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爆笑症

作者: 石賀白雀


 たくさんの人間がいるところには、それだけの数の人の顔がある。それら一つ一つがどんな表情を浮かべているか、厳密には分からない。でも、ここが昼休みの大学構内であれば、おおむね笑顔か無表情かのどちらかであろう。

 私は前者だ。


「アッハッハッハァー!」


 学生食堂の一角で私は豪快に笑い、その声が満ち満ちた学生たちの喧騒の中にかき消えてゆく。今、私は友人とともに円卓を囲み、昼食を摂っている。


「相ッ変わらず、あやめは笑い声デカいわねー」


 友人の一人、梨香りかが呆れながら定食をつつく。


「いいじゃないの。笑ってんだかそうじゃないのか分かんないようなのよりは。小気味の良い笑い声と呼んでちょうだい」


 私がしたり顔で返し、水筒に口をつけると。


「さすが、ゼミの後輩から『女傑』って呼ばれるだけあるよねぇ」


 もう一人の友人、万葉まんようが聞き捨てならないことを口走る。しかも梨香がうんうんと頷いている。


「何それ。私の知らないところで、何処のどいつがほざいてらっしゃるのかしら。……いや特定しないよ? しないけど、頭文字だけで良いから教えて」


 身を乗り出して詰問するも、友人二人に目を逸らされはぐらかされてしまった。

 そうして取り留めもない談笑に花を咲かせる私たち三人の姿はありふれた女子学生のそれであり、つまり私は、確かに声は大きいけれども、普通に笑えている。




「いやほんと、あやめが笑ってるときは遠くからでも聞こえんのよ」


 話がころころ転がって、ふと、梨香がそんなことを口にする。


「そんなことないでしょう、サイレンじゃあるまいし」

「ほんとだって! この前なんて授業中に学生会館の方から聞こえてきたんだよ? 凄くない?」

「アッハッハッハァー! なるほどそれは凄いかもしれない」


 私は呵々大笑して、何とはなしに窓の外を見やる。遠く西の空に、夏雲がもくもくと膨らんでいる。――私の爆笑する声は、遠くどこから耳に入るのだろう。果たしてあの雲に、笑い声は届くのだろうか。


「ん、どしたのあやめ?」と梨香が尋ねてくる。彼女は他者の様子に敏く、すぐに気遣うことが出来る。私は顔に出さないようにしたものの虚を突かれ、反応に詰まってしまう。


「……あやちゃんはね、大きな声を出すために時々充電するんだ」


 隣から万葉が出してくれた助け舟に、私は乗り込むことにする。


「アッハッハッハァー! まるで私が小さな子どもみたいだな! まあ時々ぼーっとするのはあるけどさ」

「確かに、あやめのそれは体力使いそうだもんねー」


 安堵と呆れの混じる梨香の言葉に、私は肩をすくめてと返事とする。実際、私の哄笑は体力を使わないわけではない。それはそういった笑いが時として、いささか恣意的なものであるからだ。


「そういえばさあ、二人とも今日のゼミのあと空いてる? この前、南門近くに新しくカフェ出来たじゃん、良かったら行こうよ」


 昼食を終え、トレーを下げようと立ち上がりながら梨香が誘う。その提案はすこぶる魅力的ではあったのだが。


「ごめん、今日は予定が入っちゃってる。明後日なら行けるけど」


 残念ながら、今日の私には先約がある。


「明後日? ちょっと待って――うん、大丈夫。万葉は?」

「わたしも大丈夫だよ」


 日取りが決まって、梨香のテンションが上がる。


「オッケー。じゃあ明後日ね、楽しみ~。サークルの後輩がね、あそこのマスターは本物のイケメンですよって言ってたの」

「アッハッハッハァー! てっきりパンケーキに期待してるのかと思ったら、梨香の狙いはそっちか」

「や、待って。違うのよ。違うの……いや違くないわ」


 私たちの学生生活には、笑いが満ち溢れている。

 窓ガラスの外の青空は、暑く眩しい、夏の盛りのそれである。



   ○



 年は幾つか遡って、私がまだ高校生だった、夏のある日のこと。

 私は坂道を自転車で駆け上がり、病院の敷地に入っていく。駐輪場の屋根の下でハンカチを当てても、汗はしばらく止まりそうもない。顔を上げると、西の山の方に入道雲が浮かんでいる。夕立があるかもしれない。

