐えていたある日、麗緒が仕事から帰ると二つの靴が玄関に並んでいた。麗美が男を連れ込んでいたのだ。

 これにはさすがの麗緒も堪忍袋の緒が切れた。反省も自主規制もするつもりなく、ましてや居候している妹のベッドで何をしてくれるんだと呆れ果てた。快楽の真っ最中だった部屋に怒鳴り込み、結果麗美は男と出て行き戻ってくることはなかった。

 数ヶ月ぶりに会っても、こりもせずこれか、と吐き気がこみ上げてくる。できれば会いたくなかったし、できれば顔も見たくなかった。背を向けている女とすがりつく女という異様な光景に、通行人がチラ見してくる。めんどくせーな、と麗緒はしぶしぶ振り返った。

 姉は相変わらずの整った顔で、「おねがーい」と手を合わせてきた。四つ年上だが、バッチリメイクのおかげで妹と同い年に見えなくもない。冷めた目で沈黙する妹に「ね?」と上目使いしてくる。

 今でもこんなリアクションに騙される男どもがいるのか。本当に中身なんか見てやしないんだろうなとアホらしくなる。

「……怒られるの嫌なら帰れば?」

「それができないから頼んでるんじゃなーい。今の彼とはなかなかお泊まりできないのぉ。今日ここでかわいい妹に会ったのはそういうことなのかな、って思ってるよぉ?」

 そういうことというのは、外泊に協力するために偶然会ったとでも言いたいのだろう。あいにく麗緒は不倫の手伝いも嘘の加担も偶然の再会もまっぴらごめんである。

 不倫ゆえになかなか外泊できなくて当然だ。誰が取り持ってやるもんか、と目を逸らす。

『知るか。誰にでも足開いてないで、とっとと帰れば? 相変わらずクソ女だね。いつか痛い目合うよ、こないだのストーカー男の時みたいに。そういう時だけ泣きついてきても知らないから。自分のお股は自分で拭いてね』

 言いたい、言いたい。この際だから言ってやりたい。言いたいことが後から後から湧いてくる。だが、何をしても勝てないジレンマが、麗緒の口を塞いでしまう……。

 あざーしたーぁ! という威勢の良い合唱と共に、伊織が店から出てきた。伊織は空気の読める女だ。麗緒たちをチラッと一瞥し、「先駅行ってるねー」と歩き出す。このクソびっちが姉だと知られたくなかったので非常に有り難い。さすが現役看護師、危機察知に秀でている。

「友達行っちゃったし、あたしも帰る。あんまり母さんに心配かけないでよ?」

 麗緒は言い捨てて踵を返す。「はーぁ? マジ使えねぇ!」と、妹にしか見せない本性を聞こえなかったことにし、小さくなっていく友人の背中を目指し走る。

 なるべく波風立てないように交わしたのは、姉が怖いわけでも母が心配なわけでもない。円満離婚と同じ原理で、愛着も怒りもなければ、今後の執着が薄く済むからだ。要は関わりたくないし、関わってほしくもない。

 姉にも両親にも、出来損ないの妹の存在をできるだけ忘れていて欲しい。利用されるのも罵倒されるのも、もうたくさんなのだ……。

「伊織っ、ごめん!」

 追いついたと同時に頭を下げる。伊織はけろりとした顔で「全然!」と苦笑した。

「なんかめんどくさそうだったね。知ってる人だったの? 友達?」

「いや? 昔の知り合い。悪いことしちゃったから飲み直そ? もう一件行こうよ」

「んー、いっぱい愚痴聞いてもらってだいぶスッキリしたし、今日のところは帰ろうかな? 今度は串焼きでも行こうよ。次は私がおごるから」

 笑顔でそう言ってくれる友人に感謝と申し訳なさを感じつつ、麗緒も「んじゃ帰るとしますかー」と伸びをした。

 伊織は歩き出し「そういえばさー」と師長の愚痴を吐き出す。勤務先の最寄り駅へ向かう途中なのにお構いなしだ。相当フラストレーションが貯まっているらしい。麗緒の毛が逆立っているのを察しているのか、爆笑秘話を交えながら改札までしゃべり続けた。

