二人のなれそめ
この世界は、諦めと妥協でできている。私……春野真箏は思い知った。
「完治まで3ヶ月。リハビリをして競技に戻れるのは、早くても10ヶ月はかかります」
整形外科の先生が、口を真一文字に結んで告げた。
私の夢は、プロのバスケ選手になること。中学の県強化指定選手にも選ばれたし、高校も強豪校に特体生として入っていた。絶対に不可能な夢ではないはずだった。
帰りの車内で、お母さんは私よりも青い顔をしている。元気付けるように、笑顔を作った。
「大丈夫だよ、お母さん。リハビリするし、ちゃんと勉強する。……別の学校に編入になってもいいようにさ、ね?」
泣き出しそうに口を歪めながら、お母さんはごめんね、とだけ言った。
この世界は諦めと妥協で出来ている。16年生きてきて、気づいてしまった。
中学の時は一番だった身長もバスケの腕も、高校で伸びなくなってきて、一年生だけのチームでも控えにされてしまった。だからもっと上手くなろうと、普段の練習に加えて自主練習にも励んで、その結果がこの怪我だった。思っていたよりもずっと早く……夢が潰えてしまった。
諦めと妥協の世界。高校生になって、この世界が急に私を冷たく突き放してきたように感じた。
──4月。新学期。
私は別の高校に転校することができた。ごく普通の、公立の進学校。実家から近かった事と海がとても近いのが気に入って、転校を決めた。バスケから離れ難くて、転校先でもマネージャーとして女子バスケ部に在籍している。
「お願いしまーす、女子バスケ部です」
入学式の日、新入生に向けて勧誘のビラを渡していた時のことだった。校門には桜がたくさん咲いていて、びっくりするくらいに快晴で、私は久しぶりに晴れやかな気分になった。
急に強い潮風が吹いて、校門のそばの桜を乱暴に散らしていく。はらはらと散っていく桜吹雪の中、一際目立つ女子生徒が歩いてきた。
背が高い。私と同じくらい、170センチ近くあるだろう。背中まである長い髪は艶々と真っ黒で、キラキラと光を跳ね返していた。
「あ……」
思わず声が出た。
――綺麗。
その女の子は鼻筋がすらっと高くて、切長の瞳に音がしそうなほど長いまつ毛をしていて、少し俯きがちに歩いている。
美人だ。私がこれまで見た、誰よりも美人。
「あ、女子、バ、バスケ部です、あの、よろしく……」
私がビラを差し出すと、その子は肘に鞄をかけて、律儀に両手で受け取ってくれた。近くに来た瞬間、とてもいい匂いがした気がする。こんなにいい匂いがする子、初めて。
「ありがとうございます」
にっこり微笑んだ彼女の瞳は、少しグリーンがかっているように見えた。しばらく、その子の背中を見つめてしまっていたと思う。
「すっごい美人な子だったね。一年みたいだけど、背も高いし」
隣にいた女子バスケ部の部長がしみじみと言った。
「え……そうですね。ほんと」
「どうしたのマコ。さっきまでタッパある子には積極的に行ってたのに。『君いい身体してるね! バスケ部入って青春しようぜ!』って」
「えー、あたしそんな感じじゃないですー……あ、君! いい身体してるね! 女子バスケ部入らないかい!?」
「ほら」
部長と私は二人してクスクス笑う。
━━ほんとに綺麗な子だったな。
私はぼんやりと頭の一部を持っていかれながら、ビラ配りを続けた。
入学式が終わって早めに家に帰ると、玄関までぷんとお酒の匂いがした。
「おー、おかえり、真箏」
姉の美里が、リビングのテーブルに突っ伏している。
「もー、また昼間っから飲んでたの」
「いいじゃん、別に。うるさいなあ」
真っ赤な顔のまま、姉はふんとそっぽを向いてしまった。私はやれやれとため息をついて、着替えてジョギングに出かけた。
まだ硬いアスファルトの道は走ってはいけないと言われている。歩いて海岸まで行ってから、柔らかい砂浜をゆっくり走った。軽く走っている最中は、考え事をするのに最適だ。
姉の美里は小学校から、とてもモテていた。小学生の時から彼氏がいたし、高校の時に全女子生徒憧れのイケメンの男の子と大恋愛をして、そのまま結婚した。
「彼はね、運命の人なの」
姉はずっと言っていた。結局その運命の相手とは結婚一年目で、お互いの浮気が理由で離婚した。姉は今、実家に出戻りして、毎日昼からお酒を飲みながらうだうだやっている。
運命運命とか言いながら、本当は別の子が好きだったくせに。私は実は知っていた。それなのに女子に一番人気のある男子から告白されたからと見栄で付き合って、これは運命なんだから、と自分に言い聞かせていたに決まってる。
――お姉ちゃんも高校生になったから、妥協したんだ。
私は今なら分かる気がした。
潮風が心地いい。息が上がらない程度に、膝に負担がかからないようにゆっくり走る。二周走ったところで、海岸に降りてくる子に目を奪われた。背が高くて、髪の長い、とても綺麗な女の子……。あの子だ。入学式の時に見かけた、すごい美人の子。ウチの学校の制服を着て、鞄を持っている。手を広げながら砂浜に降りて、波打ち際まで歩いてきた。
「あ、あのっ」
考えるより先に声が出てきて、自分でもびっくりした。
(なんで声なんてかけたの? 私)
「はい?」
その子は軽く小首を傾げて、目を丸くしている。
びっくりした。じっくり顔を見ると、すごくすごく可愛い。なによりも私が驚いたのは彼女の匂いだった。桃のような、懐かしいような、とっても良い匂いがする。
「初めまして。海成高校の、新入生の子だよね?」
「あ、女子バスケ部の方ですね、今朝の」
その子はにっこりと笑ってくれた。冷たい感じの美人だと思ったけれど、笑うとあどけなくてとても愛らしい。覚えててくれた。どうしてだか、すごく嬉しかった。
「うん! ありがと、覚えててくれて。あたし、春野真箏。二年生でーす」
「春野先輩ですね。私、新入生の桔梗宮鳴華ききょうのみやめいかです」
口全体を隠さないように、軽く口元に手をあてて笑っているのがとても上品で、お嬢様っぽい。私はびっくりしてばかりだった。
「桔梗宮、鳴華さん? すごく綺麗なお名前だね!」
「そんな……ありがとうございます。私も、自分の名前は気に入っています」
にこにこして謙遜しない所も、私はなんとなく好感が持てた。
「桔梗宮さん。えっと、気を悪くしちゃったらごめんね。身長、高いね。バスケ部入らない?」
「あ……ごめんなさい、春野先輩。私、放課後は習い事があって、部活はできないんです」
あえなく断られてしまった。私は、ぽかっと心に穴が開いた気がした。
「あらら、そうなんだ、残念」
「ごめんなさい」
首を小さく下げて困り顔をしている。思ったより表情豊かだ、と私は思った。
「ううん! 気にしないで。ね、海、好きなの? 私も、海、すっごく好きなんだ」
「ふふ、はい。海、とっても好きです」
──海の近くだから、この高校にしようって決めたんです。桔梗宮さんは笑っている。
「へえー、高校を決めちゃうくらい? すっごい好きなんだね。今日は、海を眺めに来たの? 私みたいに、ランニング?」
「ええ、海を眺めに……春野先輩は、ランニングに来られたんですか?」
「うん! あ、お邪魔しちゃったね、それじゃあまたね」
「はい。失礼いたします」
軽く手を振って、私はまた走りだした。桔梗宮さんも手を振り返してくれて、スカートに砂が付くのも厭わない様子で砂浜に腰掛けている。
こっそり、彼女の方を何度も何度も振り返って見た。せっかくの綺麗な髪、潮風で痛んじゃうんじゃないかな。
彼女はまるで宝物を眺めている子供のように、長い髪をなびかせながら、じっと寄せては返す波を見つめていた。姉のことでモヤモヤしていた気持ちが、すっかり晴れていることに気付く。彼女の笑顔が、吹き飛ばしてくれたみたいだった。海が近いから高校をここに決めたって言ってた。海、好きなんだ。これからも何度か会えるかな。会えたらいいな。
海岸でリハビリをするに当たって、私の楽しみがまた一つ増えた。
4月も中旬になって、私が転校生として話題にされていたのも落ち着いて、学校にも馴れて来た時の事だった。
「真箏! 真箏だよな? 久しぶり」
見覚えのない、背の高いイケメンの男子生徒だった。確か、男子バスケ部の二年生だった気がする。
「え? えーと……」
「あれ、覚えてない? 俺だよ。新郷翔太。ほら、六年生まで一緒だった……」
あっ、と、私は思い出した。幼馴染の、翔太だ。小学校までとても仲良しで、小さな頃はほとんど毎日一緒に遊んでいたっけ。私は中学高校と全寮制に通っていたから、会うのはとても久しぶりだった。
「え、翔太? ほんとに?」
「そうそう! うわ、お前相変わらずでかいな。転校してきたの、やっぱお前だったんだ」
翔太はすっかり大きくなっていて、真箏よりも頭一つくらい背が高い。