 窓口で面会を申し込む。守衛は年配の、真面目一本で人生を貫いているような男性である。「どうぞ」の一言とともに渡されたワッペンを胸ポケットに付け、化粧室で丁寧に身支度を整える。空調のおかげか、あるいは院内のほの暗い照明のせいか、じきに発汗もおさまった。

 よし、だいじょうぶ。

 鏡に写る自分の姿に納得を与え、病室に向かう。少しずつ、胸が高鳴ってくるのがわかる。目当ての階でエレベーターを降り、ナースステーションの前を過ぎてその個室の前までたどり着く。言うことを聞かぬ鼓動が伝えてくるのは、緊張と戸惑いと、それでも会えることへの、期待の気持ち。私は覚悟を決め、引き戸を開ける。

 室内では、青年がベッドを座椅子のように起こして、窓の外を静かに眺めていた。しかし私を見るや、彼はアハハと笑い出した。私は微笑みを浮かべ、そばの丸椅子に腰かける。


「ごきげんよう。調子はどうかしら」

「相変わらずだね! 笑ってばかりいるよ。でも、本当は寂しいんだ」

「……そう。寂しがり屋、なのね」

「実はそうだったみたい。まあ、寂しいことですら笑えてきちゃうんだけどね」


 感情を素直に発露できない彼の辛さへの同情を胸に、私は精いっぱいの、あいまいな笑みを返す。

 入院患者たる青年は、名を松田隆明という。私の同級生であり、また、いわゆる、恋人でもある。彼が患っているのは、爆笑症と通称される、極めて珍しい病気である。割合は百万人だか一千万人だかに一人であるらしい。患者は見るもの聞くもの何でも面白おかしく感じてしまい、ひたすらゲラゲラと笑い転げてしまう。そんな病があってたまるか。ふざけた症状だと私は思う。しかしこれが重くなってゆくと、笑いがいつまでも止まらなくなり、ただただ笑い続けて肺や心臓に強い負担がかかってしまう。そして死に至るのである。根本的な治療法はいまだ見つかっていない。

 隆明はもともと明るくてよく笑う人であった。いつまでが普通であり、いつからが症状によるものなのかは判然としない。


「そうなの。今回の模試でもうちのクラスが平均点最下位だったのよ」

「ダハハ、またか! ぶれねえなぁ六組は」

「それでね、柴崎先生が『いい加減にしろ!』なんて怒るんだけど、茅野君や藤川君たちが互いに確認し合ってるの。『オイラたち、もちろん今回も勉強してねーよな?』って」

「ダッハッハッハ! 『無勉同盟』健在か! あいつら最高」


 隆明が手を打ち叩いて笑う。私には男子の馬鹿比べの笑いどころはわからないけれども、隆明の笑いが病気によるものではなく心の底からのものだと感じられ、嬉しくなって笑ってしまう。だって私は、寂しいときに「本当は寂しいよ」と言うことが出来て、面白いときに屈託なく破顔することができる彼の素直さが――、私には無い彼の長所が、その、好きだから。


「これ、今週の授業プリント。こっちが英語で、そっちが数学」

「おう、ありがとう……アハハハハ! いや、ごめ……アハハハハ!」


 自分の意に反して、何かが面白く感じられてしまったのだろう。隆明が顔を背けて必死に笑いをこらえようとする。


「……いいのよ。我慢しなくて」


 今、自分の胸が苦しいのは、私が彼を好きであることの証左だろうか。否、苦しさは苦しさでも、これは少し違うような気がする。なんというか、私は何かをあきらめている自覚がある。でも、何を?

