初対面(再会)
そして、私が目を覚ましてから。あるいは、世界が滅んで巻き戻ってから、五日が経った。
ユリシーズは時折顔を見せては当たり障りのない話をしてくれたし、お父様もまた、何かを堪えるような表情で私に会いに来ていた。聖女に関する話は、皆が意識的に避けていたように思う。
記憶とは打って変わり、平穏な日々だった。とはいえ、一度目の私にとって平穏でなかったのは、ままならない心のせいだったが。自分の運命を受け入れ、現実を受け止めて、いつも通りを演じる私は滑稽なのかもしれない。
それでも、お父様はやはり優しくて、ユリシーズは可愛くて、この場所は私を守る揺り籠のようでさえあった。
こんな日々がいつまでも続いてほしい。なんて馬鹿なことを、きっと私以外の皆が思っていたことだろう。
(……いい夢を見ていた気分)
先程、沈痛な面持ちをしたお父様……いや、国王陛下が、私の部屋に訪れた。神殿の方から、私にお客様が来るという。
さて、ここからが『二度目』の私における本番だ。使用人に髪を整えてもらい、正装に近いシンプルなドレスに着替える。王家の紋章の入ったペンダントは、少し考えてからドレスの下に身につけておいた。
いっそ戦場にでも向かう気分である。まあ、この国に戦場を経験した人なんてほぼいないけれど。そこはまあ気分、気分。
彼と相対するのは、私にとってそれほどの覚悟がいることだっていうだけだ。『彼』。そう、私の記憶の通りならば、今日ここに来るのは。
「……マリーアンナ姫様、神殿よりお客様が参られました」
「はい、ただ今参ります」
思考を遮るように、侍女の呼び声が扉の向こうから聞こえてきた。考えていてもしょうがない。客間で待っているだろうその人のもとへ足を進めた。
(可哀想だとは思いません。それは、あなたへの侮辱になる)
いつかの声を思い出した。涙を堪えることも、声を上げて泣くこともできなかった自分を思い出した。神殿に置かれた純白の女神像が見下ろすそこで、彼は困ったような不器用な顔をしていた。
別に、自分が人から見て可哀想だと思われるということは知っていた。しかし、この人生を悲観したことも絶望したことも、ない。ちっぽけなプライドだ。哀れまれることなんて御免だった。見下されるなんて反吐が出る。それだけだ。
だからこそ、私はあの時、彼に恋をしたのだろう。
客室の扉を開けた瞬間、深い青の瞳と目が合った。整った顔を一分も動かすことないまま、彼が腰を上げ、丁寧に礼をする。一つに編まれた長い銀色の髪が音も立てずに背を滑り落ちた。
「中央神殿より参りました、神殿長のエリアスと申します。お目にかかることができて光栄です、マリーアンナ様」
心臓が、大きく一つ音を立てた。間違ってもときめきとかではない、軋むような嫌な音だ。悟られぬよう、笑顔を取り繕う。彼――エリアスは、見慣れた無表情だったというのに。
「ご丁寧にありがとうございます。ご存知のようですが、私は第一王女のマリーアンナと申します」
礼を返した後、客室にある装飾の少ないテーブルへと向かう。観察するような冷たい瞳が、じっと私のことを追いかけていた。
腰を下ろすまでの数秒がひどく長く感じた。重圧がひどい。ため息を呑み込んで、話を促す。彼は一度も口をつけていないティーカップを横に動かし、口を開いた。
「女神様のもとに迎え入れられたと言うのは、真実ですか?」
いきなり本題に入りなさった。『そういう人』だなんてことは分かっていたから気にはしないけども。
「はい、誓って」
誓って? 心の中で自分に問いかける。一体、何に。女神様に?
「では、こちらをご覧ください」
「……本、ですか?」
彼は、簡素な表紙の本を差し出した。そこには、『女神レグレーテに捧ぐ』とだけ記されている。癖のある右上がりの文字だった。
いささかの緊張を孕んだ空気の中、彼はその文字の上に指を置いた。
「何と書かれているように見えますか?」
「女神レグレーテに捧ぐ、と書かれています」
正直に答えると、彼は目を軽く見開いてみせる。
この文字は、『聖女』にしか読めないものだ。それ以外の人間には、何も書かれていないように見えるらしい。一度目の私はそう言われたし、多分これからそう伝えられる。
「……マリーアンナ様。いえ、偉大なる聖女様」
少しだけ沈黙した後、彼は目を細めた。本は、私の方に手渡される。『女神レグレーテに捧ぐ』。その少し下、角張った神経質そうな文字が小さく綴られていた。
(いつの日か、気高きあなたが救われますように)
あなたとは、誰だったのだろうか。私か、いつかの聖女か、女神様か。はたまた。
闇を纏った大きな鎌を思い出す。それを握り締める、誰かの手を覚えている。はじまりの話。女神様が語って聞かせた、悲劇のこと。あなた。
考えてもどうしようもないことだ。なんだこの文字、聖女の心を惑わせる為の罠か何かなのか。ひどい。
内容は覚えているので、今開くのは止めておく。そもそも、彼と接するのに精一杯なので読みたくはない。ただの日記なんだから。
「神殿は、あなたを女神様に選ばれた聖女だと認めます」
尊いものを見るような、眩し気な表情だった。
さて。私の幸せな終わりのために、私は彼に嫌われたい。できるなら、どうでもいい存在になりたい。私の大きな心残りのうち、一つがそれだ。
誰かに愛されるなんて、誰かを愛するなんて。置いて行くと分かっている側からしたら悲劇でしかない。だから、私は、彼に恋なんてしない。したくない。
「はい、ありがとうございます」
不遜であれ。弱さを見せるな。彼にとって助けなければならないようなか弱い少女であってはならない。聖女であれ。強く気高く傲慢に見えるように。
だから、笑った。
泣きじゃくる誰かの声なんて、もう聴こえない。