小学生までは、私の方が断然背が高かった。翔太は人懐っこい顔を崩して、朗らかに笑っている。思い出の中の翔太とは全然違う、大人の男になっているが、どことなく面影があった。
「翔太こそ、でっかくなったじゃん! あたしの膝くらいしか無かったのに」
「膝て。そこまでチビじゃなかっただろ! お前んちのおばさんからこの学校って聞いててさ」
話している途中に予鈴が鳴ったので、また暇があったら遊ぼうぜ、と翔太は慌てて自分のクラスに戻っていった。見送っていると、私と最初に仲良くなったクラスメイト、五堂柚希が後ろから肩を叩いてくる。
「マコ、新郷くんと幼馴染だったんだ? いいなあ」
「うん。あたし元々ここに住んでたから。……いいなあ、って?」
「彼、イケメンだし、背高いし、バスケ部のエースだしで、女子にすっごい人気あるよ。彼女と別れたばっかりらしくて、狙ってる子多いし」
少し顔を赤くしている柚希も、その一人らしい。私はすぐ察しがついた。
「へえー、あのチビでだった翔太がね……どうしたの、柚希っち」
柚希は廊下にあるロッカーを開いて、慌てた様子で何かを探している。
「昨日から、お姉様に英和辞書借りっぱだったの忘れてて」
やば、と呟いて、柚希はやっとくたびれた英和辞書を見つけていた。
「お姉様? 柚希っち、お姉さんのことすごい呼び方してるんだね」
「あ。いや、本当のお姉さんじゃなくて。このガッコの変わった風習なんだけどね」
柚希がいうには、この学校には上級生と下級生で兄弟分、姉妹分という義兄弟の様な関係を結ぶ風習があるとのことだった。
姉や兄になった生徒は、今後の学生生活や行事なんかで弟妹になった生徒をお世話をしてやるのだという。
「へー、姉妹分かぁ。先輩後輩とは違うの?」
「部活の先輩後輩と同じっちゃ同じかな。勉強見たり、ジャージとか貸してあげたり。仲良しだと自慢できるよ」
珍しいな、とも思ったが、部活以外でも下級生と交流ができるのかと思ったらそれはそれで楽しそうだ、とも思った。部活外でもいいのなら、あの子……桔梗宮さんを妹分にしたいな、とチラっと思った。
彼女みたいに可愛い子が妹なら、それはもう自慢になるだろう。ぼんやり思い描いただけだったが、思いがけずその通りになった。
その日も海に走りに行くと、桔梗宮さんはビーチに座っていて、本当に海が好きなんだな、と感心してしまうくらいだった。
「こんにちは! 桔梗宮さん!」
「あっ、春野先輩。今日も、ご一緒してよろしいですか」
「もちろん! こっち、どうぞ」
海岸に腰掛けて、二人でお喋りを楽しむ。
「桔梗宮さんはずっとこっち? それとも引っ越してきたの?」
「はい、高校入学を期に、こちらに母と一緒に……父だけ単身赴任しています」
「そうなんだ。あたしは、元々こっちに住んでてね。子供の頃からよくこの海岸に来てたの。桔梗宮さんも、海、本当に好きなんだね」
「ええ、とても」
桔梗宮さんのご両親はとても旅行好きで、彼女は世界中の海に行ったことがあるのだという。
「へえー、ハワイにも行ったことあるんだ? いいなあ」
「はい。お昼の間は人も多かったのですが、夕方になると、鮮やかなオレンジの夕陽が水面を光の道の様に照らして、とても感動しました。ずっと眺めていたので、父から『メイカ、そんなに長々と砂浜に突き刺さってるのは、お前かパラソルだけだよ』って」
「あはは」
桔梗宮さんはユーモアがあって、いろんなことを知っていて、話してとても楽しかった。
「春野先輩は、転校して来られたと訊きました。でも元々、こちらだったのですよね?」
「ああ、うん。実は怪我しちゃって。スポーツ推薦の学校から、ここに転校してきたの」
桔梗宮さんは、気の毒そうに眉をひそめている。
「まあ。それほどひどいお怪我だったのですか?」
「うん。今、リハビリ中なんだ。それで、柔らかい砂浜を走ってて」
「そうだったのですね……申し訳ありません。嫌なことを聞いてしまって」
「ううん、全然嫌じゃないよ。だから、あたしもこの学校は桔梗宮さんと一緒、一年生だね」
「うふふ、そうですね」
目を細めて笑う桔梗宮さんは、とても可愛い。しばらく話していると、桔梗宮さんが、あっ、と何かを思いついた様子で、こちらを振り返った。
「春野先輩。姉妹分のお話、知っていますか?」
「え? あ、うん。聞いたよ。クラスの友達から。桔梗宮さんは? もうお姉さんいる?」
桔梗宮さんの方から言ってくれると思わなくて、私は軽い風を装って聞いた。
「いえ、まだ誰も……もしよろしければ、先輩が私の姉になっていただけたら、とても嬉しいのですが」
じん、と私は胸に高揚感が沸き上がってくるのを感じた。
やったぜ。聞いてよかった。こんなに可愛い子が、私の妹。初めての経験だったけどすごく嬉しかった。
「えっ、いいの? でも、桔梗宮さんはあたしで大丈夫? 全然頼りにならないと思うよ。勉強できないし、今は体育もできないし」
「そんな、お気になさらないでください。よろしくお願いいたします、お姉様」
「お、お姉様? なんか、くすぐったいな。あたし全然お姉様って柄じゃないけど……」
「うふふ。お姉様、私のことも、鳴華、と呼んでくださいね。ぜひ」
桔梗宮さん……鳴華ちゃんは悪戯っぽく笑っている。
「うん。……よろしくね、鳴華ちゃん」
「はい。お姉様」
お姉様……私に妹はいないので、生まれて初めて言われた。お姉様、お姉様。感じたことも無い、そわそわするような、心地いい喜びが心の底から沸き上がってくる。
「お姉様、かぁ……」
こんなに美人で可愛い子が、私の妹だなんて、と誇らしい気持ちになった。今の学校に入って、初めて良かったと思った。
━━
彼女と姉妹になったおかげで、私の新しい学校生活はすっかり変わった。
「おはようございます、お姉様」
「おっはよー! 鳴華ちゃん」
学校で鳴華ちゃんと出会うたびに『お姉様』と呼びかけられるのは、くすぐったくもあり、誇らしくもあった。
鳴華ちゃんはやはりとても目立っている様子で、すでに一年生の中どころか、学校一番の美少女だと噂になっているらしい。
そんな子にお姉様と呼ばれているのは、なんとも言えない優越感があったし、「あの転校生の子が、桔梗宮の姉」と一、二年生の中で私まで話題にされている。……気がした。
「ねーねー、春野さん。一年の桔梗宮ちゃんと仲良いんでしょ?」
男子バスケと女子バスケの練習が被った時、二年生の男子から聞かれた。
「仲良いっていうか、妹分だけど」
「彼女、背高いじゃん。女子バスケ部、入んないの?」
その男子は下心ありありの目をしていて、私は少し不愉快だった。
「さあ。彼女、放課後は用事があるから部活入れないってさ」
適当に切り上げて、私はさっさと体育用具室に逃げた。すっかり彼女の姉貴ヅラしてしまっている自分に気付いて、少し気恥ずかしくなる。まるで本当の姉のように、鳴華ちゃんはあたしが守らないと。そう思っていた。
「お姉様ー!」
鳴華ちゃんは海岸で私を見つけると、いつもチアリーダーみたいに両手を挙げて、ぴょんぴょん跳びはねながら呼んでくれる。私は愛おしさで胸がいっぱいになった。
「鳴華ちゃーん! 今日も来てたんだね」
「はい! お姉様に会えると思って」
目を細めてはにかんでいる鳴華ちゃんは、本当に可愛い。私は彼女に会うと、リハビリや新生活での不安やストレスが吹き飛んでいく気がした。
鳴華ちゃんは、私に似てる。何度かお話するうちに気づいた。彼女も海が大好きだし、身体を動かすことも好きみたいだし、いちいち誰と誰が付き合ってるとかって話もしたがらない。
流行りの動画だのTVだのの話もしないので、中学時代バスケ漬けだった私と同じく、少し世間の流行り等に疎い感じがあった。以前、習い事があるので部活ができないと言っていたっけ。私は興味が湧いた。
「そういえばさ、鳴華ちゃん。習い事してるって言ってたよね。あれってもう始めてるの?」
「えっ……あの……」
鳴華ちゃんの形のよい眉が、ちょっとひそめられているのに気付く。
「あ、ごめん。言いたくなかったかな」
「いえ、そうではありません。……わ、笑い、ませんか?」
「ええ? 笑わないよー。だって、鳴華ちゃんそれを頑張ってるんでしょ?」
鳴華ちゃんはちょっとだけ鼻白んだ顔をして……やがて、何度か深呼吸した。
「あの……学校の皆様には、内緒にしていただけますか?」
「へ? うん。いいよ」
なんだろう、まさか、悪いことでもしてるんだろうか。それなら、やめさせなきゃ……。また姉貴風を吹かせそうになったが、鳴華ちゃんから出てきたのは、意外な単語だった。
「あの……バイク、です」
「バイク……?」
少し、きょとんとしてしまった。バイク。あのバイク?
