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「XXLサイズだけかぁ」

 『sold out』の文字を恨めしく睨んで、ため息をつく。


 グッズ販売スペースの人だかりは、二年ぶりにこの地を訪れた彼らの人気を示しているようで。

 正直に言って、コンサートグッズを買うつもりは、ほとんどなかった。

 私の"地元"は、彼らの活動拠点近くなんだし。


 ただまあ。

 スマホアクセサリー程度の、ちょっとした物でもあれば、買ってもいいかな? 旅先の思い出くらいの感覚で。って、思ってはいたけど。

 販売カウンターの背後の壁に貼られたポスターに、珍しくTシャツなんか着ているメンバーの姿を見た瞬間、頭の中に物欲が生まれた。


 彼らが着ているあのTシャツ。"織音籠(オリオンケージ)"の流麗なロゴが入ったアレ。欲しいかもしれない。



 ユニセックス物だから、私の身長ならSサイズ。品切れで妥協するとしても、Mだよね。と、ハンガーラックに掛けられた見本品を参考に考えていたのに。

 カウンターにたどりついてみれば非情な、売り切れだなんて。心のなかで『ひどい』と、買い物欲が暴れている。


 売れ残っているXXLサイズは、ポスターに添えられたメンバーが着ているサイズ表示によると、織音籠で一番背が高い、ボーカルのJINが着ているヤツらしい。

 JINと自分の体格差を脳内で比較する。

 私が着たらワンピース……は言い過ぎか。それでも、リラックスウエア状態には、なるだろう。

 背の高い夫が着て、若干大きめ、くらいかな

 JINの兄でもある孝さんのことを考えて。

 年甲斐もなく、頬が緩む。


 どうせなら孝さんとお揃いで。

 XXLサイズを二枚、買おうか。

 先週、ネットショップで注文した"リラックス ステテコ"と合わせて、部屋着にしよう。

 あのステテコ、孝さんがマスターをしている喫茶店で、カトラリーケースに敷かれている布巾とよく似た刺し子モチーフなのよね。



 久しぶりに生で聴く織音籠の音に、明日からのエネルギーをフルチャージしてもらって。

 体内に残る余韻を反芻しながらの帰り道。

 電車に揺られながら、スマホを取り出す。メッセージアプリを立ち上げる。

[コンサート、すごく良かった]

 この地に単身赴任をして、今年で七年目。一日に一度、帰り道にメッセージを送るのが、転勤以来のお約束。


 土曜日の今日、二年ぶりに織音籠のコンサートへ行くって話は、昨日のメッセージで彼に伝えてあった。

[JINも元気そうだったよ]

[よかった。再来週、衛星放送でも流れるって]

 孝さんのお店は、すでに閉店時刻を過ぎていて。すぐに既読と返信がくる。

[今日の録画?]

[いや。ジンが言うには、北海道からのライブ中継って]

 おお。それは見たい。『録画を、お願い』っと。



 結婚から二十年と少し。

 携帯電話の進歩と、それに続くスマホの登場によって、結婚当初に比べてはるかに連絡が取りやすくなった。

 おかげで息子の航が十歳を過ぎた頃、総合職への復帰を会社から打診された時に二の足を踏まずに済んだし、その後の単身赴任にも踏ん切りがついて。

 『里香さんは、やっぱり仕事好きだね』と、笑いながら孝さんも快く、送り出してくれた。

 その頃には既に航が高校生だったことも、大きかったと思うけど。



 『録画しておいたよ』と、孝さんからのメッセージを受け取った翌週。私の会社は、お盆休みに入った。


 一週間の休暇に土日を合わせた、九日間を孝さんが待つ"自宅"で過ごすべく、午前中の特急に乗った。

 途中の乗り換え駅で、お昼を食べて。たぶん自宅へ着くのは、おやつ時。

 そんな内容のメッセージを車内から送ると、ほどなく、『気をつけて、帰ってきなよ』と孝さんからの返信が届く。

 航とのやりとりなら、"了解"のスタンプ一個で終わりになってしまうけど。孝さんは、いつもメッセージを綴ってくれる。

 そしてその言葉に私は、離れて暮らす夫の渋い声を思い出す。

 あと数時間で。

 彼の声が、現実になる。



 真夏の陽射しは、年々厳しくなってきている気がする。

 最寄駅で降りて。駅前のメインストリートから自宅へ通じる裏通りへの角を曲がると、容赦ない照り返しが目に痛い。

 アーケードって、偉大だよね。と、考えながら、日傘を少しだけ前の方へと傾ける。

 時刻は予定通りのオヤツ時なのに。あんなに高いところに太陽があるって、おかしくない?