 この空間に私がいて、隆明がいる。私がしゃべって、彼が笑う。それで何を戸惑う必要があるのだろう。理由も定かでなく、心の中はもやもやとしているがために、その輪郭は杳として知れない。


「じゃあね。ごきげんよう」

「おう! バイバイ!」


 面会時間の終わりが来て、私は後ろ髪を引かれるようにして病室を辞す。院外に出ると、一陣の風が吹きつけていた。黒い雲が空を覆っている。自転車をこぎ始めてすぐに、夕立に見舞われた。私は構わずに走り続ける。

 打ち付ける大粒の雨が、私の体表を冷やしてゆく。対照的に、心はなぜだか熱を帯びている。どうしてなのかは自分でもわからない。ただ、隆明の見舞いに行った後は必ず、胸の奥底の澱が煮えるような感覚が絡みついているのだ。

 私はその熱に突き動かされるように、あるいはその熱から逃れるようにして、立ち漕ぎでスピードを上げる。商店街にさしかかり、歩行者たちの傘の流れを追い越してゆく私の耳に、人々の楽しそうな笑い声が反響する。街には雨音になおもかき消されずに、花金に繰り出すサラリーマンの賑わいや、主婦の井戸端会議、若者グループの盛り上がり、私と似たような歳の女子たちの笑い声が散在している。何がそんなに笑えるのであろうか。私は無性に腹が立った。世の中には笑いがあふれかえっているのではないかと疑い――同時に、今のこの怒りは、自分の胸中の熱が名付けられないことの苛立ちを八つ当たりしているに過ぎないのだと、自分の中の冷めた傍観者が告げてもいる。

 そうして私は、雨と笑い声とを切り裂くようにして帰る。濡れたおかげで、いつの間にか頬を伝った涙を隠すことができている。

 と、思っていたのだが。




「でも姉さん、目が真っ赤ですよ」


 家に入ると、私の一歳下の弟がタオルを手にしながら指摘してきた。楓という名のこの愚弟は、気だるげで、気が利いて、そして時折、私の照れ隠しにずけずけと踏み込んでくる。


「見間違いよ」


 私はタオルを受け取りつつ、瞳をじろじろ覗き込んできた不届きなやつの顔をむんずと掴む。


「あいだだだ、見間違いでした。姉さんは夕立の中を泣いて帰ってくるなんて、そんな青春送っていません」


 最後に思いきり力を込めてやってから、顔を覆ってうずくまる我が弟を尻目に、私はシャワーを浴びることにする。




 熱めのお湯を被りながら、じっとうつむく。冷えた皮膚に熱が加わり、身体の内外の温度差が埋められてゆく心地がする。そのまま私は、しばらく黙考にふける。

 ――どうして私は、隆明の病室を出ると感情的になってしまうのだろう。それはたぶん、彼のそばでは抑えていた心のふたが外れるから。胸が煮えるのは、ふたの外れた中身が見えた証拠。

 どうして彼のそばでは心にふたをしていたのか? それはきっと、彼には病気によるものではない、心からの笑顔でいてほしいから。私の本心で彼を困らせたりしたくはないから。

 ならば私の本心とはなんだろう。

 視線を上げる。正面の鏡に、お湯が髪を伝いしたたり落ちるに任せた、まるで幽鬼のような女が写っている。今の自分はこんな顔をしているのか……無意識に鏡へと手を伸ばして、しかし鏡の中の私には、その手は届かない。


「届かない……」


 私はつぶやく。つぶやいて、ふと頭の中の焦点が合ったような気がした。

 そうか、私は届かないことに戸惑っていたんだ。

 お見舞いにて、彼が本意でない笑いをした際、私もそれに合わせて微笑みを浮かべていた。だが心の中では、私の言葉にどのような気持ちを乗せたとしても彼の笑いに跳ね返されてしまうことに、寂しさとか、戸惑いとか、そういう感情を蓄積させていたのだ。


「…………」


 私は勢いよく立ち上がる。

 シャワーを止めて、考え事も止める。台所に戻ると、食卓の上にアイスココアがある。


「楓のやつめ」


 弟は不届きで、気だるげで、そしてとても気が利く。




 リビングに戻ると、楓はテレビを観ていた。面白そうな番組で、出演者らの笑い声が聞こえてくる。しかし弟は私に気づくと、そっとチャンネルを変えた。そこでもスタジオ観覧者たちの笑い声。弟はさらに別の局へと移る。