「え、バイク? えー! そうなの!?」
「は、はい。7月には、16歳になるので、それから中型の免許を取得したいと……お金が必要なので、放課後は母の仕事を手伝っていまして」
「へえー、そうなんだ! いが……ううん。すごいね! バイク、好きなんだ?」
「ええ。両親が好きで、私も、子供の頃からポケットバイクに乗っていて……」
正直にいえば、すごく意外だった。てっきりバイオリンとかピアノとかお花とか、お嬢様みたいな習い事だと思っていたから。
でも、きっとすごく似合うだろうな、とも思った。背が高くて、髪の長い鳴華ちゃんが、長い手脚をすらっと伸ばして、バイクに跨っている姿。きっとカッコいいに違いない。
「お恥ずかしいです。申し訳ございません、習い事なんて嘘をついてしまって」
「そーんな、気にしないでってば! へえーそっか、ご両親の影響で?」
「ええ。母が、バイクの整備士をしていて……父と知り合ったのもバイクがきっかけとのことで」
白い頬が紅潮してきていて、鳴華ちゃんは恥ずかしそうに両頬に手をやっている。その仕草が可愛くて可愛くて、私は思わず顔がほころんでしまった。
「ポケットバイクって、あのちっちゃいバイクだよね? 時々TVとかで、ちびっ子が乗ってる」
「はい。小学校までは、それに乗っていて……中学校になってからは、中型免許取得に向けて、サーキットで練習していました」
はにかんだ笑みを浮かべながらも、鳴華ちゃんは嬉しそうに話してくれる。多分、友達にも言えなかったのかも。意外、とか、イメージじゃない、とか、女の子のくせに、なんて言われるのが嫌だったんだろう。
「バイクかあ。いいなあ、あたしもちょっと憧れあったもん」
「本当ですか? お姉様」
「うん。かっこいいじゃない?」
姉と言い合いしたりモヤモヤしたりした日は、バイクに乗ってどこかに出かけられたら、気持ちいいだろうなと思った。この海沿いを走って、潮風を浴びながらどこまでも走る。きっと心地いいだろう。
「お姉様も、一緒にバイクの免許取られませんか?」
「へ?」
「お姉様くらい背が高ければ、取り回しもそれほど苦労されないと思います。今、バスケ部は本格的には参加されていないのですよね?」
そういえば、私も今年17歳だから、中型免許が取れる。またしても心にポカッと穴が開いた気がした。でも、これはこの間から味わっていた寂しい隙間風じゃない、爽やかな風穴だった。
「そう、だね……中型免許って、いくらぐらいかかるのかな?」
「大体、総額15万円くらいだと思います」
「15万円かあ……結構するね」
「うふふ。そんなお姉様に。実は、最寄りの自動車学校で、キャンペーンをやっています」
鳴華ちゃんは脇に置いていた鞄からファイルを取り出し、チラシを渡してくれた。
「サマーキャンペーン! 6~9月に入校された方は、教習料30%オフ! ……30%オフ!?」
「はい。計10万円くらいでご入校できますので、お得だと思います」
10万円。高いけど、今からアルバイトをして、お小遣いの前借りを頼んで、お年玉の残りを追加すれば、いけない額じゃない。
「うわあ……ど、どうしよ。でも、すっごい魅力的。鳴華ちゃん。7月から、入校するんだよね」
「はい。7月が誕生日なので」
鳴華ちゃんは、にっこりと笑っている。知らないことや、新しいことにチャレンジするのは怖いけど……鳴華ちゃんと一緒なら、頑張れる気がした。
「……と、取っちゃおうかな。免許。アルバイトすれば、いけるかも」
「本当ですか? 嬉しい」
鳴華ちゃんからさっと手を握られて、私はどぎまぎしてしまった。
「お姉様が免許を取られたら、ぜひ一緒にツーリングに行きましょう! 母の仕事場に、古いバイクが何台もありますから、お譲りします」
「えっ、じゃ、安く譲ってもらえたりするかなーなんて……」
「タダで差し上げます。本当に何台もありますので」
「そ、それは悪いよ! でも、楽しみにしてるね」
「はい! ふふ、お姉様、すごく嬉しいです。一緒にバイクに乗れるお友達ができるなんて」
鳴華ちゃんは本当に嬉しそうにはしゃいでいて、私も嬉しくなった。両親を説得しないといけないけど、ワクワクしている自分もいる。
バイク。
自分の人生に全く関わりの無いものだと思っていた。危ないイメージがあるし、不良っぽいイメージもある。でも、鳴華ちゃんがやっているのなら、私もやってみたい。彼女が好きなものを、好きになりたい。そう思っている自分がいる。
高校生になって、変わってしまったものが多くて戸惑っていたけれど、バイクの免許が取れるのは16歳になったおかげだ。バイクに乗れたら、いろんな所に行けるだろう。国道を通って隣町に遊びに行ったり、隣の市のおばあちゃんの家にも一人で行ける。鳴華ちゃんとも二人でツーリングに行けたら、どんなに楽しいだろう。
しばらくバイクについて鳴華ちゃんに教えてもらってから、私はさっそくアルバイト情報誌を買って帰った。
両親の説得は、思ったよりも上手くいった。父も昔バイクに乗っていたそうで、とても嬉しそうに賛成してくれた。
「バイクに興味が出るなんて、さすがお父さんの子だ! お父さんは賛成だよ」
「私は反対よ。女の子なのに、バイクなんて」
母からはやはり反対されてしまったが、意外なことに、姉の美里は賛成してくれた。
「真箏がせっかく新しいことをしてみたいって思ってるんだから、いいんじゃない? たまに、バイト先まで迎えに来てもらえたらあたしも嬉しいし」
「ありがと、お姉ちゃん。うん、たまには迎えに行くよ」
「でも、お金だって」
「お母さん、お金はアルバイトするって言ってるし、いいじゃないか。美里のいう通り、真箏がバスケ以外に新しいことを始めたいっていうんだ、応援しよう。その代わりだよ、真箏」
「なに?」
さっきまでへらへらしていた父だったが、急に姿勢を正して、真面目な顔になった。
「これだけは約束しなさい。絶対に安全運転すること。体調が良くなかったり、危ないと思ったら、無理をして乗らないこと。バイクはとても危ない乗り物だ。命を落としたり、一生歩けなくなったり、事故の加害者になったりする人間がたくさんいる。お父さんも、それが怖くなってバイク乗り《ライダー》は卒業したんだ。いいね? 絶対に安全運転をすること。約束できるね?」
「……うん。分かった。お父さん。絶対安全運転する。約束する」
「よし。それなら、お父さんは許可するよ」
「少しなら、お金支援してやるよ」
お酒をあおりながら、美里がぽつんと言った。
「えー、いいの? ありがとう」
結局母もしぶしぶながら了承してくれて、私はさっそく高校生可のアルバイトを探すことにした。
━━
図書室にバイクの構造の本と、学科試験の古い教科書があるというので、私は転校してきて初めてこの学校の図書室に行ってみることにした。
月四万円くらいだけど、短期のアルバイトは見つけることができた。この調子なら、7月には鳴華ちゃんと一緒に入校できそうだ。
目的の本を見つけて、貸し出し手続きを終えると、背後から翔太に声をかけられた。
「お、翔太じゃん。おっす。なにしてんの?」
「ちょうど、お前が入るところが見えてさ。ちょっと、話したいことがあって」
翔太は神妙な顔をして、私の持っているバイクの本をちらっと見ている。私は首を傾げた。
「なに? 話って」
「真箏、大怪我して転校してきたんだってな。バスケでやったのか?」
「え……ああ、お母さんから聞いたの? まあ、そうだけど」
お母さんも、余計なこと話して。私はため息を噛み殺した。確かに、うちのお母さんと翔太のお母さんは仲良しで、いまだに家に行き来しているらしい。
「ああ、お前んとこのおばさんに聞いて……お前、もうバスケ辞めるのか?」
「え……別に辞めないけど。リハビリ中で……」
「でも、バイクなんかにうつつを抜かしてたら、まともに復帰できないだろ」
翔太は批難する様な目で私を見てくる。私はなんにも悪くないはずなのに、なんだか悪いことをしている気にさせられた。
「プロになるのがお前の夢だったじゃないか。諦めるのかよ、怪我くらいで」
声のトーンが上がってきたので、図書委員から咎める様な目で見られている。
「……そんなの、翔太に関係ないじゃん」
私は逃げるように図書室の戸を開けた。
「真箏!」
追って来られたらめんどくさいので、すぐそばのトイレに駆け込む。個室に入って、私はため息をついた。諦めるな、か。
諦めたくないと頑張った結果が、この怪我なのに。
諦めるな、なんて簡単に言ってくれたな。私はなんだかとてもしんどくなって、鳴華ちゃんに会いたくなった。
──
