表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/68

弟と私


 重苦しい沈黙に閉ざされていた部屋に、どたばたとうるさい足音が響いてきた。次いで、勢いよく扉が開け放たれる。


「目が覚めたのですね、姉上!」

「……ユリシーズ、あなたとて王族の一員なのですから、そのように騒がしくするものではありませんよ」


 ふわふわとした金色の髪を乱し、ユリシーズ――私の弟は、部屋に飛び込んできた。そのままの勢いで、彼は私の寝台に歩み寄る。

 身体を起こしている私を見ていくらか表情を綻ばせたが、父の沈鬱な顔に戸惑っている様子だ。


「姉上、お身体は辛くありませんか? 咳は? 頭痛は? 倦怠感などはないですね?」

「身体は問題ありませんよ」

「――身体、は?」


 聞き返す声と同時。お父様は、足音を立てて扉に向かう。いつも優雅な動作を心がけている彼らしくない挙動だ。そこに心内の動揺が表れているようで、胸が小さく痛んだ。


「……マリーアンナ、私は、お前の医者と話してくるよ」

「分かりました。ご心配をかけて申し訳ございません」

「いいや、気にしないでおくれ」


 扉に手をかけ、お父様は振り返る。その顔に浮かんでいたのは、無理矢理取り繕ったような笑みだった。

 ばたん。少し大きな音を立てて扉が閉まる。ユリシーズは、不思議そうに扉の方向を眺めていた。


「……姉上は、大丈夫ですよね?」


 漠然とした質問だった。しかし、ある種的確な疑問であったとも言える。どう答えるのが正解なのか、私にはよく分からない。

 ただ、嘘をつくのは嫌だった。


「ねえ、ユリシーズ。この国は平和ですね」


 ユリシーズは、明らかに話を逸らされたことに対し、怪訝な顔をする。それに、曖昧に微笑んで返した。


「……それがどうかしたのですか」

「平和なんですよ。陸の孤島とはうまく言ったものです」


 この国――ヘリクリサムは、山に覆われている。高い山脈は、他の国へ行くこともこちらへ侵入することも拒んでいる。ぐるりと円状に囲むそれは、まるで。


「まるで、何かを封じ込めているようではありませんか」


 それは中央神殿の真下にある、大きな大きな扉。その向こう側。人の罪であり神様の絶望。

 封じ込めている。万が一のとき、この国ごと押さえ込むために。この世界はそんな風にできている。この世界は。この国は。


「それがどうかしたのですか?」


 不可解そうな顔をするユリシーズの頭に手をやり、ゆっくりと撫でる。もう、そんな子供じゃない。いつもならばそんな文句が出てくるはずの口は閉ざされたまま、彼は私の手を受け入れた。


「私は、女神様にお会いしたのです」

「女神様、に?」

「はい。……ユリシーズは聡い子だから、もう分かりますね」


 ユリシーズの顔が固まった。女神様にお会いした。あるいは、女神様のもとに迎え入れられた。……それは、同じような意味の言葉だ。だって、そこは魂が最後に至る場所。追憶と共に吐かれるはずの言葉。

 生きている人間が口にするはずのない、言葉だ。


「……姉上、まさか。姉上、嘘ですよね」


 縋るような声だった。首を横に振る。年若い弟に現実を突き付けるのは心苦しいが、どうせすぐ分かることだ。それに。


(……ユリシーズが、聖女になった私と会うことはない)


 だから、いっそ冷たい女だとでも思ってほしい。嫌いになって、その先ですぐに忘れてしまえばいいと思う。


 私は、出来る限り幸せな最期にしたいのだ。私自身の後悔が少なくなるように、どうせ死ぬのなら満足できるように。言葉の通り、自己満足だ。


「いや、いやです。姉上、……マリー姉様」


 まるで幼い頃のような呼び方をするものだから、少しだけ笑ってしまった。可愛い可愛い私の弟。


 母が亡くなってから、私はちゃんとこの子の心を埋めてあげられていただろうか。ユリシーズは、母がいなくて寂しくはなかっただろうか。私はユリシーズを愛していた。大切な家族。弟。ああ。


「大丈夫ですよ、ユーリ」


 潤んだ瞳が、いっぱいに見開かれた。どうか、釣られてそう呼んだだけだと思ってくれればいい。何年も口にしていない、私からしてみれば十年ぶりの呼び方だ。懐かしい。懐かしくて、愛おしい。


「何が、大丈夫なんですか……!」

「私は、自分が幸福だと分かっておりますから」


 胸を張れ。諦念でもいい。笑え。たとえ嘆いたとて、世界に手を振るのだ。

 私は、幸福だ。そう、高らかに謳ってやる。歴史には刻まれぬ記憶の縁で、私たちは確かに悩み、考え、生きた。それを幸せと呼ばずなんという。


 ユリシーズは、くしゃりと顔を歪めた。それでも、否定の言葉はもう言わなかった。きっと、それが答えだ。



 しばらくの沈黙の後、明らかにこのことから話をそらすように、ぽつぽつと会話をした。

 私は二日ほど意識を失っていたとか。庭の薔薇がそろそろ咲きそうだとか。くだらないことだ。しかし、私にとっては幸せな時間だ。だから。


(私は幸福な、人間だ)


 そう思っている。そう、思えた。


 ふと会話が途切れたときに、もう一度ユリシーズの金髪をそっと撫でてみた。これで最後になるかもしれない。なんて、私も彼も分かっていただろう。聡い子だ。私とは違い、賢い子だった。

 痛みを隠して笑う顔に、私もまた似たような顔をしていたのだろうと、そんなことを考えた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