「楓、私のことは気にしなくていいから」

「いや、俺も特に見たいやつがあるわけじゃないから。それに姉さん、前に言ってたじゃん。松田さんが笑いで苦しんでるのに、テレビで笑い声をよく聞くのは腹が立つって」

「そうね。だから私が見なければいいのよ」


 言いつつも、私はかたきを睨みつけるような顔で画面と対峙する。今の画面でも、テレビからは笑い声がする。笑うということは、多少なりとも面白いのだろう。

 ――そんなに面白くなければならないのか。

 私はため息をこらえる。無論、番組の作り手が面白さを追求するのは理解できる。面白くなければ視聴率は取れない。視聴率は、つまり世の中は、面白さを求めている。笑いを求めているのだ。


「姉さん」


 テレビ画面と決別し、自室に引き上げかけた私に、弟が言葉を選ぶように声をかける。


「なに」

「姉さんは、なんだか必要のないことまで自分自身を責めているように感じる」


 楓の目が、私を心配していることを訴えてくる。


「楓は気にしなくていいの。私には私の問いがあるのよ。楓は……そうね、さっきみたいな美味しいココアをいれることを考えていて」


 私は静かに強がることで照れ隠しとする。



 ○



 季節は巡る。時が進むにつれて、隆明の病状も進む。

 彼が入院した当初は、それなりの頻度でお見舞いに行くことができた。しかし近頃は病の進行に伴って、以前よりも間を開けて面会するようにとの医師の指示を受けている。

 駐輪場から見上げる空一面に、低くどんよりとした雲が垂れこめている。心に覆いかぶさるような、冬の曇り空である。坂を駆け上がってきた私の口からは、白い呼気がリズムよく吐き出されている。


「ああ、お疲れさんです」


 年配の守衛氏が、私の顔を認めるなりワッペンを渡してくる。面会手続きには随分と慣れた。普段通りに身だしなみを整え、エレベーターに乗り、看護師に会釈しながらナースステーション前を通過する。だが、病室の引き戸を開ける瞬間だけはいまだに慣れていない。彼に会う喜びと彼の病状への不安とがない交ぜになった胸のどきどきが、取っ手に伸ばす自分の手に、刹那の逡巡を与えるのだ。

 それでも、私は戸を開く。


「アハハハハ、ごほ、ごほっ……」

「あっ、だからいいって。身体を起こさなくて。……ほら、横になってちょうだい」


 私は慌てて彼のもとへと駆け寄る。彼は、ひどく笑い疲れたようにぐったりとして、同時に口を押さえて笑いをこらえている。笑いすぎて胸が痛く苦しくなり、その刺激が新たな笑いを生む。隆明は、ひたすらそれに耐える日々を送っている。際限なく続く、面白おかしくて、そしてそれ以上に辛く苦しい状態。爆笑症――ふざけた症状だと、私は下唇をかむ。


「この前、前期末の大掃除があったわ。教室を磨いて、みんなは部室や特別棟の掃除。私は国語科準備室の手伝いをしたわ。といっても、軽くだけどね」

「……」


 私は特段面白くもない近況を話す。隆明が笑ってしまわぬためのそれは、彼とのコミュニケーションというよりも、私の独り言として、あるいはただのBGMのように、夕刻の暗がりゆく室内に溶けてゆく。

 彼からの反応はない。目をつむり、穏やかな顔で横になっている。それが彼にできる精いっぱいの反応であることを知っているから、私は寂しくはない。ただこの時間が続くことを祈るように、ゆっくりと、最近の出来事を物語る。そうしているうちに、彼はうとうととしてくる。起きて刺激を受ける頻度を減らすため、寿命を延ばすために、彼は睡眠薬によって一日の中で長めの睡眠時間をとるのである。だから私の話は、願わくば、彼にとっての子守歌であってほしいと思う。

 冬の早い日没が過ぎ、個室には間接照明のみが灯っている。話の間のしじまに、そっと彼の様子をうかがう。眠れたかな、と安堵しかけたその時、「ありがとう……」と、彼が小さくつぶやいた。

 私はとっさに立ち上がりかけ、こちらこそ、とか、いいのよ、とか、彼からのその感謝になにか返さなきゃという気持ちが膨らんだのだが。


「…………!」


 しかし何もできなかった。自分の行為が、今まさに寝入ろうとする彼を刺激してしまえば、彼は再び苦しむだろう。私は中腰のまま、呆然と彼を見つめ続け、ベッドの上から寝息が聞こえてきてから、再び静かに座った。