「お疲れ様、鳴華ちゃん! で、お誕生日おめでとう!」
「ありがとうございます。お姉様も、バイトお疲れ様でした」
7月になって自動車学校へ入校が終わり、いつものビーチから少し歩いた堤防で、二人でジュースで乾杯した。
私は結局8万円くらいしか貯められなかったけど、残りのお金は姉の美里が出してくれた。
鳴華ちゃんは大好きだというハンバーガーを買って海を眺めたい、と提案してくれたので、私は一も二もなく了承した。
天気は快晴で、とても気持ちがいい。夏になって空も高く、青くなっている気がする。少し暑いので、釣りをしている人もほとんどいなかった。
「ついに入校しちゃったね。あたし、ドキドキしちゃったよ」
「そうですね。私も緊張しました」
鳴華ちゃんは長くて細い指でハンバーガーを掴んで、大きくかぶりついている。美人なのに、こういう時にすましたり上品ぶったりしない所が、私は大好きだった。
「あはは、鳴華ちゃん、ケチャップついてる」
顔を赤くした彼女の口元を、紙ナプキンで拭いてあげた。鳴華ちゃんは普段は私よりもずっと大人なのに、時々こうして子供っぽいところを見せてくれると嬉しくなってしまう。
「あ、ありがとうございます。お恥ずかしい」
「ハンバーガー、好きなんだね」
「ええ。とっても」
幸せそうに両手でハンバーガーにかぶりついている鳴華ちゃんを見ていると、この世の全てが許せる気がした。
そう、この間の、翔太のことだって。
「鳴華ちゃん」
「はい?」
鳴華ちゃんはポテトをかじりながら、こちらを向いた。
「鳴華ちゃんさ、ポケットバイクでレースに出たりしてたって言ってたよね。中型バイクの免許取ろうと思ったのも、将来はプロレーサーになりたいとかだったりするの?」
「いえ、全く」
キッパリと言われたのが、少し意外だった。
「あ、そうなんだ? プロ目指してる……とかじゃないんだね」
「はい。実は、レースで競うのはあまり好きではなくて……それに、生活をかけてバイクに乗るのは大変だと思いますし」
「そっかー。そうなんだね……完全に趣味のためにバイクの免許、取りたいんだ」
「そうですね、バイクは大好きですので。バイクに乗るのを、生活の一部にしたかったんです」
生活の一部にしたい。鳴華ちゃんはバイクが本当に好きなんだな、と思った。
「そっか……」
俯いたせいで、ポテトを一つ落としてしまった。鳴華ちゃんは小首を傾げている。
「お姉様、どうかされましたか?」
「え……えーと……うん。ちょっと、色々あって。……相談しちゃおっかな」
何から話せばいいかとあれこれ考えている間も、鳴華ちゃんは急かすでもなく、私が話し始めるまで黙って見守ってくれている。
「鳴華ちゃんはさ、夢ってある?」
「はい。あります」
即答してくれたのが、少し頼もしかった。
「そっか。もし、もしもだよ? その夢が叶わないかもってなったら、どうする?」
「お姉様が今、そうなっているということですか?」
「うん……」
鳴華ちゃんはハンバーガーを手に持ったまま、じっと見つめてくる。その真っすぐな瞳を受け止めることができなくて、私は俯いて堤防のコンクリートを見つめていた。
「お姉様。私の夢は、将来海近くの家に住んで、その海のビーチでハンバーガー屋さんをやることです」
鳴華ちゃんは真剣な瞳で、真っすぐに海の遠くを見つめている。
「朝の六時くらいからハンバーガー屋さんを開けて、サーフィンをやっている人や、ジョギングをしている人の朝ごはんにハンバーガーを焼いて、お昼の二時くらいまでお仕事をして、その後はバイクに乗ったり、海岸を散歩したり泳いだりして……夕方はビーチに座って、夕陽を眺めて一日の終わりを感じて過ごすんです」
「わあ……なんか、素敵な夢だね」
「うふふ、ありがとうございます。遠くて、遅くなってもいい夢ですけど。お姉様の夢は、なんですか?」
「えーと……プロの、バスケットボール選手。オリンピックに出て……でも、その夢、通行止めになっちゃった。たはは……」
「お怪我のせいで、ですか?」
「うん」
私は息苦しくなって、腰掛けた脚をぶらぶらさせた。脚は大分よくなっている。それでも、今後無理をすれば……最悪、膝が曲がらなくなって、日常生活にも支障が出る、と言われた。
「ちなみに、お姉様。その後は、どうなさるんですか?」
「え? その……後?」
あまりにポカンとしていたせいか、食べかけのハンバーガーからピクルスが落ちてしまった。鳴華ちゃんは小首を傾げている。
「はい。プロになって、オリンピックに出て。その後です」
後。後のことは、正直言って考えて無かった。プロになりたい、オリンピックに出たい。それが第一で、その後のことは全く考えていなかった。
「そう言われてみれば、なにも考えてなかった、かな……後のこと」
「ふふ。お姉様、私、父から言われたことがあるんです。夢は一つだけじゃなくって、遠くて遅くなってもいい夢も持っておきなさいって」
「遠くて、遅くなってもいい夢……?」
はい、と鳴華ちゃんは頷いた。
「私も最初は意味が分かりませんでした。でも最近なんとなく、分かってきた気がするんです。父はよく言っていました。将来は大型のアメリカンバイクに乗って、休日は友達や母とツーリングに行く生活がしたいって。父は今、大型バイクも持っていませんし、休みの日もツーリングする生活はできていませんが……」
ひと呼吸置いてから、鳴華ちゃんは続ける。
「でも、そういうことなのだと思います。将来どんなところに住みたいとか、どういう生活がしたいとか、どんな車に乗りたいとか……遠くなっても、遅くなってもいいから、いつか達成できたらいい。そんな夢を持っておきなさい、と言いたかったのだと思います」
「そうしたら他の夢がダメになっても、遠くて遅くなってもいい夢があるから大丈夫……ってこと?」
「はい! さすがお姉様です」
パチパチ、と鳴華ちゃんは拍手してくれる。
「お姉様。さきほど夢への道が通行止めになってしまったとおっしゃってました。でも、遠くて遅くなってもいい夢があれば……近くにある夢を諦めて別の道に進むにしても、通行止めが解除されるまで待ってからまた進むにしても、いつかは遠くに定めた夢にたどり着けるんじゃないかなって……私はそう思います」
堤防に置いた私の手を、鳴華ちゃんがそっと重ねてくれた。鳴華ちゃんの手は、柔らかくて、細くてとても華奢だった。顔を上げると、鳴華ちゃんはとても優しく微笑んでくれている。
「私の、夢。実は、そばにお友達がいてくれたらもっと素敵だなと思っていたんです。もしよかったら、お姉様も、遠くて、遅くなってもいい夢を見ませんか?」
――今なら、毎朝私の特製ハンバーガー付きです! おどけるように言って、鳴華ちゃんはウインクしながら、舌をぺろっと出してみせた。
目の前が潤んできて、鼻がツンとする。心の中の、ずっと苦しくて冷たくなっていた部分が、お湯が注がれたようにあったかくなった。諦めたら? と言われるのでも、諦めるな! と言われるのでも無かったのが、本当に本当に嬉しかった。
「う……うん。いいね! すっごく、素敵! 海のそばに住んで、ハンバーガー屋さんをやって、午後はバイクで出かけて、夕陽を見つめて一日を終えて。すごくいい夢……私、鳴華ちゃんのお店、手伝うよ!」
頷きながら、細くて長い指で、鳴華ちゃんは私の涙をそっとぬぐってくれた。
「ありがと、鳴華ちゃん……す、すっごく、嬉しい……ありがとう……」
「そんな……お姉様のお役に立てたなら、私もとても嬉しいです」
頬を撫でられて、胸がぎゅっと痛くなる。心臓がドキドキして、息が苦しくなってきた。
(あれ、ど、どうしたんだろ)
目を細めて笑っている鳴華ちゃんの顔が見られない。ドキドキする胸がうるさくて、私は何度も深呼吸をする。鳴華ちゃんは堤防からぴょんと降り、奥のビーチを指さした。
「お姉様。すこし、海に入って遊びませんか?」
「へ?」
すでに遊泳OKの季節にはなっているが、鳴華ちゃんが指さしたビーチは、少し奥まっているせいか誰もいない。
「で、でも、水着とか……」
「制服のままでいいと思います! 行きませんか?」
捧げるように手を上げて、鳴華ちゃんは私を待っている。
(あ……そうか)
私が泣いてるから、鳴華ちゃんは海に入ろうって言ってくれてるんだ。
「うん! 行こう」
鳴華ちゃんの手を取って、海岸まで二人で走りだす。靴と靴下を放り投げて、一気に海に飛び込んだ。
「わあー--! 冷たい!」
「本当、冷たーい!」
私が頭から飛び込むと、鳴華ちゃんもついてきてくれた。きゃっきゃっと笑いながら、全身びしょ濡れになる。二人で手を握りあって、波に揺られながら制服のまま泳いだ。
