弟と私
重苦しい沈黙に閉ざされていた部屋に、どたばたとうるさい足音が響いてきた。次いで、勢いよく扉が開け放たれる。
「目が覚めたのですね、姉上!」
「……ユリシーズ、あなたとて王族の一員なのですから、そのように騒がしくするものではありませんよ」
ふわふわとした金色の髪を乱し、ユリシーズ――私の弟は、部屋に飛び込んできた。そのままの勢いで、彼は私の寝台に歩み寄る。
身体を起こしている私を見ていくらか表情を綻ばせたが、父の沈鬱な顔に戸惑っている様子だ。
「姉上、お身体は辛くありませんか? 咳は? 頭痛は? 倦怠感などはないですね?」
「身体は問題ありませんよ」
「――身体、は?」
聞き返す声と同時。お父様は、足音を立てて扉に向かう。いつも優雅な動作を心がけている彼らしくない挙動だ。そこに心内の動揺が表れているようで、胸が小さく痛んだ。
「……マリーアンナ、私は、お前の医者と話してくるよ」
「分かりました。ご心配をかけて申し訳ございません」
「いいや、気にしないでおくれ」
扉に手をかけ、お父様は振り返る。その顔に浮かんでいたのは、無理矢理取り繕ったような笑みだった。
ばたん。少し大きな音を立てて扉が閉まる。ユリシーズは、不思議そうに扉の方向を眺めていた。
「……姉上は、大丈夫ですよね?」
漠然とした質問だった。しかし、ある種的確な疑問であったとも言える。どう答えるのが正解なのか、私にはよく分からない。
ただ、嘘をつくのは嫌だった。
「ねえ、ユリシーズ。この国は平和ですね」
ユリシーズは、明らかに話を逸らされたことに対し、怪訝な顔をする。それに、曖昧に微笑んで返した。
「……それがどうかしたのですか」
「平和なんですよ。陸の孤島とはうまく言ったものです」
この国――ヘリクリサムは、山に覆われている。高い山脈は、他の国へ行くこともこちらへ侵入することも拒んでいる。ぐるりと円状に囲むそれは、まるで。
「まるで、何かを封じ込めているようではありませんか」
それは中央神殿の真下にある、大きな大きな扉。その向こう側。人の罪であり神様の絶望。
封じ込めている。万が一のとき、この国ごと押さえ込むために。この世界はそんな風にできている。この世界は。この国は。
「それがどうかしたのですか?」
不可解そうな顔をするユリシーズの頭に手をやり、ゆっくりと撫でる。もう、そんな子供じゃない。いつもならばそんな文句が出てくるはずの口は閉ざされたまま、彼は私の手を受け入れた。
「私は、女神様にお会いしたのです」
「女神様、に?」
「はい。……ユリシーズは聡い子だから、もう分かりますね」
ユリシーズの顔が固まった。女神様にお会いした。あるいは、女神様のもとに迎え入れられた。……それは、同じような意味の言葉だ。だって、そこは魂が最後に至る場所。追憶と共に吐かれるはずの言葉。
生きている人間が口にするはずのない、言葉だ。
「……姉上、まさか。姉上、嘘ですよね」
縋るような声だった。首を横に振る。年若い弟に現実を突き付けるのは心苦しいが、どうせすぐ分かることだ。それに。
(……ユリシーズが、聖女になった私と会うことはない)
だから、いっそ冷たい女だとでも思ってほしい。嫌いになって、その先ですぐに忘れてしまえばいいと思う。
私は、出来る限り幸せな最期にしたいのだ。私自身の後悔が少なくなるように、どうせ死ぬのなら満足できるように。言葉の通り、自己満足だ。
「いや、いやです。姉上、……マリー姉様」
まるで幼い頃のような呼び方をするものだから、少しだけ笑ってしまった。可愛い可愛い私の弟。
母が亡くなってから、私はちゃんとこの子の心を埋めてあげられていただろうか。ユリシーズは、母がいなくて寂しくはなかっただろうか。私はユリシーズを愛していた。大切な家族。弟。ああ。
「大丈夫ですよ、ユーリ」
潤んだ瞳が、いっぱいに見開かれた。どうか、釣られてそう呼んだだけだと思ってくれればいい。何年も口にしていない、私からしてみれば十年ぶりの呼び方だ。懐かしい。懐かしくて、愛おしい。
「何が、大丈夫なんですか……!」
「私は、自分が幸福だと分かっておりますから」
胸を張れ。諦念でもいい。笑え。たとえ嘆いたとて、世界に手を振るのだ。
私は、幸福だ。そう、高らかに謳ってやる。歴史には刻まれぬ記憶の縁で、私たちは確かに悩み、考え、生きた。それを幸せと呼ばずなんという。
ユリシーズは、くしゃりと顔を歪めた。それでも、否定の言葉はもう言わなかった。きっと、それが答えだ。
しばらくの沈黙の後、明らかにこのことから話をそらすように、ぽつぽつと会話をした。
私は二日ほど意識を失っていたとか。庭の薔薇がそろそろ咲きそうだとか。くだらないことだ。しかし、私にとっては幸せな時間だ。だから。
(私は幸福な、人間だ)
そう思っている。そう、思えた。
ふと会話が途切れたときに、もう一度ユリシーズの金髪をそっと撫でてみた。これで最後になるかもしれない。なんて、私も彼も分かっていただろう。聡い子だ。私とは違い、賢い子だった。
痛みを隠して笑う顔に、私もまた似たような顔をしていたのだろうと、そんなことを考えた。