 味覚が笑いを呼ぶために、彼は食事ではなく点滴によって栄養をまかなっている。淡い灯りに照らされる隆明の寝顔が、いつからだろう、とてもやつれて見える。




 帰宅して、無人のリビングの上に半分に折られた紙が置いてあるのを見つける。表には「あやめへ」の文字。この筆跡は父のものだ。

 父は仕事人間であり。出勤時刻は朝早く、帰ってくるのは夜遅い。よく母は父のことを。シャイであり素直でなく。器用な方でもない人だと語る――なぜか嬉しそうに。だからあやめはお父さん似なのよ、との評価は、私は今でも認めていない。

 そんな父が私に一体何を伝えようというのだろう。訝りながら、その紙を広げる。内容は、父にしては饒舌だった。


『あやめは今、自分が何をしたらいいか、何が自分に出来るのか分からずに辛い思いをしていると思う。もしかすると状況や環境、社会などの外部を憎んでいるかもしれない。だが、負けないで欲しい。あやめがやりたい事を貫いて欲しい。あの時ああすればと後悔せぬために』


 お父さんは分かってないなあ。私は嘆息する。

 私はやりたいことが見つかっていないから辛いのだ。どうすれば隆明に届くのか、跳ね返されないのか。私はそれが知りたいのである。ただ、父が不器用ながらも私を励まそうとしていることは伝わった。

 ん。

 ふと気づく。この手紙によって。多少なりとも父の想いは私に届いた。ならば、手紙によって私の気持ちは隆明に届けられるのではないか。そうだ。手紙を読むことは自分のペースで進められる。たとえその途中で病気のせいで笑ってしまったとしても、それが治まるのを待って、隆明自身のペースでまた読み始めることができる。

 道が開けた気がした。いつか風呂場で鏡に手を伸ばして自覚した戸惑いも、テレビを観て感じた世間への恨みと諦めも、これで打ち破ることができる、そう思えた。


「よっしゃ」


 腕まくりをする。やりたいことは見つかった。さて隆明に何を書いて届けようか……中身を組み立て始めて、でもその前に。


『ありがとう。お父さんのおかげで一歩進めそうです』


 簡潔な返事をしたためて、テーブルの上に残す。



 ○



「何だか眠そうだね、あやちゃん」


 翌日の昼休み。一緒に弁当を広げる万葉が私をそう形容してくる。彼女は昨年来、すなわち高校入学以来の友人である。


「うん、まあ。少しね」


 私の眠気のもとは、書きかけの手紙である。隆明に届けようと決めたものの、実際にペンを執る段になってああでもなくこうでもないと迷い、結局夜更かしをしてしまった。


「あやちゃんにしては珍しいね。なにか悩み事?」

「ぐ……」


 噛みかけのものを思わず飲み込む。図星であると表明するようなものである。事実、手紙の文面のみならず、そもそも本当に彼へ届けてもよいのだろうかと、昨晩固めたはずの決心ですら若干揺らいでいる。

 この迷いを万葉に話すべきだろうか。

 彼女は微笑み、首を傾げたままこちらを見つめている。その視線に、私の中のためらいが押し負ける。


「まあ、その、なんだ。……」


 そうして、隆明にメッセージを送ろうと思った後の心のうだうだを吐露する。何度も言葉がつかえて話が拙くなるのは、私自身の照れのせい。耳まで赤くなっているのが、鏡を見ずとも自覚できる。しかし万葉は、そんな下手な話を茶化さずいじらず、そう、笑わずに聴いてくれて。


「わたしは、すごく良いなって思うよ。松田君も喜ぶと思うし、あやちゃんの言うとおり、松田君自身のペースであやちゃんの気持ちを受け止められるんじゃないかな」

「そう……かな、だと良いが」


 故に私は、嗚呼、万葉に打ち明けて本当に良かったとしみじみと感じた。もしかすると、照れや恥ずかしさという気持ちの裏で、私は誰かに背中を押してもらいたかったのかもしれない。