「お姉様! こっちこっち!」
「うん!」
二人で、子供みたいにはしゃぎまわる。制服は思っているよりも重くて、波に流されないようにと、自然と鳴華ちゃんとしがみつき合うようになってしまう。波に揺られたて浅瀬に戻されたり、二人で波打ち際を走ったり、両手をつなぎあって、くるくる回ったり……。
私、きっと、死ぬ時今日この瞬間のことを思い出すんだろうな。そんなことを考えてしまうくらい、とても幸せな時間だった。
「あー! お腹、いったい!」
「そ、そうですね。食べてすぐなのに、はしゃぎすぎました」
散々遊んで泳いでから、海水を滴らせ、息を切らしながら、二人でビーチに腰掛けた。
「鳴華ちゃん……」
もう一度、ありがとうと言おうと思って、隣の彼女の方を向いた。こちらを向いた鳴華ちゃんは、濡れた前髪を上げておでこを出していて……背筋が寒くなるほど、美しかった。
彼女の真っ白な肌が、燃えるような夕陽の色に溶けていて、息を飲むほど……綺麗だった。
「? どうかされましたか、お姉様」
「う、ううん! あはは、濡れちゃったね。鳴華ちゃん、本当にありがとう。あたし、すっごい元気でちゃった」
「うふふ、良かった。私も、すごく楽しかったです。憧れだったんです、制服で海で遊ぶの」
「へへ、確かに。めっちゃ、青春! って感じだったね」
「はい! また夢が叶いました」
二人でまたしばらく笑いあってから、海岸からあがる。
「お家まで送るね。こんなズブ濡れじゃ、なにごとかと思われちゃうし」
「ありがとうございます」
こんなに嬉しい気持ちになったのは、怪我をしてから初めてくらいだった。
━━
(鳴華ちゃん、すごく、綺麗だったな)
鳴華ちゃんを家まで送った後も、頭は彼女のことでいっぱいだった。はにかんだ笑顔、ほっそりした指、優しくて温かかったあの夢……。胸の奥が発酵したみたいに甘くて、すごく心地良い。こんな経験は初めてで、私は戸惑っている自分に気付いた。ずっと避けてきたし、理解だってできなかった気持ちを見つけたのかもしれない。だって、今まで、皆みたいに男の子と付き合いたいとか、好き、なんて気持ちになったことは無かったから。
「鳴華ちゃん……」
つぶやいたその口が、焼けたように感じた。こんな、こんな気持ちなんだ。私は初めての感情に、戸惑ってばかりだった。
━━
無事入校したものの、私のバイク教習は中々上達しなかった。
「わっ、あっ、あだー!」
「ほら、春野さん! まーたやった!」
カーブでちゃんと曲がりきれず五度目の転倒をして、私は年嵩の教官から叱られた。
「起こすの手伝うから、桔梗宮さんは一人で回ってて!」
「はい!」
鳴華ちゃんは大声で返事をし、軽やかにコースを回っている。当たり前だけど、彼女は一度も転倒したことが無い。
ジャージで参加している私と違って、鳴華ちゃんはプロテクター付きのレーシングスーツを着ていた。控えめなデザインなのに、背の高い彼女にとても似合っていて、とても格好よかった。
「よいしょっ! むぐ……!」
「はい、脚の力であげる! 腰からあげない! 痛めるよ!」
「はひぃ……」
教習で使う中型バイクは400ccなのだけど、200キロはあるというとんでもない重さで、とても一人では起こせない。が、それでは困るからと、なるべく一人で起こせるように練習させられていた。
「さっと起こさないと路上で大事故だよ! ほら!」
「は、はぃい……!」
なんとかバイクを立たせると「起こしたらすぐ跨る! また倒れるよ!」とまた教官から指摘が飛んでくる。ぜえぜえ言いながら、私は「はひ」と返事するのがやっとだった。
「つ、疲れたぁ……」
「お疲れ様です、お姉様」
鳴華ちゃんがスポーツドリンクを渡してくれる。私は暑さと冷や汗で、毎回毎回汗だくになっていた。バイクに乗る時は、夏でも必ず長袖を着てくるように言われている。
「ありがと……鳴華ちゃんやっぱりすごいなあ。教習者の中でもう1番上手いんじゃない?」
「いえ、そんな……私もニーグリップに慣れなくて、何度も転びそうになってますよ」
謙遜しているが、鳴華ちゃんは初回の講習からスラロームもクランクも完璧で、「まさかとは思うけど暴走族やってたとかじゃないよね?」と教官から冗談めかして言われるほどだった。
「転ばないようにするにはどうしたらいいかなぁ?」
「ええと……お姉様、やっぱり手元やメーターを見てしまっているようですので、遠くを見るように、これから進む方向を遠く見るように意識した方が、車体が安定すると思います」
「ああ、それね〜。今日も指摘されたんだよね……」
私は無意識のうちに怖がってしまっているせいか、目線のすぐ近くやメーターばかり見てしまっているらしい。頭が下がっていると体勢が安定しないため、ハンドルがふらつくのだ。
「近くばかり見てちゃダメ。これから進む先を見ないと、か」
なんだか今の自分のようだった。
「なんだか、今の私達みたいですね」
鳴華ちゃんが少しはにかみながら言う。同じ感想を持ったのが嬉しくて、私は思わず鳴華ちゃんの頭を撫でてしまった。
「えへ、私も同じこと思った」
「そうですか? 嬉しい」
頬に手を当てて赤くなっている鳴華ちゃんは、多分世界一可愛い。私は胸がキリキリ痛んでばかりだった。
「この後学科だよね? 終わったらご飯食べて帰ろうね」
「はい!」
鳴華ちゃんは嬉しそうにしている。今日は二人でラーメンを食べて帰ろうと約束していた。
バイクの講習は辛いことも多いけど、鳴華ちゃんと必ず同じコマに教習を入れたおかげで、なんとか乗り切れそうだった。ほとんど毎日毎日、午前中には2コマ実技を入れて、学科も必ず入れて取り逃がさないようにする。お昼も一緒に食べて、夕方にはバイクの話をしながら帰る。こんなに充実した夏休みは初めてで、私はこの夏休みがずっと続けばいいと、本気で思っていた。
━━
永遠に続いて欲しかった夏休みも、車校も終わりがくる。八月の半ばには、二人とも卒業検定に進んでいた。
「うわぁー! 鳴華ちゃん、次はもう卒業検定だよ!」
「そうですね……すごく、緊張します」
鳴華ちゃんも緊張気味に頷いている。
卒業検定は、明日の朝一で行われる。これに受からないと、免許は貰えない。ここに来るまで、私は一回補講を受けていた。
「いやいや、鳴華ちゃんは余裕でしょ! あたし、ほんとマジ無理かも……スラロームとか、今でもたまにコーンに当たっちゃうし」
「いえ、そんな……私も、試験は初めてですから。緊張します」
鳴華ちゃんは、課題の項目……スラロームやクランクなどは本当に完璧で、余裕で一発で受かるだろうと教官からも言われていた。私はバスケで養ったバランス感覚のせいか一本橋だけは得意で、その他は全部苦手だった。
バスから降りて家に戻る道中、二人でやいのやいのとバイクの話をしていた時に、背後から声をかけられた。
「真箏!」
「うわっ、翔太……あ、鳴華ちゃん。こいつ、あたしの幼馴染の新郷翔太。男子バスケ部。翔太、この子、あたしの妹分の桔梗宮鳴華ちゃん」
「は、はじめまして……」
鳴華ちゃん戸惑いがちに頭を下げると、翔太も戸惑った様子で頭を下げた。
「あ、うん、はじめまして、桔梗宮さん……。マコト、ちょうどよかった。今から少し時間いいか?」
私は、はぁ? と答えてしまった。
「えー、今から?」
「そう、だな。頼むよ」
私は正直、断りたかった。今から鳴華ちゃんのお家でお菓子を食べながら、バイクの卒業検定コースの確認をする予定だったのに。
「お姉様、私は大丈夫です。今日はお疲れ様でした」
鳴華ちゃんはそう言って、さっさと自分の家に向かって歩き出してしまった。
「あっ……ごめんね、鳴華ちゃん! また電話するから」
初めて見る、彼女のそっけない様子に不安を覚えつつも、そう言うしか無かった。翔太から「あの公園まで、いいか」と促され、私はしぶしぶ従う。ため息を噛み殺して、翔太の後について、子供の頃翔太とよく遊んだ公園に向かった。
「……で、なに? 言っとくけど、またお説教だったら、聞きたくないから」
「いや、この間は悪かったよ。マコト、俺……その……す、好き、なんだ」
「え? なに?」
私が聞き返すと、翔太は俯いていた顔を上げて、キッパリと言った。
「俺、お前のことが好きだったんだよ! 子供の頃から、ずっと……俺の、初恋なんだ」
しん、と公園が静寂に包まれた。
「はい?」
「い、いや、はい? じゃなくって……俺……夢に向かって一生懸命頑張ってたお前が好きだったんだよ。だから、この間はつい熱くなって……俺、お前が転校してきて、運命だと思ったんだ」
「運命……?」
私はため息を噛み殺した。運命?
