下
結局、その日の夕食は、件の定食屋さんで済ませた。少し食べ過ぎたかな、なんて思いながら、駅前の大通りから裏通りへ。
裏通り沿いの児童公園では、五人ほどの子供と二人の大人が花火を楽しんでいたりして。航が小さかった頃には、我が家もあんな風に花火をしたね、なんて話をしつつ、夕涼みには少々遅い夜道を、並んでそぞろ歩く。
「そういえば、壊れてしまった招き猫は、いつ納めに行くの?」
「木曜日、かな? と思ってるけど。里香さんは、何か予定ある?」
「別に、何も」
孝さんのお店は、木曜日の定休日から三日間をお盆休みにあてている。
そのお休みが明けたら、私も仕事。つまりは、お互いに一人暮らしに戻らないといけない。
会社勤めと自営業。
互いの仕事環境があまりにも違う私たちだから、休みが重なることはとても珍しい。そんな貴重な三日間に、予定なんて入れていない。
私の実家には、秋の連休で顔を出すことにしているし、航がお盆休みの最後に立ち寄ると言っていた。
「じゃあ、朝なるべく早くに出ようか。電車が混む前に」
私が満員電車を嫌いなことを知っている孝さんが、そんな計画を語るのを聞きながら、頭の中では目的地周辺の地図を思い浮かべる。
神社の周りには、何があったかな?
せっかく夫婦で出かけるのだから、ちょっと足を伸ばしてでも、デートっぽいこともしたいなぁ。
二人で遠出する機会は、一緒に暮らしていても本当に少なかった。
合わない休みをやりくりして、意識的に時間を作って出かけたのは、航が産まれる前や、ある程度大きくなってからの織音籠のライブくらい。
ああ、そうだ。
"お土産"に買った、織音籠のTシャツ。まだ、渡してないや。
自分でも脈絡のない思考だなぁ、なんて思っているうちに、家について。
私がお風呂から上がった時、孝さんはちゃぶ台で帳簿をつけていた。
「お先。お風呂、あいたよ」
「ああ、何か飲む?」
リーディンググラスを外した孝さんに訊かれて。
「孝さんが上がってきてからで、いいよ。あとで、一緒に飲もう」
手にしたドライヤーを見せながら答える。
「そう?」
彼の入浴は、いつも短時間。
たぶん、私が髪を乾かしている間に上がってくるに違いないから。
時間を有効利用、と思って、髪を乾かさないままで、肩からバスタオルを掛けた状態で二階へあがってきている。持って帰ってきた基礎化粧品を、持って降りるのを忘れたって理由もあるけど。
それから、もう一つ。
「飲みながら、録画を観ない?」
「録画?」
「うん。織音籠のライブの」
先週、録ってもらっていた北海道ライブ。
予想していたより、ほんの少しだけゆっくりめに孝さんが、お風呂から出てきた。
冷蔵庫から缶ビールを二本、取り出す。ちゃぶ台前の、定位置に腰をおろした孝さんに、そのうちの一本を手渡すと
「これ、どこで買ってきたの? 」
左手に持ったタオルで頭を拭きながら、しげしげとラベルを眺める。
冷蔵庫内には、我が家でいつも飲んでいる銘柄も冷えていたけど。
昼間、荷物の整理ついでに二本、冷蔵庫へと入れておいたのは、いわゆる地ビールで。
「帰りの電車に乗る前。向こうの駅で、地ビールフェアをしててね。お土産、に」
「へぇ。こんなのがあるんだ」
『一度、行ってみたいな』と呟いた彼のアーモンド型の目が、軽く細められた。
「あと、もう一つ。お土産」
孝さんの向かい側。ちゃぶ台の足元に隠すように置いていたビニールバッグを取りあげる。
怪訝な顔で受け取った彼が、口を開けないままのビールを一度置いて。覗きこんだバッグに手を差し入れる。
透明なビニール袋に包まれた、白い布地を取り出す。
「え?」
驚く声をあげて、私の顔を見るから。肩から掛けたままだったバスタオルを外す。
「実は……お揃い、なの」
ルームウェアとして着ているのは、"織音籠"のロゴが入った、あのTシャツで。
瞬き三つほど無言だった孝さんの肩が、じわじわと揺れだして。
喉の奥だけでは堪えきれなくなった笑い声が、こぼれ落ちた。
「これは、コンサートグッズ?」
目尻に滲んだ笑い涙を、親指で拭った彼に訊かれて。
「衝動買い、してしまってね」
改めて考えると、『何をしてるんだか』って、ちょっと恥ずかしい。
「でもちょっと……大きいかな?」
さっそく袋を開けて、身体に当ててみた孝さんから、突っ込まれる。
「そりゃぁ、JINが着ていたサイズだし」
「さすがにそれは、大きいよ。アイツ、上背だけじゃなくって、体格そのものが大きいし」
「だよねぇ。私が着たら、これだもん」
脇の辺りを摘んで、軽く広げて見せる。実際に来てみると、想像していたよりも身頃の幅が広くて。かなりのゆったりサイズ。襟首がさほどダボっとしていないから、なんとか部屋着になっている感じで。
「ロゴが同じ、って意味のお揃いかと思ったけど、違うんだ?」
孝さんは、レディースでTシャツ生地のワンピースだと、思っていたらしい。
ちゃぶ台の上に広げたTシャツの、胸の部分を指で辿る孝さんが
「このロゴは多分、ホームページのやつだね」
と言って、茶の間に飾ってある色紙へと目をやる。
織音籠の公式ホームページは、黒い背景に書かれた銀色の毛筆文字が特徴的で。ベースのSAKUが実際に書いた文字をトレースしたアニメーション画像だという。
『織音籠の書道担当』のSAKUは、JINとは中学校の同級生らしくって、孝さんの喫茶店の名前をもじった言葉遊びを色紙にしたためて開店記念にプレゼントしたことがあって。
航が生まれた時に、命名紙も書いてもらったし、暖簾の文字も、彼に下書きをしてもらっている。
我が家にとっても、SAKUは書道担当かもしれない。
せっかくだから……と、彼がTシャツに着替えるのを待ってから、録画を再生する。
うんうん。オープニング、こんなのだった。
二曲目。ステージの端でSAKUが、客席を煽る。これは、私が行ったステージでは、無かったかも?