「ふふ。話してくれてありがとうね、あやちゃん」

「いや、こちらこそ。万葉に話して正解だった」


 和らぐように相好を崩す彼女を見て、私の口元もほころぶ。

 ともあれ、揺れていた私の決意もようやく固まった。何を書くかはまだわからないが、それでも構わないのだという気持ちのゆとりを持つことが出来ている。きっと、内容の良し悪しよりも手紙を渡すということの方が大切なのだから。




 放課後、病院の中。私は小走りで病室を目指していた。手紙を書き上げるのに夢中で時間を忘れ、面会時間の終わりが迫ってきてしまったのだ。なんたる不覚。休み時間に病院に電話をかけ、無理を言って前日に続いての面会を許可してもらったのに。途中、いつもよりも長く閉まっていた踏切を待つ時間が、私には永遠に思えた。

 隆明の個室近くまで来て、看護師がそこに入ろうとしているのが見える。


「あら、高橋さん。よかった、まだ点滴は換えてないわ」


 何度も見舞いに来ているうちに、私はそのナースと顔見知りになっていた。私は息を整え、また急いで髪や身だしなみを整える。看護師は「だいじょうぶよ、そんなに慌てないで」と私を落ち着かせながら、手鏡を出してくれる。


「あ、すいません」

「いいのいいの。ほら、ここほつれてる……うん、これでばっちりだわ」

「ありがとうございます」


 ばっちりだわ、の言葉に勇気をもらって、私は看護師とともに部屋に入る。寝台の上の隆明はアイマスクをしている。少しでも刺激を減らすようにとの、せめてもの施術である。看護師が、てきぱきと点滴役のボトルを交換する。それが終わると、そっと隆明のアイマスクを外す。彼の弱々しい瞳が、私を捉える。


「あはははは……」


 咳を交えて、彼は笑い出す。しかしすぐに薬が効いてきて、徐々に瞼が落ちてゆく。


「あやめ……」

「隆くん!」


 意識が途切れる前に、彼がベッドの上から腕を出してきた。私はとっさに、彼の手を握り返す。自分の喉の奥がぎゅうっと詰まった感じがして、つばを飲み込む。その間に、彼は眠りについていた。

 私が包む彼の左手は、少しばかり冷たい。私はそれを離したくなくて、看護師の方をうかがうと、彼女は優しく微笑み返す。守衛さんに話は通しておくから、もうしばらく松田君のそばにいてあげて――そう言い残して、彼女は病室を出て行った。その言葉が実は隆明から看護師に頼んでいたものであったことなどつゆ知らず、私は感謝と幸福とを噛みしめる。


「これ、良かったらゆっくり読んで」


 眠る彼に声をかけながら、私は手紙を掛け布団の上、胸のあたりに置く。背負っていたものが下りた心地がする。

 これは届かなかったものを届けられた安堵の気持ち。

 間接照明の灯る病室の中。握り合う私と隆明の手の影が一つになって壁に写り、静かに溶け合っている。



 ○



 私はそれからも定期的に隆明を見舞い、その度に手紙を渡してきた。彼と会話をすることは叶わなくなり、そのうち、ただ彼の寝顔を見に行くだけになった。彼の心肺のダメージが相当であるらしいということは、その頬のこけ具合が喋れない彼に代わって物語っていた。

 以前の私は、こちらのどんな感情も彼の笑いに跳ね返されることに寂しさを覚えていた。今はもう、笑われてしまいすらしない。彼は時々起きて、大半は眠りの世界にいる。それでも、私は前のようには寂しくはない。

 折りたたまれた紙を、ゆっくりと開ける。そこには一言、『ありがとう』とある。その文字は酷くよれていて、弱々しい。そこに彼のおかれた苦しさと、それでも返事を書こうという意志とを感じる。私はその短い手紙を両手で包み、胸の前で抱く。愛おしい気持ちが、あふれてくる。


「だいじょうぶ」


 私は口に出して、自分に言い聞かせる。自分の手の中にある、隆明の気持ち。私の心が彼に届いたという証拠。これがあれば、わたしはきっとやっていける。彼がこの世からいなくなっても、私はだいじょうぶ。