「んじゃ、またねー。今日はごちそうさまー!」

「ん、またねー! 伊織ぃ、あんま貯めないで、いつでも愚痴りなよ?」

「やーん、麗緒大好きぃ! 愛してるーぅ。あんがと。夜勤中でもラブコールするわぁ」

「ぶははっ、やめなさいやめなさい! うちらの仕事は自分が元気じゃないと始まらんからねぇ。お互い支え合おうぞ?」

 グータッチで友情を確かめ、別々のホームへと階段を上る。姉に出くわしてしまった嘔吐感は治まりきらないが、やはり友人の存在は大きい。車内で妙に祭りの後の寂しさを感じてしまい、別れたばかりの友人に『今日は楽しかったぞー!』とメッセージを送った。

 夜の街が見渡せる車窓に、物悲しそうなアラサー女の姿が映る。女はディファインタイプのコンタクト越しに、ずっとこちらを見ていた。メイクとコンタクトを取れば、ただの地味な干物女に戻る。厚塗りでないわりに我ながら上手く描けているな、としみじみ思った。

『お姉ちゃんにはあんまり似てないねぇ?』

 親戚にも知り合いにも言われ続けてきた。どういう意味? 姉妹だよ? 幼い頃はそれしか思わなかった。

 姉はぱっちり二重で黒目も大きい。奥二重の麗緒よりも全体的に大きく見える。鼻筋もリップラインもすっと通っているのでシャープな印象の麗緒に比べ、姉は小型犬のような愛らしさのある丸顔で親しみやすい。

 おまけに愛想も頭のキレも上回る。どうすれば愛されるか、生まれながらにして身についている天才だ。真似をしてみたつもりでも、麗緒にはさっぱりできなかった苦い思い出すらある。

「似てなくて結構だっつーの……」

 走行音に紛れてぽつりとこぼす。今日は例の夢を見てしまいそうだ。せっっかくの友人との再会にお呼びでない再会が重なってくれたせいで……。

 自分はいつまで捕らわれ続けるのだろう? いつになれば『八神麗美の妹』から抜け出せるのだろう。いつになればしがらみを振りほどけるのだろう……。

 自分が生み出した鎖に、勝手に絡まっているだけだということは分かっている。全ては自分の中の問題なのだ。三十路の声が聞こえていながらもなお、カインコンプレックスを打破できないのは自分の『弱さ』だ。

 比べられるのが怖かった。だから家族や周りの目を気にするあまり、自我を形成するのが遅すぎた。自分を愛してもらえない家庭環境に浸かりすぎて、自分を愛してやらなきゃいけないことに気付くのが遅すぎた。

 もういい大人だ。これからは自分が自分を愛してやらなきゃ。自分が大切にしてやらなきゃ誰が大切にしてくれる?

「……ぷっ!」

 ふと笑いがこみ上げてきた。そんなことばかり考えているうち、電車は学園前駅に到着する。独りニヤつき歩いている危ない女とバレないよう、俯き改札を抜けた。こういう考え自体が幼いのだとセルフツッコミする。

 堂々巡りのもやもやをかき消すようにバッグを振り回し帰路を辿ろうとすると、駅前の雑踏に似つかわしくない服装の娘と目があった。

「わっ! やが……」

『やがみん!』と言いたかったのだろうが、息を合わせたように同時に背を向けた。お互い見なかったことにする。きっとバイト中だったのだろう。真っ白なヘッドドレスを付けたロリータファッション姿の生徒が背後で足早に去って行く。

 星花女子学園はバイト禁止だ。だが咎めないだけで、バイトをしている生徒などごろごろいる。先程の白ロリ娘もまた、その一人。学業一筋でバイトも出来なかった麗緒には、校則を破るのもバイトをするのも眩しいくらい羨ましい。

 今のうちに青春しとけよ? と、振り返り走り去る背を微笑ましく見守る。最寄り駅に着いたからか、一気に現実が愛おしく感じた。

 いよいよ夏休みが終わる。明後日から二学期だ。明日こそ休肝日にするぞ! と気合いを入れ、達成できない誓いと戦う麗緒だった。





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