捨てるべきもの、捨ててきたもの
ぴちちち。小鳥の歌うような鳴き声が外から聞こえてくる。清々しい朝。私は先日袖を通したものによく似た白い簡素なドレスを身に纏っていた。王家の紋章が刻まれたペンダントは、今度は部屋に置いておく。もう必要のないものだから。
「――神殿から、お迎えが参りました」
「はい、ただいま向かいます」
部屋に呼びに来た使用人の顔も、どことなく暗い。
我が儘の少ない、病弱なお姫様。周りからの評価はなんとなく分かっている。好かれても嫌われてもいない、言わば、いてもいなくてもあまり変わらないような娘だった。私は、部屋からほとんど出たことがなかったから。
少しだけ、送り出すためにパーティを開くとかいう話が出ていた。聖女にはそんなもの必要ないと突っぱねたのは、神殿側の人間だ。というかエリアスだ。神殿にいる人って少ないから、エリアスくらいしか仕事をしている人はいない。ちなみに、私も同意見である。
何かしてやりたかった。と、お父様はそう言った。だがしかし、本当に十分なのだ。想いを聞けただけで、私はもう満足だ。(本当に? ……本当に)
背筋を伸ばして、出入り口まで向かう。盛大な見送りなんてものは必要ない。お父様とユリシーズだけが、上から手を振っていた。少し遠く影になっている顔は、見えない。見たくもない。
嘆かれても、悲しまれても、私にはもうどうしようもないのだから。
門の外には、質素な馬車が一台。その前に、先日顔を合わせたばかりのエリアスが立っていた。
「……本日はこちらまで出向いていただき、感謝申し上げます」
「いいえ、あなた様は聖女なのですから、そのように畏まらないでくださいませ」
礼をすると、どこか慌てたような様子で拒否された。もちろん顔にはでていないが。しかし、先日はそんなこと言われなかったが。
――ああ、正式な聖女として認められたからか。そういえば、一度目のときも似たような感想を抱いていた。わりとどうでもいいことなので忘れていた。
最初は、偽物や感違いの可能性を考えていたからこその態度だったのだろう。なにせ、聖女の実態に関して知っている人間は意外と少ない。偉大で、栄誉なことだと。ほとんどの人々がそう思っている。
聖女が体の良い生贄だと知っているのは、神殿と王族だけ。ゆえに、聖女に選ばれたと騙る人間も多いのだから。……たしか、多かったはずだから。
「……はい。では、そうしますね」
笑顔を向けて、馬車に乗り込む。エスコートなんて無いことは知っていた。どうすれば良いか分からなくて戸惑ったのは、一度目の私だ。
彼に隙を見せないようにする。目下やるべきことはそれくらいだ。死ぬことを受け入れたと、すぐに死ぬ娘なのだからと、彼に思ってもらう。
温かい手のひらも、優しい言葉も、いらない。
馬車には、エリアスも乗ってきた。男と女が二人きり。ここでなにが始まるって? 決まっているでしょう。
「……マリーアンナ様におかれましては、今の名を捨てて頂きたく思います」
正式な聖女としてのあれそれですよ。色っぽいことがあるはずがない。私はまだ齢十三の小娘だ。何かがあったら彼に対する目が変わる。
名を捨てろ、と。まあ、一度目のときも同じことをした。今となっては、そもそもマリーアンナと呼ばれることに違和感さえある。
彼の言葉を受け、用意していた答えを口にする。
「では、これからはマリーと名乗らせていただきますね」
だって、マリーアンナは死んだのだ。あの光に満ちた聖堂で。無垢で愚かなマリーアンナは死んでしまった。私にとって、マリーアンナは死者でしかない。
あまりにとんとんと進んだ話に驚いたのか、彼は少し目を大きくする。微笑みかけてから、私は視線を外にずらした。
聖女は、正式な認定を受けた後、神殿で暮らすことになる。そして、聖女であること以外のすべてを捨てなければならない。
名前も、姓も、家族も友も、置いて行く。そして、いつか来る瞬間のために、そのためだけに。この命を。
「……マリー様は、聖女の役割についてご存知ですか」
「存じております」
視線を向けることはしない。表情を見ないようにしていると、彼の声は案外感情豊かだということが分かる。
彼は、戸惑っていた。私の態度に、私の境遇に。そして、死を突きつけられたはずの少女の冷静さに。
「女神様に与えられた命、いと尊き御力の欠片を、扉に捧げるのでしょう」
臭いものに蓋をした。その蓋が開かないように、重しを乗せる。開かないように。けしてけして、向こうから溢れてこないように。隠して。押さえ込んで。
「地獄が溢れてこないように」
役割。百年ごとに壊れかける、扉の補強だ。元々は大きな穴が空いていたらしいが、少なくとも六百年は前の話。今生きている私たちには知り得ないことだ。女神様がそこに扉を造り、穴は一見なくなった。
扉で塞いだ。私は扉と呼んでいるが、正しくは蓋だったかもしれない。それはまあ、どちらでもいいことだ。
向こう側がどうなっているかは知らない。ただ、もしかしたら、こちらにとっては瘴気にまみれた地獄のようなものだとしても。
(世界にとってしたら、あんなもの無いほうが正しいのかもね)
女神様は、知っているのだろう。だから、それでいい。
「感心しました。良く理解しているのですね」
彼の顔に視線を戻す。感心した、なんて思っていなさそうな無表情だった。思わず苦笑する。
「……部屋から出られなくて暇だったので、知識だけはあるんです」
「立派なことだと思います」
探り探りの会話は、思ったとおり弾まない。弾んでもらっても困る。彼にとっての私は聖女以外の何者でもない。そう、思ってもらえるように。
馬車の窓から見る景色は、生き生きとしていた。皆が生きている。建物は融けていないし、人々は血を吐いて倒れていない。
扉が開いた先のことなんて、誰も知らないし、想像もしていないだろう。穏やかな日常がそこにはあった。
「全部、救う」
彼には聞こえないように呟く。手の届く範囲すべてを守り抜くのだと。最期のときに、後悔だけはしたくないから。あんな後悔はもうしたくない。
会話は完全に途切れてしまった。がらがらと車輪の回る音と、馬の蹄の音、それだけが響く中で、神殿につく時をぼんやりと待っていた。