 ○



 梅雨が明けた。

 夜になっても気温は下がらず、私はハンカチで額の汗をぬぐう。


「おや、あやめちゃんに風当たってないね。ごめんごめん、すぐ扇風機動かすから」

「あ、いいえ、お構いなく」


 私は遠慮するも、隆明のお母様はてきぱきと動いて風向きを調節してくれる。彼はお母様似であったのだろうか――快活な印象を与える女性である。あるいは、今の彼女はあえて気丈に動いているのかもしれない。

 私は父とともに、通夜の振る舞いの席に呼ばれている。


「あやちゃん、本当にありがとねぇ。あなたのおかげで、隆明は最期まで幸せだったよ」

「いえ、そんな。私だって……私も、幸せでしたから」


 予期しない感謝の言葉に、私は恥ずかしさを覚える。今思えば、私のこの一年弱の悩みだとか決心だとかは、自分自身か隆明のためにという範囲の中でしかなかった。だから、その外側の人から謝意を向けられると恥ずかしくなってしまうのだ。


「そういえば、これ。隆明から預かってたんだった」


 お母様は言いながら、私に封筒を渡す。


「手紙、ですか?」

「そう。隆明がね、これを書き終わるまでは死ねないって」

「あの……今、読んでも」

「もちろん構わないわ」


 実は隆明からの短い返事の手紙は、しばらくの間途絶えていた。無理もないことだ、ペンも持てない状態だったのだろうと考えていたのだが。

 思わずつばを飲み込む。手紙を取り出す自分の手がもどかしく感じられもするし、自分は何をそんなに急いているのだと客観的な思いを抱きもする。

 手早く、それでいて恐る恐る、折りたたまれた便箋を広げる。彼はこれに、いったいどんな思いを込めたのだろうか――。

 目に入ったのは、力の入っていない、薄くて震える筆跡。文の量は短いが、一言だけではない。きっと笑いを抑えながらこの量を書き上げるのに、結構な時間がかかったことだろう。


『俺は人生で誰よりも笑った自信があります。あやめは一生で俺より笑えるかな? 難しいと思うけど頑張ってください』


 …………。


「ふふっ」


 笑ってしまった――通夜の席なのに。視界の端で、お母様や私の父が目を見開いていたのが分かる。だって、仕方がないではないか。苦しみに耐えて執筆したであろう書信で、まさか煽られるとは思わないもの。


『あやめが見舞いに来てくれて、すごく嬉しかった。ありがとう』


 どういたしまして。胸がじんわりと温まり、自然とにこやかな表情になる。自分が欲しかった言葉と彼の気持ちとが重なって、私は嬉しい気持ちになる。なのにどうして、私の頬を涙が伝っているのだろう。


『あやめのことを、愛しています』


 私も、隆明のことを愛しています。この言葉は互いに口では言えなかったけど、手書きで伝え合うことが出来た。私はにじむ視界の中で、最後の一文を追う。


『さようなら。また会いましょう。バイバイ!』


 私ははっきりと分かった。ああ、隆明は本当に、いなくなってしまったんだ――。


「ううっ」


 口元を押さえる。嗚咽が止まらない。駄目だ、そこの棺の中に、そこに隆明はいるのに、泣くもんか。


「あやめちゃん……」


 彼のお母様が、背中を優しくさすってくれる。彼女だって泣きたいだろう、だから涙を止めなきゃ、泣き止まなきゃ。

 でも、私の涙腺は言うことを聞いてくれなかった。




 帰路の途上にて。

 運転席の父は、珍しくカーラジオをつけなかった。車内には、私のすすり泣きだけが響いている。「あやめ」と呼びかける声には、私にどんな言葉をかけてやればいいのか迷っている様子が含まれている。


「父さんは、お前のことを誇りに思う。よく……がんばったな」


 その言葉は私の欲しいそれではなく、やはり父は不器用なのだと思ったが――その実直な私へのいたわりの気持ちはよく伝わってきた。私は涙を止められず、返事ができなかったものの、胸の中には確かに、嬉しさと感謝とがある。

 いつか父にはありがとうと言わねばならない。私が曲がりなりにも自分のやりたいことを果たせたのは、あなたがくれた手紙のおかげであると。

 その日帰宅してからも、翌日のお葬式の間も、そしてそれからも、私はただただ泣き続けた。自分の涙腺がおかしくなってしまったのだろうか。何もする気が起きず、何も感じたくはなく、自室のベッドに身体を投げ出したまま、涙の流れるままに任せる日々が続いた。