少しずつビールに口をつけながら、自分が行った時の記憶と重ね合わせつつ、ライブを楽しんで。
中盤に差し掛かった頃。しっとりしたバラードのあとのMCで、JINが客席に誕生月のアンケートをとる。
四月生まれから始めたのは、たぶん。一月生まれの自分が最初にならないようにって、配慮だろう。
『四月生まれの人?』って訊かれて、SAKUが右手を上げてアピールしているし。
「これは、バースデーだな」
缶ビールを口に運ぶ途中で手を止めた孝さんが、楽しそうな声で呟く。
「八月だもんね」
あれは……JINが結婚した頃、からだっただろうか。
メンバーの誕生月に行われるライブでは、織音籠オリジナルのバースデーソングが演奏される。
今月は、ギターのMASAがお祝いされる番だ。
〈 では、ここで。“Thanks for Your Birthday” 〉
JINが告げたタイトルは、やっぱり。ファンの間では"バースデーソング"と呼び慣わされている曲で。
ゆるりと、イントロが始まった。
「この曲、歌詞が英語でわからないのがね」
細やかなぼやきをこぼしてしまった私に
「知りたい? 歌詞」
意外そうな顔で孝さんが、訊ねてくる。
「うーん。知りたいっていうか、ちょっと残念かな……って」
何度か聴いたことがあるから、サビとその前後くらいは覚えた。でも、CDには収録されてなくて、ライブでも誰かの誕生月にしか演奏されないから。
「単語をいくつか拾えた、って思っても、帰るころには忘れてしまうのよね」
そんなやりとりの合間に孝さんは、立ち上がって。電話台からメモ用紙の束を取ってきた。お風呂の前まで使っていたボールペンを手に、座り直したところで歌が始まった。
真剣な顔で、ペンを走らせる。
普段の微妙な書き文字と違って、読みやすい筆記体で英文が綴られて。
耳から入ってくる歌と目で見る文字が、少しのタイムラグを挟んで、結びつく。
すごい。孝さん。
テレビから流れる歌詞を、書き取っている。
息を詰めるようにして、私はその姿を見守った。
「だいたい、こんな感じ。かな?」
ふーっと、息を吐いてペンが置かれた。テレビでは珍しくMASAが話している声がしているけど。
そっちを見るよりも、こっちが……ね。
「孝さん、すごい」
高校、大学と英語を専門に勉強していたような話を聞いたことはあったけど。それって、何年前の話?
一仕事終えたような顔でビールを飲んでいる彼が
「最近、英語ネイティブのお客さんが常連になってくれててさ」
種明かし、と言って説明してくれたことによると。
近隣の高校にALTで来ている先生が、彼のお店を気に入ったらしくって、モーニングを食べて出勤したり、帰り道の一休みに立ち寄ったりしているとか。
「せっかくだから、ちょっと英会話の練習相手になってもらっててね」
それでも三分の一くらいは、単語が出てこなかったと、所々空白になっている部分を、指先でトントンと叩く。
「何度か繰り返して聴けば、全部聴きとれるかな?」
録画の強みだね、って。
バースデーソングから二曲ほど演奏がされたあと。ステージ上にスツールが三脚並んで。
JINとMASA 、それからSAKUの三人が腰を掛ける。
「ん?」
それを見て孝さんが軽く身を乗り出す。
「どうしたの?」
「この前、里香さんが見たステージでも、こんな風に座ってた?」
「いや? 無かったけど?」
「うーん……膝、かなぁ?」
学生時代に傷めた膝の具合が悪いのかも……って心配そうな顔をした彼を他所に、イントロが始まる。
「これは、新曲だね?」
「だったら、ただの演出じゃない?」
孝さんが言うように聞き覚えのない歌は、離れて暮らす我が子への想いを綴ったような歌詞で。
JINと並んでギターを爪弾くMASAがアップになった時に、ピックを持つ右手ですっと目尻を拭ったように見えた。
『いつまでも、ここは君の家だよ』と、歌が終わって。
「ここが君の家……」
昼間、お店で耳にした会話と重なるその言葉が、JINの声と一緒に胸の底へと静かに刺さる。
「この曲をライブで聴くときには……一緒に聞きたいね」
孝さんが遠慮がちに呟いたのは。
十年近い単身赴任の間で初めて聞いた、彼の弱音のようなものだったのかもしれない。
でも、互いの仕事に誇りと敬意を持つ彼だから。
これは、気づかなかったふりで
「じゃあ、その時はこのTシャツを着る?」
冗談に紛らわせる。
「そこは、ちゃんとサイズが合うのを買おうよ」
孝さんも話にのってきたから。
「JINに頼めば、手に入るかな?」
「サインも入れてもらう?」
「……悪目立ちしない?」
想像して顔をしかめた私に、孝さんが笑う。
一緒に笑いながら、温くなったビールを飲み干す。
電話台の端に置かれている、前足の欠けた招き猫に目をやって。
『次の異動。こっちに帰って来れるように、招いてね』と、心の中でお願いをする。
*****
二年後の春。
私を孝さんのお店へと招いてくれたあの黒い招き猫は。
最後に私を、この街へと再び招いてくれた。
END.