 日没までに地平へ辿り着けませんよ? と、太陽の運行を内心で心配しつつも、足は我が家へと急ぐ。


 お隣の薬屋さんとの間。

 気候がいい時期には、地域ネコがくつろいでいる短い袋小路にも、さすがにこの暑さでは猫の子一匹おらず。

 裏通り全体が、夏の午睡に微睡んでいるようだった。



 住宅兼店舗の裏へと回って、自宅スペースへの玄関から中へと入る。

 ここは結婚当初、勝手口だった。ベビーカーでの使い勝手が悪くって、航が生まれた頃に玄関へとリフォームをして。同時に店の方の入り口も、引き戸のレールをフラットにして、バリアフリーになった。

 おかげで、近隣の常連さんがお年を召した昨今では、杖をつきながらでも入りやすいと、喜んでもらえているらしい。


「ただいまぁ」

 店のバックヤードを兼ねた厨房スペースへと、声をかける。自宅スペースとの間仕切りは、五センチほど開いていて。

 孝さんにしては、珍しいと思いながら、そっと閉めておく。

 最近、時折こんなことがあるのは、少しずつ彼も歳を取ってきたせいかもしれない。

 息子がこの春から社会人だからね。私たち夫婦も歳を取るわけだ。



 持ち帰った荷物を簡単に片付けてから、玄関に施錠した私は、暖簾の掛かった店の入り口へと回る。

 紺地に白い刺繍で"きっさ"と書かれた暖簾の端をそっと撫でる。

 この暖簾を彼が作っていた時。まだ私はただのお客、だったんだよね。

 柄にもない感傷にひたりながら、引き戸に手をかけて。

 手が忘れていない力加減で戸を開く。


「いらっしゃい」

 私を迎える低い声に

「こんにちは」

 挨拶を返すのが、この店で私とマスターとのお約束。


 そして目だけで微笑んだ孝さん(マスター)は、カウンター越しに、店内へと手を伸ばして。

 『いつもの席へどうぞ』と、奥から二番目の席へとジェスチャーで私を誘った(いざなった)


 店内には二組、三人の先客がいて。

 三十代と思しき男性が一人でカウンター席に。私の隣のテーブルには航と同年代のカップルがいた。

 カウンター内のマスターはどうやら、カウンター席のお客と会話を交わしていたところだったらしい。

「少し、失礼しますね」

 と、断りを入れてカウンターから出てきた。



 テーブルにお冷やをセットする彼に、あえて

「マスター」

 と呼びかけて。

「ここの子は?」

 席に着いた瞬間から気になっていたことを訊ねる。


 私が昔から気に入っているこの席には、黒い招客の招き猫が窓際に座っていたのに。

 今日は一輪挿しに挿されたクレマチスが、ニャンコの代わりに店内を眺めていた。

「ああ、ごめん。そこの招き猫、一昨日、落としてしまって」

「あー。壊れちゃった?」

「左手の先が……ね。お盆休みに神社に納めて、新しい子を迎えようかと」

 そっかぁ。とうとう、あのニャンコも引退か。

 私をこの店へと導いてくれた近所の黒ネコとよく似た招き猫。当時のスケジュール帳にスケッチしたから、絵姿は残ってるけど。

 前足だけにタビを履いたあの地域ネコも、航が小学生の頃には、姿を見なくなってしまって。数年前からは、右の前足だけにタビを履いた二代目が、このお店の前を定位置に定めている。

 いつまでも変わらないように見える裏通りも、気づけば時が流れてしまっている。



 そんな会話の間にコースターとグラスをセットしたマスターは、お盆の下から『要る?』って感じにチラリとメニューを見せるけど。

 ここへ帰ってきたらまず頼むモノは、決まっている。

「コーヒーと、スフレを」

「やっぱり、スフレなんだ?」

 私の注文に柔らかく微笑んだ彼の声も、笑いを含んでいて。

「そう。やっぱりスフレ、なの」

 だって、これは私のストライクゾーンど真ん中。

 ブラックコーヒーとチーズスフレの組み合わせは、初めて来た時から、このお店のメニューで一番のお気に入り。


「では、しばらくお待ちを」

 そう言い残してカウンターへと戻るマスターの後ろ姿を眺めながら、おしぼりを使って。お冷のグラスに手を伸ばす。

 グラスの下から現れたこぎん刺しのコースターは、涼しげな雪模様。

 ああ、帰ってきた。

 彼の手作りであるコースターを、そっと指で撫でて。

 口の中で『ただいま』と、呟いた時。


 隣のテーブルから、カップルが立ち上がった。



 ヤカンを火にかけたマスターが、

「失礼ですが、お二人は航の……?」

 会計をしつつ訊ねる。

「学生の頃の友人です」

 隣のテーブルの二人は、やはり息子と同年代で間違ってなかったらしい。

 『え? 航って?』って流れにならず、すんなりと会話が続いていることから考えて、航からこのお店のことを聞いて来たのだろう。

「それは……いつも息子が、お世話になってます」

「いえ、こちらこそ」 

「航は明後日には、こっちに帰ってくるようですよ」

「あ。そうなんですね。じゃぁ、また連絡してみます」

 ほら、やっぱり。

 仲が良かった友達、って感じよね。


 会計を終えて。

 『内緒の、お土産です』の言葉を添えてマスターが差し出した小さな袋を受け取った女の子の方が、お店を出る瞬間にふっと振り返って。

 目が合った私に小さく会釈をよこす。

 初めて会った息子の"女友達"に、親しみと『また来てね』の想いを込めて私は、小さく手を振った。



「お待たせしました」

 声と一緒に、新しいコースターがテーブルにセットされて。コーヒー用のお湯飲みがそっと置かれる。

 まずはコーヒー。そのあと、お菓子が出てくるのをゆっくり待つのが、このお店の約束事で。

 さっきまで航の友人の男の子が座っていた椅子の向きを微妙に整えているマスターを眺めながら、両手で包み込んだお湯飲みにそっと口をつける。

 湯気を先導に、一口。


 ああ。帰ってきた。

 夫の待つ、このお店に。

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