中
チーズスフレを待つ間、スマホのメッセージアプリを立ち上げる。
さっき孝さんは『明後日、帰ってくる』って、航の友人に言っていたけど。
明後日の月曜日はまだ、仕事じゃなかったかな?
『帰ってくるのは、火曜日よね?』と、確認のメッセージを航へ送って。テーブルにスマホを置くと同時に、着信音が小さく鳴る、
暗くなりかけていた画面をタップすると、謎の生物がうねうねと踊っている『YES!』のスタンプが送られてきていた。
けれども、素早いスタンプのあとに続く言葉は、なにもなくって。
相変わらず素っ気ない息子の返信に苦く笑いながら、湯呑みを手に取る。カウンター内で作業しているマスターを眺める。
真剣な顔で盛り付けをしているらしい姿は、開店当初から二十年以上経った今でも変わらない。
こちらも相変わらず。"職人さん"だなぁ。
ゴールデンウィーク以来、三ヶ月ぶりになる夫の働く姿を眺めていると、こちらにチラリと視線をよこす。
目が合った瞬間に、彼の表情がふっと解けて。つられたように私の頬も緩む。
ああ、この感じ。
離れて暮らしていても私たちは、深いところで繋がっている。
そっと目を伏せるようにして、帰ってきた実感に浸りながら湯呑みに口をつける。
マスターがカウンターを抜けて、こちらへ来る気配に、顔を上げる。
彼が刻む微かな足音を、無意識に数えて。
秘めたカウントダウンが、テーブルの横でゼロを告げた。
「お待たせいたしました」
私が待っていたのは……スフレか、彼か。
たぶん、両方だろう。
スフレに対する期待を、周りに散らされたカットフルーツが盛り上げて。
カトラリー籠に伸ばした私の手にさりげなく触れた夫の掌の感触に、鼓動が跳ねる。
そして、記憶にあるよりも近い距離から落ちてきたのは、
「どうぞ、ごゆっくり」
いつもこの席で聞く、お約束の言葉。
今日から一週間、この場所で。
ゆっくりと過ごす家族の時間は、私にとって最高の休日。
さて、楽しみにしていたチーズスフレを……と、フォークで端を崩したところで、
「マスター、結婚って何でしょうね?」
カウンター席の男性の声が聞こえた。
『おしゃべりの声は、控えめに』って、このお店の約束事としては若干、声が大きいかな? と思えなくもないけど。
店内に居る"他のお客"は、私だけだし。マスターが、どう答えるのかにも、興味がある。
そっと盗み見るようにしたカウンターの向こう。シンクの辺りに立っているマスターは、洗い物を始めようとした手を止めた、って風情で。
しばらく考える間を置いたあと、
「互いの元へ戻ってくる約束、でしょうか」
いつもよりも、深みを感じる声で答える。
その声が語った言葉に、一つ。
鼓動が跳ねた。
『里香さんがこの先、どこへ転勤になっても。俺の所へ戻ってくるって約束が欲しい』
そんな言葉でプロポーズされたのは、二十五年前のお盆休み。
この冬に、私たちは銀婚を迎えるわけで。
そんな昔のことを孝さんは、覚えていた……のかもしれない。
その証拠のように、ほら。
カウンターからこちらを見ているアーモンドアイが、楽しげに笑っている。
うん。戻ってきたよ。
私はお客の顔でここに座っているし、彼はマスターの顔でカウンターに立っているから、面と向かっての『ただいま』は、まだ言えていないけど。
私にとって"地元"はこの街で、"自宅"はこの家だ。
「仕事で家を離れたとしても、何かの用事ででかけたとしても、必ずパートナーの元へ帰ってくる。そういうことではないかと」
男性の方へと視線を戻したマスターが、重ねた言葉に
「でも、一緒に住んでいるなら、帰ってきますよね? 普通」
納得いかないって声が、異議を唱えるけど。
「逆に、結婚が破綻したなら、一緒には住まないでしょう?」
「あー、それもそうか」
結婚が破綻。
つまりは離婚ってことは、パートナーの元には戻りたくないって、意思表示だよね。
「あ、でも、マスターはここに住んでいるんですよね?」
「ええ。究極の職住近接ですよ」
へぇ。カウンター席のお客は、そんなことも知っているほどの常連さん、か。今までに会ったことのない人だと思うけど。
私がお店に入ってきた時点で、マスターと何やら会話を交わしていた雰囲気だったし。そもそも、『結婚とは?』なんて、人生相談みたいなことは、ある程度の常連客でなければ、しないよねぇ。
スフレのしっかりとしたチーズの香りを楽しみながら、カウンター席のやり取りを眺めていると、
「だったら、マスターの夫婦は、どうなんですか? 仕事場と家が一緒なら、"戻ってくる"必要はないですよね?」
お客が首を傾げて。グラスの中身をストローでかき混ぜる。
「仕事で家を離れるのは、男だけではないでしょう?」
「それは、そうでしょうけど……」