「ああ。中学でお前が全寮制の学校に行って、もう会えないと思ってたのに。また会えて、本当に嬉しかったんだ」
翔太は本気の目をしている。私は眉根を寄せて後ずさるしかできなかった。
「真箏、返事はまた今度でいい、考えておいてくれ。お前の脚が治ったら、俺、バスケの練習でもなんでも付き合う。お前の夢を手伝うために、なんでもするから」
言うだけ言って、翔太は家に戻っていってしまった。ポツンと取り残された私は、ブランコに座って、ぼんやり鳴華ちゃんと話したあの夢のことを考えていた。
そうだ、将来、バスケットコートを作ろう。そして、近くの子供達にバスケを教えてあげたり、何も考えずに、気が済むまでシュートしたりしたい。
明日、検定の時鳴華ちゃんにも話してみよう。きっと、素敵ですって言ってくれる。鳴華ちゃんに「今日は予定が狂ってごめんね」と連絡をして、私は家に戻った。
━━
卒業検定の時のバイクの教習棟は、いつもと全く違っていて、まるで別の場所のようだった。いつもよりずっと人が多いし、皆緊張した面持ちをしている。鳴華ちゃんも朝会った時から顔色が悪くて、私は本気で心配になった。
「大丈夫? 鳴華ちゃん」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
鳴華ちゃんはどことなく伏し目がちで、私はおろおろしてしまった。試験の順番は、私が2番目で、鳴華ちゃんは1番最後、9番になってしまった。
卒業検定が始まった。1番に入ったおじさんがカーブでいきなりコケてしまい、思ったよりも早く私の番になる。昨日の翔太のことや、前のおじさんがコケたことなどを頭の隅に追いやって、私は深呼吸した。こんなに緊張するのも久しぶりだ。
手をあげて、ミラーを確認してからバイクに跨る。アクセルをふかせて始動。エンストしなかった。後はいつも通り、練習通りやるだけだった。
検定は、それなりに上手くいった。急制動も速度を出せたし、坂道発進も落ちたりしなかったし、スラロームもなんとかぶつからずに行けた。落ちてはいないはず。安全運転できた。やれた。私はほっとした。
「次! 9番!」
鳴華ちゃんの番になる。頑張って、と私は手をぐっと握って見せたが、鳴華ちゃんは気づかないようだった。
鳴華ちゃんはさっと手を上げて、慣れた手つきでミラーを触り、エンジンをかける。鳴華ちゃんは大丈夫だろう。彼女は一度もコケたことも接触したこともない。教官から叱られたり指摘されたことすらも無かった。
スラロームを終えて、S字カーブに入ろうとした、その時だった。
ガツン、と大きな音がして、鳴華ちゃんが道路に投げ出された。
「えっ!?」
検定を受けていた全員が息を呑んだ。鳴華ちゃんが、転倒した。
「め、鳴華ちゃん!」
真っ白の頭のまま、コースに駆けだそうとする私の肩を、同じく検定を受けていたおじさんが掴んだ。
「危ない、検定中の人が通るよ! ほら、大丈夫、立ちあがってる」
鳴華ちゃんはよろめきながらも立ち上がり、倒れたバイクを起こそうとしていた。慌てた様子で、教官が手助けに行っている。
転倒は、一発不合格。私は目の前がぐるぐるしてきた。鳴華ちゃん、どうしたんだろう。緊張したのかな。怪我は無さそうだったが、鳴華ちゃんはうなだれた様子で、ヘルメットを持って戻ってきた。
「鳴華ちゃん! 大丈夫!? 怪我は!?」
「だ、大丈夫です……すみませんお姉様……」
「あたしに謝ることなんてないよ! よ、よかった、怪我が無くって……緊張しちゃった?」
「え……ええ。そう、ですね」
鳴華ちゃんは見たことがないくらい落ち込んでいる。可哀想で可哀想で、私は胸がしくしく痛んだ。
「これがあるから、バイクは怖いんだよね。桔梗宮さん、補講を一限受けてから、もう一度ね」
教官の人が、優しくなくもない声音で言った。
「……はい」
鳴華ちゃんは今にも涙がこぼれそうになって、震えている。私はどうしようもなくて、彼女の背中を撫でてあげるしかできなかった。
結果的に、私の方が先に合格してしまった。
鳴華ちゃんが受付で補講の予約を入れている間に、私だけ別室で合格書類を受け取り、今後の手続きについて教えられる。戻った時には、鳴華ちゃんはロビーの片隅に腰掛けて、窓から外を眺めていた。
「鳴華ちゃん」
鳴華ちゃんは心ここにあらず、と言った様子でぼんやり頷いた。
「あ、お姉様……合格、おめでとうございます」
「うん、あ、ありがとう……補講、いつに決まった?」
「今日、11時から乗っていいとのことでしたので……それを受けてから、明後日の卒検をまた受けます」
「うん……今回は、たまたまだよ! 大丈夫大丈夫。ね?」
鳴華ちゃんは小さく頷いた。私は彼女の補講まで見学してから、一緒に帰ることにした。鳴華ちゃんは補講の時もやはり完璧で、教官の人も緊張のしすぎだったのかな、技術は問題ない、と繰り返している。
補講を終え、鳴華ちゃんが汗をふいていた時。教官から一緒に呼ばれた。
「春野さん、合格おめでとう。桔梗宮さんは残念だったけど、今日はそういう運命だったと思って」
「はい……」
鳴華ちゃんは俯いている。また運命か、と私はちょっと嫌な気持ちがした。姉の顔と翔太の顔が目に浮かぶ。
「覚えてるね? 俺の、バイクで死んだ友達の話」
教官は真剣な目をして、鳴華ちゃんを見上げている。鳴華ちゃんははい、と頷いた。シミュレーターに乗った時の話だな、と私も覚えていた。
教官の若い時からの友人が、事故に遭って帰らぬ人になったらしい。いつもツーリングで一緒だった教官は、お葬式の場で、友人の奥様から強く詰られた、という話だった。
━━あんた達はバイクで楽しく遊んでたかもしれないけど、残された方はたまんないわ。子供も私もこれからどうすればいいの。
と。
「俺はねえ、俯いて謝るしかできなかったよ。二人も仲良しみたいだから。片方だけが事故る怖さはわかったでしょ」
教官は虚無を見つめながら言う。私も鳴華ちゃんも、はあ、と曖昧に頷くしかできない。
「バイク事故はねえ、俺は運命だと思ってる。どんなに普通に走ってても、侵入してくる車に横から撥ねられたり、暴走して車線を超えてくる対向車を避けざるを得なかったり。それでも、10秒……いや5秒早いか遅いかしてれば、避けられたりするんだから。きっちり事故っちまうのは、これはもう運命よ。桔梗宮さんも。今日事故ったのは運命ね」
教官は私と鳴華ちゃんを交互に見て言った。
「でもねえ。バイク乗りだったら、運命ってやつを捻じ曲げてやらないと。あそこから車が出て来るかも、ここで上手く避ければ、あるいは速度を緩めてとっさに転べば、大怪我や死は避けられる。そんな風にね、とっさの判断と、精一杯の技術を使ってさ。運命を捻じ曲げるのよ。桔梗宮さん、今日朝から考え事してたでしょ?」
図星だったらしく、鳴華ちゃんは口を真一文字に結んで、小さく頷いた。
「だから、桔梗宮さんは今日運命を曲げられなかった。春野さんは、スラロームで一度コケそうになったけど、咄嗟に上体を起こして回避してたね。うまく運命を曲げてやった。俺たちバイク乗りは、運命を捻じ曲げて乗る。だから、桔梗宮さんも、次の試験ではいつもの実力で、運命なんか捻じ曲げられるってとこを俺たちに見せてね。春野さんも、今日から俺たちの仲間のバイク乗りだ。事故のないように気をつけて」
なんだか感動する話のような、よく分からないような話だったが、私も鳴華ちゃんもはい、と返事をした。
━━
鳴華ちゃんは帰りのバスでもうなだれていて、私が話しかけても上の空だった。
「家まで送るね。鳴華ちゃん。明後日の試験の日も、あたし一緒に行くから」
「いえ……大丈夫です」
鳴華ちゃんは唇を噛みしめていた。なんと慰めていいのか分からなくて、私はなるべく明るく、励まし続ける。バスを降りた後、鳴華ちゃんはぴたりと足をとめて、顔をあげた。
「お姉様。あの……あの幼馴染の方と、お付き合いされるのですか?」
「へ!?」
予想外のことを聞かれ、私は素っ頓狂な声が出てしまった。
「ごめんなさい。昨日、どうしても気になってしまって。お二人について、公園まで行ってしまいました」
深々と頭を下げて、鳴華ちゃんは苦しそうに俯いている。
「あ、そうなんだ……ごめんね、なんか心配かけちゃって」
予想外の行動すぎて、私はびっくりしてしまった。鳴華ちゃんが、あの公園までついてきていた?
