聖女の日記
神殿の方に伝えると言って、彼は足早に帰って行った。まったく、親交を温める暇もない。呑み込んでいたため息を吐き出し、紅茶を飲んだ。あまり味を感じなかった。そうとう緊張していたらしいと、改めて実感する。
自分自身のためだ。仕方がない。それは理解も納得もしているのだが、自分のひ弱さに嫌気がさす。
「……部屋に戻ります」
小さく声をかけ、歩を進める。後ろでひどく小さな、私には聞かせるつもりがなかっただろう台詞が、耳に届いた。
「――姫様も、おかわいそうに」
ぱたん。思いの外軽い音を立てて扉が閉まる。同時に、心の奥底に黒黒としたなにかが一滴落ちた。水の中に染料を落としたときのように、ゆっくりと広がっていく。吐き気がした。
顔を伏せ、ぎりぎりはしたないと言われない勢いで部屋に戻る。そうでもしないと、当たり散らしてしまいそうだった。喚いてしまいたかった。可哀想なんかじゃないと、そう叫びたかった。いや、そうしてもまだ十三の子供なんだ、許されることだろう。
きっと、私のプライド以外が、許すだろう。
部屋の扉を思い切り開け、同様の勢いで後ろ手に閉めた。扉に背をつけ、膝を抱える。
みっともないな。と、思った。
「……本、読もうかな」
呟いて、先程受け取った本の一ページ目を開く。別に心から読みたいと思ったわけではない。気を紛らわせる何かが欲しかっただけだ。そっと目を滑らせる。個性的な、勢いのある文字が目に入った。
『死んだと思ったら生きていた。女神様のお導きらしい。聖女、つまりは体の良い人柱になってくれと頼まれた』
一人目の聖女の記した物。読むともなしにページを捲り、少しすると、少女じみた丸く丁寧な筆跡に変わる。
『世界の命運だなんてものを背負わされるなど思っていませんでした。腹立たしい。扉に封じ込められたものが何なのかは知らないけれど、この世界すべてを滅ぼすなんて馬鹿げている』
二人目。明らかに筆跡が変わる直前、ひどく荒っぽい文字が一言、『完全に消すことは諦めた、それでも、私にできることはしてみせる』と、決意を記していた。
その次から、流れるような筆跡に。
『この国の囲いを造ったのが前聖女だと知って驚きを隠せません。そして、山を造るような人が消すことを諦めるような存在があることも。やはり世界は素晴らしい未知に満ちている』
これが三人目。いくらかページを捲ると、また文字が変わる。神経質そうな、細い文字だ。その文字は、少し歪んでいた。
『なぜ私だったのでしょう。どこにでもいるような女でした。結婚の約束をしていて、もう衣装も決めていたというのに』
恨み言。怨嗟。嘆き。そんな鬱々としたものを綴った後、筆跡の変わる直前、不意に文字が整う。『それでもきっと、意味がない事なんてないのでしょうね』と、私は幸福だったの一言。四人目。
次の文字は、特徴的な右下がりの形をしていた。癖が強い。
『私は幸福な人間なのだと自負しています』
ぱらぱらと、ちゃんと読むこともせずに紙を捲る。一度、筆圧が急に強くなったところがあった。そこには、感情のままの言葉。『私は、自分をただの犠牲だとは思いたくない。信じている。きっと、きっといつか、聖女がいなくても良くなる日が来ることを。これは、そのいつかのための一歩だ』五人目。
そして、見慣れた文字が表れた。見慣れた、自分の字だ。
『私はこの世界を愛しています』
からっぽな言葉。薄っぺらい覚悟。確かに書いた覚えのあるそれらを眺め、小さく笑みを零す。
そして、ペンをとった。書きたいことも書かなければならないこともないけれど、なんとなく。今なら違う言葉が書けるのではないかと思ったのだ。
「……きっと、私たちのことを誰も理解はしないでしょう」
気高きあなた、という文面を思い出した。とんでもない話だ。私たちは、少なくとも私は、気高くなんか無いのだから。ただ、誰かの明日を信じることに決めただけ。
強くもなく、優しくもなく、世界のすべてを背負うこともできはしない。死んでも、女神様に出逢ったあの時に戻されるだけの私たちだ。繰り返すことを恐れただけの弱さを、それでも世界は正義と呼ぶのか。
「私は、この世界のために死んでみせましょう」
一言、宣言。それだけを記して、本を閉じた。気分はなんとなく落ち着いた。歴代の聖女が個性的なお陰だろう。褒めてはいない。褒めない。
「――マリーアンナ、少し、いいかい」
背中の方から、お父様の声がした。ノックの振動が伝わってきて、今の体制を思い出す。音を立てないように本を置き、ソファに腰を下ろす。
「はい、大丈夫です」
お父様は、苦いものを食べたことを悟られないようにしようとしたような、変な顔をしていた。使用人も下がらせていたので、珍しくも二人きりである。
お父様は何か言いたげに、何度か口を開いては閉じを繰り返していた。私からは何も言わないでおく。
「……神殿は、なんと?」
「私を正式に聖女として認めるそうです」
「そう、か」
こういうとき、自分の口があまり上手くないことを呪いたくなる。どんな言葉も彼を傷つけるだけの結果に終わりそうで、なにも言えない。父娘としての会話ができなくなってしまうだろうなんてこと、分かっているのに。何一つとして私は後悔したくないのに。
お父様は、やがて下手くそに笑ってみせた。国王陛下とは思えないくらい、下手くそに。最愛の娘に向ける、父親の顔だった。
「……お前は、生まれつき身体が弱かったから、いつか喪う日が来ることは覚悟していた」
「そう、ですか」
「ああ。医者なんかは、十歳まで生きることはないだろうと」
彼は俯いた。テーブルに、ぽつぽつと水滴が落ちる。気が付かないふりをしておこう、と思った。
「……これは、幸いなことなのだろう。死の定めにあった娘と、こうして言葉を交わすことができる。だが、だけれども」
「――お父様」
私は、彼のそんな想いを『知らなかった』。一度目の私は、彼とこんな話をすることはなかったから。己が聖女に選ばれたと知ってから、部屋に籠もって泣いてばかりいたわたくしは。
「なぜ、お前が選ばれてしまったのかと、そう思う」
必要な犠牲。必要最小限の、犠牲。初めて女神様に出逢ったときをふと思い出した。
(あなたたちの祈りは、まっすぐ届いたの。曲げたのは私。だから、憎むなら私を憎んで)
死にたくないと願ったから。誰かが私に、死んでくれるなと祈ったから。だから、私は聖女なのだろう。
「私は、満足していますよ」
笑う。この顔はお父様からは見えないだろう。それでいい、とぼんやり思った。
「お父様のことも、ユーリのことも、この国のことも、産まれてすぐ死ぬはずだった私が守れるのですから」
嘘ではない、けれど、本音でもない。死にたくないと叫んだ少女は、今も私の中にいる。それでも。
「私は、聖女に選ばれたことを、嘆くつもりはありません」
だから、大丈夫なのだと。愛してくれてありがとうと、胸を張ってそう言った。お父様は、肯定とも否定ともつかない返事をした後、ただ一言。
「私は、お前のために何かしてあげたかった」
何でもしてあげたかったのだと、くしゃくしゃの顔で笑ってみせた。