「俺はここで自分の仕事をしながら、外で働く彼女が戻ってくるのを待つのです」
「奥さんの方は?」
「彼女は……」
思わせぶりに言葉を切った彼が、再びこちらに視線をよこして。右手の甲で二回ほど、顎の下を叩くように触れた。
「マスターの俺が、夫に"戻る時"を待ってくれているんですよ」
続けられた言葉に、口へと運ぼうとしていたオレンジがフォークから逃げた。
まさに、今現在。確かに待っているから。
彼の仕草との相乗効果で、年甲斐もなく悶えそうになる。
久しぶりに見た顎の下を叩くあの仕草は、『待つ』を意味する手話のアレンジで。
航が子供だった頃。
お店を覗くことで帰宅を告げる息子に『おかえり』を伝えようとしたマスターは、店内に居るお客さんを慮って手話で表そうとしたらしいけど。手話には『おかえり』って、言葉がなくって、試行錯誤の末に生まれたジェスチャーが家族の言葉になった。
そこに拘るあたりが、彼の職人気質で。私はそんな彼の邪魔をしたくないと、結婚前から思ってるわけだけど。
『彼女は。待ってくれている』と言いながら、同時に『おかえり』だなんて。
ズルいなぁ。
それでも、長年の営業職で鍛えた表情筋を総動員して、平静を装う。フォークから逃げたオレンジを睨んで……深呼吸。
一思いに口へと運ぶ。
ああ。相変わらず、美味しい。
このお店の果物は季節を問わず、ストライクゾーンのど真ん中。
美味しい果物とチーズスフレには、マスターこだわりのブラックコーヒーがよく合う。
一口、二口と楽しむ間に、カウンターを挟んだ人生相談は、佳境を過ぎたらしくて。マスターが洗い物を始める。
よかった。これ以上聞いていたら、照れくささで融けそうだったし。
ホッと小さく息をついて。
持ってきたミニトートから、眼鏡ケースとポーチを取り出す。ポーチの中にはタティングのレース糸とシャトルが入っていて。
マスターの手が空くまでの手慰みに……と、眼鏡をかけて編み図を確認する。
タティングは編む時に手元を見てなくてもできるから、加齢で視力が低下した最近でも、少しずつ編み続けている。
そう言えば孝さんも、『最近、刺し子の針目が揃わない』とか、言っていたっけ。
そろそろ会社の方でも、定年が見えてくるお年頃。次の転勤が最後かなぁ、なんて考えてもいる。それならそれで、こっちに帰って来れるような辞令が出て欲しいな……とも。
手を動かしつつ、口も楽しんで。お皿の上の果物がほぼ無くなったころ。
カウンター席のお客さんが、席を立つ。
お店を出て行くその背中を見送ったマスターが、引き戸が締まるのを待って、カウンターを抜けて。
カウンターの上を、ざっと片付けると
「里香さん、おかえり」
自分用のアイスコーヒーのグラスを持って、私の向かいに腰を下ろす。
「ただいま。孝さん」
やっと夫婦の時間だと、孝さんが嬉しそうに目を細めて。
その目元に刻まれた二本の皺に、改めて互いの歳を感じる。
『外はすごく暑かったよ』『帰りの電車は混んでた?』なんて、他愛のない会話を交わしていて。
湯呑みをテーブルに置くのを待っていたように、私の右手が彼の手に包まれた。
そっと指先が、掌を撫でる。
「里香さん、手が荒れてない?」
「あー、ちょっとね……」
お盆休み前には、どうしても仕事がたてこむ。そこに今週は、トラブルまでが重なってしまって、残業が続いていた。
自然と食生活は乱れるし、手のケアまでは気が回らない感じだったけど。
それを離れて暮らしている孝さんにバレるのは……自分でも、どうかと思う。
「忙しくって、疲れているなら……」
「豚ロース?」
合言葉のように答えると、孝さんが笑う。歳を重ねて渋みを増したような低い笑い声が、こぢんまりとした店内に心地よく響く。
「里香さんが億劫じゃないなら、外食にしようか?」
「出かけるのは億劫じゃないけど、私が作るよ?」
「北隣の駅前に、新しい店ができたらしくってさ」
私の手を離した彼が立ち上がって。カウンターの内側へ回り込むと、一枚のチラシを手に戻ってきた。
二か月ほど前にオープンしたそのお店は、定食屋さんらしい。オススメのメニューが、写真入りで載せられていて、上から二番目にトンカツ定食があった。
「へぇ。こんなお店ができたんだ」
「毎週のようにチラシが入っているからさ。航か里香さんが帰ってきたら、行こうかなと」
その言葉で思い出した。
「さっき、航の友達に話してた、あの子の帰省予定だけど」
テーブルに伏せていたスマホをタップして、メッセージアプリを起動させる。息子との一往復だけのやりとりを呼び出して見せると、孝さんは
「あー、そうか。もう一日、あとか」
と、唸る。左の耳たぶをさわりながら、少しの間、考えて。
「あの友達。『連絡してみる』って言ってたし。そこのフォローは、航に任せた」
あっさりと、丸投げした。