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10ページ/過去

 

 糸崎もみじはぽつりぽつりと話し始める。

 地方公務員として県庁で働いていた当時十九歳のもみじは、明るく真面目で気が利くと、職員からも来庁者からも評判がよかった。同僚や上司にも恵まれ、順風満帆な社会人生活を謳歌していた。

 親元を離れ官舎に入居して数ヶ月経ったある日、帰宅したもみじは部屋の異変に気付く。

 今朝室内干ししておいた洗濯物が、奇麗に畳んでベッド上に並べてあったのだ。明らかに自分の畳み方と違う。母のとも違う。その光景にぞっとしたが、鍵もかかっていたし、盗まれた物は何一つなかったので、その日は通報まで考えられなかった。

 数週間後、今度は冷蔵庫の中身が増えていた。今朝使い切ったはずのタマゴが補充されている。牛乳もヨーグルトもドレッシングも、なくなりそうだから買ってきた物と全く同じメーカーの商品が冷蔵庫の中にすでに並んでいた。

 さすがに気持ち悪いと思ったもみじは、それらを全部捨て、母に相談した。当然シリンダーごと鍵を換えろというので急いで換えた。それでも不気味な出来事は数週間置きに不規則なスパンで続いた。

 バスタブが掃除されていた日もあった。使いかけの歯ブラシが増えている日もあった。もみじの好物のオムライスがテーブルに作られていた日もあった。自然消滅してしまったのだが処分するきっかけがなかっただけの元彼との写真がビリビリに破られていた日もあった。お気に入りのクマのぬいぐるみがひとつ増えていた日もあった。欲しいと思っていたパンプスが玄関に置いてあった日は誰かいるのだと思って悲鳴が漏れた。

 さすがに母と警察に相談に行った。だが犯人の心当たりもなければ証拠も何一つ出てこないので、「また何かあったら相談に来てください」としか応対してくれなかった。

 もみじは防犯カメラもないような古い官舎を出てセキュリティのしっかりしたマンションでの独り暮らしも考えたが、犯人はもみじの住居どころか好みまで把握しているのだ。引っ越したところですぐ同じことが繰り返されるに違いない。かといって実家から県庁までは電車で二時間半はかかる。悩んでいる間も、嫌がらせのようなそうでないような不気味な出来事は続いた。

 もみじは見えない犯人のストレスから、日に日に痩せ衰えていった。自分が不眠症に陥っていることに気付いた。食欲が落ちていることは友人に指摘されて気付いた。部屋に帰るのが怖いので、同僚に泊めてもらった日もあった。

 何も解決しないまま半年が過ぎたある日、帰宅したもみじは洗面所で蹲る男の姿を見た。ついにストレスで幻覚まで見えてしまったか……そう思い固まっていた。恐怖心より自分への猜疑心が上回っていた。

 男の手には数本の髪が握られていた。もみじのものだろう。男はそれを大事そうに握りしめたまま、振り返りベロリと嘗め上げた。

「おかえり、もみじちゃん。やっとこんなに集まったよ」

 男は両手の手袋を外し、ポケットの中からジップロックを取りだした。その中には大量の髪の毛が入っていた。もみじはやっと、これは幻覚ではなく、恐怖の現実だと気付いた。

 *

「私の悲鳴で駆けつけてくれた隣の方が通報してくれたんです。男は逃げもせず、『半同棲、楽しかったよぉ? 僕はコレがあるからもう寂しくない』と連行されていきました」

「……コレってもしかして髪の毛?」

「そうです。私は判断力も鈍っていたようで、母に説得されてようやく県庁を辞めてこっちに帰ってきました」

「そう、だったんだ……」

 しばしの沈黙が続く。もみじはすでに空になっているソフトクリームの容器の内側を、かりかりとスプーンで引っ掻く。隣に並んで座る麗緒はゴミ箱にポイと投げ入れた。

 結局、後ろを向いているから、という麗緒の提案をもみじは断った。隣で食べませんかとソファへ誘ったのだ。麗緒は恐縮しつつも、なるべくもみじの顔を見ないように並んで座った。二人とも真っ直ぐ前だけ向いてちびちびと食べた。

「実は、さっき下でもみじさんに会った瞬間、ストーカー被害にあったことがあるんだって直感したんです。もみじさん、マスクしてても美人さんだって分かるし、うちの姉もストーカーから逃げてきたことあるんで……」

 麗緒がぽそりとこぼす。もみじは驚いて麗緒のほうへ顔を向けたが、麗緒は頑としてもみじの顔を見ようとしなかった。視線には気付いているらしく、逆側に顔を背ける。

「お姉さんも、ですか?」

「……まぁ姉の話はいいとして。今までマスクの理由が全く分からなかったんですけど、今の話でやっと繋がりました。怖い思いしたからなんですね。食事には行かないと予防線張ってたのも、外でマスクを取りたくなかったからだったんですね」