「申し訳ございません。お二人の話を聞いてしまいました」
「ううん。そんな……え、それで、あたしが翔太と付き合うのか、って?」
「……はい」
鳴華ちゃんはずっと俯いていて、胸に手を当てている。
「大丈夫だよ、鳴華ちゃん。あいつとは付き合わない。今は、鳴華ちゃんと一緒にいたいし」
「そんな……わ、私、お姉様の邪魔になりたくないです」
顔を上げた鳴華ちゃんの瞳が、涙で潤んでいる。私は胸が掻き乱された。あたしが自分の気持ちを押し殺して、鳴華ちゃんに気を使っているなんて、鳴華ちゃんには耐えられないんだ。気持ちはとても分かる。あたしと遊ばないといけないせいで、鳴華ちゃんが好きな人といるのを遠慮してたりしたら、あたしはすごく気にする。
ごしごし袖で目をこすって、鳴華ちゃんは明るく笑顔を作った。
「お姉様。明後日、私、頑張りますね。合格したら、母のところにバイクを選びに行きましょう。その後は……お姉様の時間がある時にだけ、私と遊んでくだされば、幸せです」
鳴華ちゃんはそう言うと、走って行ってしまった。また一人取り残された私は、遠くなる彼女の背中をぼうっと見つめるしかできなかった。トボトボ歩きながら、なんでこんなことになったんだろ、とぐるぐる考える。
家に戻っても思い悩んでいたせいか、晩御飯の後、美里が急に声をかけてきた。
「おい、思春期」
「は?」
私は顔を上げる。頭の中が鳴華ちゃんのことばかりだったので、ご飯もほとんど適当に食べていて、味噌汁にご飯を入れて食べていた。
「ちょっと、お酒無くなったから。スーパーまで散歩付き合ってよ」
「ええー……? 一人で行ってよ〜」
「はあ? この暗い中うら若いお姉様一人で行かす気?」
お姉様……お姉様、か。私は半ば無理やり、美里の散歩に付き合わされることになった。
「ふぁ〜あ。いい天気。真箏、ほら、星がすごいよ」
「そだね」
私は適当に返事しておいた。こんなにぐるぐる悩んでるのに、空は綺麗に澄んでいて、波の音も聞こえてくる。ちょっと散歩しよう、という美里に付き合って海に向かった。堤防に腰掛けて、美里はビールを開けて一気にぐい、と飲んだ。
「お姉ちゃん、落ちたら危ないよ」
「わかってるわかってる。はー、美味っ」
美里はうん、と背伸びしている。早く帰りたいな、と思っていると、美里がこちらを振り向いた。
「翔太くんに付き合ってって言われたんでしょ」
「え、なんで……お母さんから聞いたの?」
「うん。あそこのおばさんが、うちの子、私ちゃんのことが好きみたいでー、とか言ってたし、そもそも今日、公園通りがかったから」
私はため息をついた。
「うん。別に、あたしは付き合う気ないけど」
どうして? と聞かれると思っていたが、美里はゆっくり頷いた。
「そうだろうね、あんた、別に好きな子がいるんでしょ。……このビーチで会ってた、美人な子とか」
美里の言葉が上手く頭に入って来なくて、私は、「は?」と言ってしまった。
「バイト帰りに時々見かけてたんだ。あんたがすごい可愛い女の子とここで仲良くしてたの」
「え……あの子は、ただの、い、妹分、で……」
嘘をついた、と思ったが、美里からも嘘ばっかり、と言われた。
「あんた、あの子といる時すごい顔してたよ。好きで好きで、たまらないって。バイクも、その子の影響なんでしょ? 同じ自動車学校の鞄持ってたし」
「そ……そんなはず、ないじゃん。だって、女の子同士だよ」
「そんなこと気にする? あたしも中3の時、友達の子を好きだったことあったよ」
「え……そうなの?」
意外だった。美里は、ずっと男の子にモテていたから。
「うん。愛嬌があって、ノリが良くて、いい子でね。毎日一緒に遊んでたら、いつのまにか好きになってた。高校入っても時々連絡してたけど、あたしが前の旦那と付き合いだしたら、彼女の方も急に男と付き合いだして……結局それっきり」
新しいビールを開けて、美里はもう一本すぐに飲み干してしまう。ぷはぁ、と大きな声を上げて、美里は大きなため息を吐いた。
「あたし、彼女が好きだったのに結局見栄張って、他の女子に羨ましがられるって思って、前の旦那と付き合って結婚して、別れちゃった」
――後悔するよ。美里の声は小さかったけど、私には確かに突き刺さった。
「後悔するよ、真箏、女の子同士だからとかって気持ちをごまかしてたら、いつか絶対後悔する日が来る。あたしは、今でも後悔してる。あの子にせめて伝えてたら、あの日、あの時のあたしは、本気であの子を好きだったって、未来で胸を張れるって」
堤防から降りて、美里は大きく伸びをした。
「真箏、悩んでる時間ももったいねーぞ。一日だってもったいない。友達のままで別にいいとか思ってたら、すぐ別の男に取られるよ。それでもいいの? それともあたしみたいに妥協して別の人と付き合って、彼女に男ができても仕方ないって諦める?」
妥協と諦め。この世界は、妥協と諦めでできている。私はまたそれを突きつけられていた。この世界が私の大切な物を壊して、冷たく突き放してきたと思っていた。前はバスケで、鳴華ちゃんが今、そこにいる。
「あ、あたしは……」
「あーあ。彼女、可哀想だなあ。あんたが離したせいで、男に迫られて、付き合って。流されるまま初体験になっちゃうだろうね。あの背の高い身体が、男に押し倒されて……」
「やめてよ!」
私は自分でも、びっくりするぐらい大きな声が出てしまった。嫌。嫌。鳴華ちゃんが他の人と付き合うなんて。絶対に嫌。
「ほーら、それが本音でしょ」
美里はにやにやしている。姉の策略にハマってしまったらしい……それでも、さっきの大声は、私の本心から出た言葉だった。
「あんたが女の子同士だからって躊躇ってたらそうなるのは時間の問題よ。分かってると思うけど」
私は頷いた。お姉ちゃんも、大好きな人を他の人に取られてしまった。だから、あたしに同じ道を踏ませたくないんだ。帰ろっか、と促されて、私は姉について帰路についた。
「お姉ちゃん。……ありがと。あたし、なんか勇気が出た」
「あっそ。……あーあ、あたしもバイクの免許取ろうかなぁ。めんどくさい時に、バイクで走ってどこかにいけたら最高だよね」
「うん。……お姉ちゃん。お酒やめなよ。それでさ、バイクの免許取ろ。で、あたしと一緒にツーリング行こうよ」
「あー、そうすっかなぁ。教習所で金持ちの男と知り合えるかもだし」
「お姉ちゃんいっつも動機が不純だよね」
「いつもってなんだよ」
美里から軽く小突かれながら、二人で家に戻る。
この世界が諦めと妥協でできていたとしても、あたしは鳴華ちゃんを別の人に渡したくない。ずっと一緒にいたい。彼女に恋人ができるのも、私が妥協して恋人ができて、彼女を失望させるのも嫌だ。
私はもうバイク乗りなんだ。行こうと思えばどこにだって行ける。翔太が運命だって言ってても、それが運命だとしても、自分の手で捻じ曲げてみせる。
決意を固めた。
明日にも翔太に返事をしようと思って、私は連絡を取った。明後日は、鳴華ちゃんの卒業検定がある。一人で大丈夫と言われたけど、彼女に伝えないといけないことがある。本当にあなたのことが好きなんだって。
私は空を見上げた。たくさんの星が、私の瞳に飛び込んでくる。次は、鳴華ちゃんと一緒に見たい。そう思った。
━━
二日後。私は鳴華ちゃんと共に教習所にいた。今日も俯いている彼女を早く安心させたくて、私は真っ先に報告した。
「鳴華ちゃん。あいつにはちゃんとお断りしたから。翔太とは付き合わないよ」
「えっ……で、でも」
鳴華ちゃんは、少し腫れた目を見開いて驚いていた。
「大丈夫。それでね、卒業検定が終わったら、一緒にお祝いしよ。話があるから。いい?」
「でも、お姉様……」
「あたし、鳴華ちゃんと一緒にいたい。本当だよ。ね?」
鳴華ちゃんは何度も躊躇っていたけれど、私がじっと真剣に見つめるとゆっくり頷いてくれた。
「お姉様……ごめんなさい」
「謝らないで。ね、鳴華ちゃん。合格したら、鳴華ちゃんの大好きなハンバーガー買って、お祝いしよう」
鳴華ちゃんはまだ申し訳なさそうに俯いていたが、顔色は目に見えて良くなっていた。心配事が無くなったからか、鳴華ちゃんはきっちり卒業検定をほぼパーフェクトの合格で終えた。
「おめでとう! 鳴華ちゃん! よかったねえ、よ、よかった……」
嬉しくて嬉しくて、感情が高ぶってしまって私は思い切り泣いてしまった。
「お姉様……ありがとうございます」
鳴華ちゃんも目を赤くしていたが、あんまり私が泣くせいか、周りの人がくすくす笑うので、鳴華ちゃんは恥ずかしそうにしている。
鳴華ちゃんの手続きが終わるまで待って、二人でまたハンバーガーを買って、いつもの堤防に向かった。
「鳴華ちゃん、おめでとう! お疲れ様!」
「お姉様も、おめでとうございます。ごめんなさい、この間、素直にお祝いできなくって」
また俯きそうになる鳴華ちゃんの顔を掴んで、無理に上を向かせた。
「大丈夫大丈夫! 俯いてると、ちゅーしちゃうぞ」
「えっ、えっ、あ、あの」
真っ赤になっておろおろしている鳴華ちゃんは、本当に心まで溶けそうなほど可愛い。私は胸がいっぱいになった。
「お姉様。幼馴染の方からのお付き合いの誘い、本当に断られたんですか?」
鳴華ちゃんは、ハンバーガーを握ったまま、心配そうな顔をしている。
「うん」
私は昨日のことを思い出していた。
━━
──あたし、好きな人がいるから。あんたとは付き合えない。ごめんね。
ありきたりな断り文句だったけど、正直にそう告げた。
「夢のことだって、心配しないでいいよ。あたし、プロを目指すか諦めるのかは……まあまだ決めてないけど。新しい夢を見ることにしたから」
「お前……ほんとに、変わったな」
翔太は咎めるつもりで言ったのだろうが、私ははっきりYesと答えることができた。