「姉さん、入るよ」


 時間の感覚がなくなってゆくのを、それでも繋ぎ止められたのは、弟が部屋まで食事を運んでくれたからである。


「おかゆ、置いとくよ」

「…………」


 私は何ら反応を返すことができなかったが、楓は夏休み中にもかかわらずほとんど出かけずに、律義にも一日三食を持ってきてくれていた。そして午後には、「空調がもったいないからな~」とかとぼけて、私の部屋で一、二時間ほど読書をしていった。




 何日経っただろうか。

 それまでのごとく楓が文庫本を読んでいるさなかに、私はむくりと起き上がった。


「……おなかすいた。喉乾いた」


 声を出したつもりが、かすれてまともに発声できなかった。気づけばのどの内側が切りつけられるように痛む。


「おおうびっくりしたー。分かった、ちょっと待ってて」


 楓はすぐに飲み物を取って戻ってきた。ちびちび口にするも、やはり喉に痛みが走る。それからおかゆも少しずつ食べる。その間、楓はテーブルに肘をつけて私のことを眺めている。「なに?」と問うと、「うん、起きてくれて良かったなって」と生意気をのたまう。


「私、決めたわ。せっかく泣き止んだんだから、これからは思い切り笑ってやる」


我ながらひどい声。そしておそらく、泣いて腫れあがったひどい顔。でも涙はいつの間にか止まっていた。


「極端じゃない?」

「いいのよ。隆明に煽られたもの。生きてる内に俺よりも笑えるかなって」

「ハハ、松田さんらしいや。姉さんも負けてらんないね」


 楓はそう言いながら、私の食べ終えた膳を下げに立ち上がる。


「夕飯もこっち持ってこよっか」

「ううん、下で食べる」

「りょーかい」


 そうして部屋を出ていこうとした弟の背中に、私は小さな声で言葉をかける。


「楓……その、ありがとう」


 彼は立ち止まり、振り向かぬまま「後でアイスココア持ってくる」とぼやいて出て行った。



 ○



 今、それから四回目の夏を迎えている。

 私はゼミを終え、万葉とともに墓参りに来た。西に雲のかたまりが出来つつあるが、頭上は依然として、青空と強い日差しが支配している。夕立はまだ、訪れそうにない。


「……ふん」


 私はそのお墓の前で、腰に両手を当てて仁王立ちをしている。直射日光が日焼け止めを透過するようにじりじりと照り付けるのも構わず、汗の滴るのも気にせず――。


「いいの? 松田君が見てるよ」


 万葉の忠告に、私はいそいそと彼女の日傘に入る。ついでに汗もふき取る。咳払いをして、改めてお墓を睨みつける。

 私は毎年の命日の墓参りで、改めて決意表明をしている。そう、隆明からの挑戦状に対する誓い――彼よりも笑ってやるぞという決意を、彼に伝えているのだ。

 そうして私はにやりと口角を上げ、しかし墓前ではどうしても、少しだけ涙がこぼれてしまう。


「隆くん。私、負けないからね」


 でも、私の中に悲しいという気持ちはない。あるのは隆明を笑って見返すというやる気と、物事を笑い飛ばす強さをくれた、彼への感謝の気持ち。




 隣の万葉が、微笑みながら私を評する。


「あやちゃんは強いねえ、やっぱり『女傑』だ」

「……ねえ、それ誰が言ったの? 同じゼミなんでしょう?」


 私が問うと、万葉はいたずらっぽい表情になる。


「怒らないであげてね。K.Tくんだよ」

「K.T……」


 私は一瞬考えるも、該当する人物はすぐに思いついた。


「アッハッハッハァー! 一人いるね、イニシャルK.T――楓、高橋。あいつめ……!」


 私は呵々大笑し、気だるげで、気が利いて、そして不届きなゼミの後輩への心を込めた仕返しを画策する。

 びゅうと、涼しい風が吹き抜ける。夕立が近づいたサインかもしれないが、私にはその風が隆明の笑い声のように感じられた。


 ――またお参りに来るからね。バイバイ!


 お墓に別れの挨拶を告げ、西日を浴びながら、私は万葉とともに歩き出す。




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