「はい……。実はまだ続きがありまして……」

 もみじは俯き語り出す。

 その後わずか半年で男が実家の近くにも現れだしたこと。禁止命令に反して再度ストーカー行為をしてきたこと。『かわいい。食べちゃいたい』という気持ち悪い手紙がきっかけで、人前に顔をさらけ出すのが怖くなったこと。ニアマート横で隠れていたところを、星花の警備員と生徒が協力して男を取り押さえてくれたこと。

 それから三年経っていること……。

「禁止命令違反でのストーカー行為は、二年以下の懲役なんです。もう三年経っているから、いつ現れてもおかしくないと思ったら急に怖くなって……」

「はー、ブタ箱ぶち込まれようが変態が治るとは限りませんからねぇ。こりないやつは何度でもやるかもしれない。やっぱり、もう一度警察に連絡して……」

「いえ、でも私の考えすぎかもしれませんし。顔を見たわけじゃないんです。それに、冷静になってみれば、私の後をつけていたかどうかも確かじゃないです。しばらくは一人で出歩かないようにするとかで様子みます」

 もみじは自分に言い聞かせるかのようにこくんと頷く。退屈なのか、「にょぁっ?」というダイアナの間抜けなあくびが横切る。もみじがくすりと笑った。

「送りますよ、もみじさん」

 麗緒が徐に立ち上がる。もみじとダイアナは反射的に見上げた。

「酒臭いおばちゃんでよければ送りますよ。お母さん、ソフトクリーム待ってるでしょ?」

「い、いえっ、そんなつもりで言ったんじゃ……」

「分かってますよ。あたしももう一つ食べたくなったんで買いに行きましょ? ついでに送るだけです」

 麗緒は背を向けたまま、スマホと自転車の鍵をジャージのポケットに突っ込む。もみじはどうしたらいいか分からずおろおろしていたが、「それとも、泊まっていきますか?」と言われ、慌てて立ち上がった。

「あのっ、すいません麗緒先生……。私がこんな話をしたばっかりに……」

「話してくれなかったとしても送りましたよ。あたしの仕事は心身の健康を守ることです。養護教諭、ナメないでくださいね?」

「いえ、でも、仕事でも生徒でもないですし……」

 そうは言っても、もみじは内心嬉しかった。寝込んでいる母に、あの時のトラウマが蘇ったなんて心配はかけたくない。急いでバッグとマスクを手に取り、のしのし玄関へ向かう麗緒の後を追った。

 エレベーターの中で、数分ぶりに目が合った。いつもと違うマスクを装着しているもみじが「似合いますか?」と言うと、麗緒はぶっと吹き出した。

「えっ、えっ? 何かおかしいですか? 似合いませんか?」

「ぶははっ、おかしくなんかないですよ?」

「え? じゃあなんで笑ってるんですか?」

 なおも笑い続ける麗緒が先にエレベーターを降りる。逃げるように早足で駐輪場へ向かった。「ちょっと、麗緒先生?」ともみじが追いかける。二人の足音がエントランスに響いた。

 なにがなんだか分からず膨れているもみじの前まで愛車を押して来ると、麗緒は「行きましょうか」と歩き出した。

「あの、麗緒先生?」

「はい? なんでしょう」

「なんでしょうじゃなくてですね? さっき、なんで笑ったんですか?」

「えぇー? だってぇ……」

 もったいぶる麗緒にじれったくなったもみじはしゅんとなる。

「言えないほど、私おかしいんですね? 目、赤いとかですか?」

「違いますよぉ。んもー……」

 麗緒は街灯の真下で急に足を止めた。つられて立ち止まったもみじの顔をじっと覗き込む。

「な、なんですか?」

「似合ってますとかかわいいですとか、あたしが言ったらキモくないですか? あたしみたいな干物女なら誰もストーキングしませんけど、マスクしててもこんなにかわいいなら、こりゃもうあたしが護衛するしかないな、って思ったらなんか笑えてきて……あはは」

「……キモくもおもしろくもないです」

 むくれて歩き出すもみじの背に、麗緒は真顔で語りかける。

「いつでも呼び出してください。この世でラスボスの次に強いのはおばちゃんですから」

 もみじは振り返る。今にも吹き出しそう顔で。

「いくつですか、麗緒先生」

「それは内緒です」

「えー! 自分でふってきたんじゃないですかぁ」

 ミニスキップの灯りが遠くで眩しい。さっきまであんなに恐怖を感じていた夜道を、今は笑いながら歩いている自分がいる。もみじは恐怖心も罪悪感も忘れ、家に着くまでずっと麗緒のアラサートークにおまじないをかけられているような、不思議な温かさに包まれているのを感じた。



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