「うん。あたし、変わった。でも、それでいいの。あたし、最後はその夢に辿り着ければいいんだって、決めたから」
「よく分かんねえけど……ええ〜。マジか。マジで、俺フラれたの?」
「翔太。あたし、もうバイク乗り《ライダー》なんだ。バイク乗り《ライダー》は、運命なんて捻じ曲げてやらないといけないの。……ごめんね。ずっと好きでいてくれたことは……サンキュー。ありがとう」
困惑している翔太を置いて、それじゃあね、とだけ告げて、私は晴れやかな気持ちで公園を後にした。
━━
「すっきりしたよ。ごめんね、やきもきさせて。あの日すぐ断ればよかったんだけど」
「いいえ……私が、勝手についていってしまって、落ち込んでいただけですので」
鳴華ちゃんはまだ、申し訳なさそうに俯いている。私は頭を撫でてあげた。目を潤ませている鳴華ちゃんが愛おしくて、抱きしめたくなる。
今現在でもこんなに鳴華ちゃんと仲良しなのに、今から言うことを彼女が聞いたら、気まずくなって一緒にいられなくなるかもしれない。
でも、お姉ちゃんに焚きつけられて叫んだあの時の気持ちは、嘘でもなんでもない。それに、鳴華ちゃんはあたしの気持ちを知っても、距離を開けたり気持ち悪いなんて言って否定するような子じゃない。断っても、必ず友達でいてくれる。それだけは、信じていた。
「鳴華、ちゃん」
「はい?」
少し元気になったらしい鳴華ちゃんは、ハンバーガーを一気に食べている。今日は、口にケチャップはつけていなかった。
「えっと……い、いちおう、聞くね。今、お付き合いしてる人、いる?」
「えっ! い、いません。……お姉様は?」
「あはは、あたしもいないよ。そりゃそうだよね、あたしにこんなに付き合って遊んでくれてるんだから」
「は、はい」
鳴華ちゃんは胸を抑えている。肌が白いせいか、紅潮するとびっくりするくらい真っ赤になって、とても可憐だった。私は深呼吸して、高鳴っていく心臓を抑えた。今日まで生きてきて、人に告白なんてしたことない。しかも、女の子に。
「ね、め、鳴華ちゃん」
「は、はい」
雰囲気を察したのか、鳴華ちゃんもハンバーガーを食べ終えてこちらに向き直ってくれた。
「あの……あ、あたし、あたしね」
「はい……」
少し不安そうに、鳴華ちゃんは眉根を寄せている。私は息を吸い込んで、一気に言ってしまった。
「す……すき、です」
「えっ?」
「あ、あのね! 好き! あたし、鳴華ちゃんのことが、大好きなの!」
鳴華ちゃんは、目をまん丸にして、何度も瞬きをしている。
「え……? あ、あの、すき、って……」
「うん。好き。大好き。女同士だけど、つ、付き合って、ください」
気持ち悪いって言われるかな。断られるかな。一気に不安が押し寄せてきて、私は俯いた。スン、と鼻をすする音が聞こえて、私は顔をあげる。鳴華ちゃんが、泣いている。私は慌てて、彼女の頬を伝う涙をぬぐった。
「ご、ごめん! ごめんね、こんなこと言って。ごめん、忘れて……」
「い、いえ、ち、ちがいます」
ぎゅっと強く手を握られて、私はすごくびっくりした。
「お姉様。すごく、すごく、嬉しいです。私、私」
涙をぬぐって、鳴華ちゃんが私を抱き寄せる。ぎゅっと抱きしめられて、びっくりしてしまった。
「め、鳴華ちゃん」
「嬉しい、嬉しいです。私も……お姉様のことが、好きです」
胸いっぱいに温かい気持ちが溢れてきて、私はため息が漏れた。よかった、嬉しい、という気持ちと、夢みたい、本当かな、と信じられない気持ちが半々だった。
「お姉様、ずっと、好きでした。でも、女性同士だから、黙っていようって……お姉様から言ってくださって、すごく、嬉しいです」
「えっ、そ、そうだったの?」
「はい」
ぎゅう、と強く抱きしめられて、私は息が苦しくなった。
「お姉様が、あの方に連れられて行ってしまった時……私、胸が張り裂けそうでした」
「ご、ごめんね、ほんと」
「私の方こそ、ごめんなさい。気になって耐えられなくて、ついて行ってしまって……盗み聞きしました、と伝えた時、絶対幻滅されたと思いました」
「そんな、びっくりはしたけど、幻滅なんてしないよ」
呼吸をするたび、鳴華ちゃんのとてもいい匂いが胸いっぱいに広がる。初めて会った時も思った。こんなにいい匂いのする子、初めて。鳴華ちゃんは私から離れて、すんと鼻をすすった。泣いたせいか、鼻が赤くなっていて、目も腫れぼったくなっていて、とても可愛い。頬を撫でて涙をぬぐってあげると、鳴華ちゃんはやっと笑ってくれた。
「鳴華ちゃん、大好き。あたし、バカだしなにも取柄もないけど。絶対、大事にする」
「お姉様……」
鳴華ちゃんが目を閉じて、そっと私に近づいた。私は目を開けたまま、彼女の近づいてくる唇に触れる。びっくりして、動けなかった。
生まれて初めての口づけは、柔らかくて、濡れていて、とても心地よかった。全身が痺れたように、唇から背中まで電撃が走って、胸を突き刺す。びくり、と身体が跳ねてしまうほど、気持ちがよかった。
「あ……め、鳴華ちゃん」
「大好き……お姉様。ずっと、こうしたかったんです」
またぎゅっと、お互い抱きしめ合う。華奢な彼女の身体を抱きしめながら、あたし、今死んでも絶対後悔しない。そう思った。
──
夏休みの最後の週、初めてのツーリングデートに出かけた。市営の体育館で、二人でバスケをする予定だった。鳴華ちゃんが「ぜひ一度、一緒にバスケがしたいです」というので、最初の目的地はそこに決まった。
免許取得後、私は整備士をしているという鳴華ちゃんのお母さんからバイクを譲ってもらっていた。
初心者にも扱いやすい250CCのバイク。鳴華ちゃんも250CCのとてもカッコいいバイクを選んでいた。公道に出るのは初めてなので、鳴華ちゃんに先導してもらって、目的地まで向かう。
初めての公道は緊張もしたけれど、教習所では出さなかった速度で走れて、私は興奮のため息が出た。
「鳴華ちゃん! す、すっごい風だね!」
「はい!」
インカム付きのヘルメットを二人で新調したので、おしゃべりしながらツーリングができる。
「たのしー! 鳴華ちゃん、こっち右?」
「はい、右です!」
海で遊んだ時のように、二人ではしゃぎながら、初めてのツーリングデートを楽しむ。
なんとか無事に体育館に着いた。鳴華ちゃんは運動神経もとてもよくて、久しぶりに軽めの1on1の対決をしたり、シュート勝負をしたりして遊んだ。
「はー! 遊んだ遊んだ。鳴華ちゃん、運動神経良いんだね! びっくりしちゃった」
ロビー近くのベンチに座って、スポーツドリンクで水分補給をする。二人とも汗だくだった。
「ありがとうございます。お姉様は、やっぱりすごく上手ですね……脚は、大丈夫ですか?」
鳴華ちゃんは私の膝をさすってくれる。二人とも汗だくになるまで遊んだせいか、彼女の匂いが広がっていて、私はため息が出るほど幸せな気持ちになった。
「うん、少し痛みはあったけど、大丈夫だよ! それより、楽しかったね」
「はい。とっても」
スポーツドリンクを飲んでいると、鳴華ちゃんが「お姉様」と呼んでくる。
「ん? どうした、の……」
隣を向いた瞬間、不意打ちでキスされる。私は、心臓が止まりそうになった。
「め、鳴華ちゃん、こんなとこで」
フフ、と笑って、鳴華ちゃんはぺろ、と舌を出した。
「汗をかいているお姉様、すごくセクシーで、愛おしくなって。ごめんなさい」
「せせせ、セクシーなんてそんな、恥ずかしいなあ、もう」
鳴華ちゃんは目を細めてクスクス笑っている。私はドキドキしっぱなしだった。それからもフリスビーをしたり、散歩したりして、軽い運動をして過ごす。精いっぱい遊んでから、またバイクに乗っていつも一緒に過ごしたビーチに戻った。
ビーチに腰掛けて、二人で沈んでいく夕陽を眺める。人影もまばらになっていて、とても居心地がいい。海風があるせいか、それほど暑くもなかった。
「お姉様、いつから私のことを好きになっていただけたんですか?」
鳴華ちゃんが目をキラキラさせながら聞いて来た。
「え? えーと……」
多分、海で一緒に遊んだ時かな、と思ったが、そういえば初めて会った時から好きだった気がする。だから、初めてビーチで会った時、声をかけたのかも。
「海で、遊んだ時……かな。多分……あの時、すっごく楽しくて、嬉しくて。すごく好きだなあって」
「うふふ。それじゃあ、私の方が先ですね」
「え……ええ!? そうなの?」
「私、お姉様に初めて会った時から、ああ、なんて綺麗な人なんだろうって、思ってました」
「あ、あたしが? 綺麗なんて、そんな……」
「ふふ。だから、海で話しかけられた時、とっても嬉しくて。仲良くしていただけるうちに、お姉様はとても朗らかで明るくて、素敵な人だなあって。気がついたら、お姉様に夢中でした」
鳴華ちゃんは嬉しそうに笑っている。私は、熱くなった顔をこつんと彼女の肩に乗せた。
「鳴華ちゃん。これからよろしくね。仲良く一緒に遊んで、たまに喧嘩でもして……ずっと、一緒にいてくれたら、嬉しい」
「ええ。もちろんです」
鳴華ちゃんが手を重ねてくれる。私は手をひっくり返して、恋人繋ぎにした。
「それで……それでね。あたしも、いつか、あの遠い夢を叶えるから。あっちこっち行くかもしれないけど、最後には、絶対そこに向かって歩いていく。その道に鳴華ちゃんが一緒にいてくれたら、すっごく幸せだな」
「お姉様……私もです」
鳴華ちゃんが優しく微笑んで、握った手の力を強めてくれた。
この世界は妥協と諦めで、できていると思っていた。もちろん、そうだってこともたくさんあるかもしれない。それでも、あたしは大事な人と夢を一緒に見る。この世界が妥協と諦めでできた冷たい世界だったとしても、あたしは大切な人との夢に、遅くなってもまっすぐに歩いていくんだ。この先に、私達を引き裂く事故が起こる運命だったとしても。私達は、運命なんか曲げてやるんだ。
私はそう決めていた。