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サラバ兄弟間格差

作者: あいうえお.

 俺と弟は年子の二人兄弟だ。

 俺は昔から、弟との待遇の差に不満を感じていた。


 まず不満に感じたのが、写真の数が圧倒的に違う事だ。

 二人目の写真がほとんどないという話はよく聞く。しかしうちの場合は逆で、弟が生まれた瞬間から写真は急激に増え出した。俺の新生児期の写真は俺に母親が添い寝する写真が一枚あるだけで、しかも主役であるはずの俺が見切れている。さらに使い捨てカメラで撮ったらしく、ピンボケである。

 対して弟は彼メインの写真が0歳代のものだけでも百枚近くある。両親は弟誕生と同時に一眼レフを購入したらしく、背景がいい感じにボケていたりセピア色でオシャレに撮れていたりと撮影技術も格段に向上していた。そして俺はというとその写真の隅っこに小さく写っているだけなのだ。


 生後百日で行うお食い初めという儀式がある。これは一生食べ物に困らないように赤子に食事の真似をさせる儀式だそうだ。

 写真によると、弟の時は尾頭付きの鯛や赤飯、ハマグリのお吸い物が用意されたのに、俺の時は出汁を取った後の尾頭付きの煮干しと麦飯と「永谷園松茸の味お吸い物」だった。まぁ確かにあれは美味いが俺としては複雑な心境だ。


 それから俺の住む地域では、餅踏みという行事がある。一歳の誕生日に一升餅の上に子どもを立たせ成長を祝うというものだ。弟は袴を着た正装で大きな餅を踏んで写真に写っているのに、俺は文字通り絵に描いた餅の上に普段着で立たされていた。もういっその事やらない方がマシだったと思うのは俺だけだろうか。


 幼稚園は兄弟一緒の所に通ったが、両親は貧乏のクセに無理して弟にいわゆる「お受験」をさせ、彼を小中高大一貫校に入学させた。ランドセルはジャスコの売り場に並んでいる中で一番高額のツヤッツヤのヤツだった。雨の日には車で送り迎えまでやるという過保護っぷりだった。

 一方俺は無料の公立の寺子屋に通い、雨の日は蓑と笠で通学した。ランドセルは買って貰えず、柳行李(やなぎごうり)を背負って登校した。ただし遠足や半ドンの日は風呂敷包みだった。


 買ってもらう物にも差があった。

両親には「お下がり」という概念が無いのか弟にはブランドの服を買い与えた。もっとも俺の服は百均の物だったので着倒した頃にはボロボロになっており、お下がりは不可能だったのだが。

 服以外でも弟は要求通りの物を何でも買ってもらっていたのに、俺がキン消しが欲しいと言った時は消しゴムと彫刻刀を渡された。自分で彫れという事らしかった。俺は最終的にラーメンマンのキン消し作りにおいてプロの域に達した。ビックリマンシールが流行った時には、不要となった包装紙に自分でイラストを描いて代用していた。キラキラの部分を再現するのには随分苦労したものだ。ミニ四駆も欲しかったのだが、竹ひごとセロテープの芯で仕方なく自作した。これが元で俺はある物だけで何とかする術を身に付け、すっかり器用貧乏になってしまった。俺の少年時代のあだ名は「匠」だった。

 成人してから弟はピカピカの新車を買ってもらっていたが、俺の場合はピカピカではあったが人力車だった。車夫を雇う金が無かったので結局は一度も乗っていない。


 以上のような差別のせいで俺は物心ついた時からずっと、自分が両親の本当の子ではないのかと疑っていた。しかし大人になって戸籍謄本を調べてみても、不審な点は一つもなかった。

 ちなみに俺の最初に喋った言葉は「げせぬ……」だったそうだ。

 当然のように俺たち兄弟は不仲だった。せいぜい宿題を毎日見てやったり、週末ごとにキャッチボールをしたり、弟の好物のエビフライを分けてやる程度の仲だったのだ。


 そして俺は寺子屋の高等部を卒業すると同時に「家が狭いから」という理由で家を出された。寮付きの自動車メーカーの期間工の仕事に応募し、翌年には社員登用試験を受けて正社員になった。実家から飛行機の距離の県だ。

 その後、両親が弟ばかり贔屓するのもあり実家とはすっかり疎遠になった。父の日と母の日に季節の食べ物と花を送り、一年のうち盆と正月とゴールデンウィークとあと何回か帰る以外はずっと会社の寮で過ごした。

 弟は大学卒業後も実家から就職先の会社に通っていた。そして彼は25歳の時に、同居するという条件をのんでくれた女性と結婚したが、新婚旅行に両親が付いてきてはしゃぎまくった挙句ホテルの同じ部屋で酒盛りした為に成田離婚した。可愛がられすぎるのも考えものだとその時初めて俺は思ったものだ。


 俺が二十代後半の時、父方の祖父が亡くなった。祖父とは小さい頃に数回会ったきりで、いつも無口で眉間に皺がよっていて怖い人だと思った記憶しかない。

 俺も葬儀に出るよう言われ、仕事を休んで駆けつけた。こういう時だけは親父は「長男が欠席するのは言語道断だ」と都合のいい事を言った。


 お通夜の会場で、俺は親父が弟ばかりを可愛がる理由がわかった気がした。

 親父は三人兄弟の末っ子だ。親父と彼の次兄は彼らの兄、つまり俺の上の伯父に対して形式的な挨拶しかせず、しかも敬語だった。小さい頃は気付かなかったが、彼ら三兄弟間には何かわだかまりがあるらしかった。

 読経の後、親父たち三兄弟のうち目を赤くしていたのは上の伯父だけで、下の伯父と親父は肩を回したり膝の屈伸運動をしたりと緊張感が皆無であった。「やっと終わった、酒だ酒だぁ!」と笑顔で言ってさえいた。

 子どもの頃に行った祖父の家は、そこには上の伯父家族も同居していたのだが、広い庭と錦鯉の泳ぐ池があり、さらに祖父は田んぼや山も持っていると聞いていた。対して俺の実家は一応一軒家だが家も庭も猫の額の狭さだ。


 本人に聞いてもどうせ激怒するだけだろうから推測の域を出ないが、親父は三男坊であるという理由で祖父から冷たい仕打ちを受けてきたのではないだろうか。その証拠に親父はよっぽどの理由がない限りは祖父の家に帰ろうとしなかった。恐らく親父は祖父や上の伯父に対する鬱憤を自分の長男である俺にぶつけていたのではなかろうか。彼は亭主関白だから、母親も彼の考えに従ったのだろう。


 俺は、親は子どもに対して平等に接するべきだと考えている。だから俺の代で兄弟間格差の連鎖は断ち切ってやる。結婚の予定は今の所は無いが、もし結婚して子どもを複数持った場合、俺はあくまで平等に、バレないように巧妙に、恨まれない程度に、長子を全身全霊で贔屓して贔屓して贔屓し倒そうと思っている。




ありがとうございました。

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