世界の終わり、聖女のはじまり
一話2000〜3000文字程度を予定しています。
(ああ、これで終わりか)
赤黒い瘴気が、あるいは溢れ出た地獄が、世界を覆い尽くそうとしていた。ひとの嘆きが聞こえてくる。叫び声、悲鳴、断末魔。あるいは、怨嗟、呪詛。
どうしようもない現実を突きつけるように、私の罪を知らしめるように。ああ、これは、聖女が命を賭して止めなければならなかったものだ。私の死を持って、食い止めることができるはずだったのに。
「ば、っかだなぁ、わたし」
生きたいと願った。死にたくないと望んだ。その結果がこれだ。ずっと繋いでいた手を離す。繋いでいたはずの手は、どこにも見当たらないけれど。だったら、あなたが隣にいたことも夢だったらいいのに。
なんて、地を濡らす赤が目を逸らすことを許さない。あなたという存在は、もうぐずぐずに崩れてしまった。地面の赤。水溜まり。肉片。
――ああ、この世界は、もう駄目だ。
「だけれども、やはり、この世界を」
あなたのような優しい少女が犠牲にならなければならない世界なんて間違っている。そんな叫びを思い出した。果てのない空を思わせる青い瞳が、どこまでも深い慈愛を持って私を見つめていたのを。そう言ってくれたその人のほうが優しいと、私はよく知っていた。
「私はきっと」
だから、逃げようと、彼は言った。差し伸べられた手は躊躇いに震えていたけれど、言葉だけは苦しいくらいに真っ直ぐだった。ああ、その手を取ったのは私で、やはり間違っていたのは私なのだ。
「愛していたかった」
男性にしては長い髪を三つ編みに纏めていた後ろ姿。神官らしく、細身の身体。その背で、彼はきっと全てを背負おうとしてくれていた。罪も罰も結末も。全部全部。
「……でもさ、これは、私の役目だったんだ」
震える足を叩き、立ち上がる。少しふらついたが、もう支えてくれる人はいないのだ。自分の力で、前を向け。
「だから、さようなら、世界」
なかったことになってしまえ。全部、全部、なかったことにしてしまえ。私だけがこれを背負っていくから。
振り返る。巨大な門があった。悍ましい気配を漂わせ、瘴気を吐き出す異形の門が。その深淵を覗かせる深い口をぽっかりを開け、ただ佇んでいた。
「……さあ、聖女マリーはここにいる!」
血で染まった両手を広げ、笑う。己の存在を知らしめるよう、高らかに。ここにはいない神にさえ届くほど。
「契約に則り、始めに戻りましょう。私が聖女となった日に。私が死んだあの日に。あなたと出会った、はじまりに」
世界が眩む。世界が歪む。分かりきっていた結末の果てで、私はどれだけ無様に見えているのだろうか。観衆など一人もいないここで地獄と踊り、女神に縋る私は、どれだけ。
瘴気が、あるいは大いなる殺意が、巨大な鎌となって具現化する。それでいい。私以外のすべてが死んだ、この世界に私はいらない。聖女も『私』も、必要ない。
「――でも、次は」
必ず守ってみせる。目を細めた先、一瞬だけ、鎌を握りしめる誰かの姿を幻視した。
そして、この首は跳ね飛んだ。
残ったものは何もない。何もない。砂で出来た城が崩れるように、世界が崩壊していく。崩れていく。
誰かの泣き声が聞こえたような気がした。きっと、それもまた気のせいだ。
【それでも、幸せになってほしかったのに】
だから、泣かないでよ、女神様。私はあなたが泣くのが一番苦しいの。
「女神様、女神様。どうかわたくしの声をお聞きください」
……これは夢だ。私は今、夢を見ている。女神に請い縋る少女を見下ろして、私は静かに確信した。
腰まで届くほどの長い金色の髪、伏せられた瞳は深い紫色。ステンドグラスから射し込む陽光が、祝福するように少女に降り注ぐ。まるで神聖な儀式のようだ。そう考えた自分に苛立ちを覚える。
――あれは、いつかの私だ。
覚えていて、忘れられない。心の蔵の奥底に焦げ臭い匂いを放ち焼け付いた、忌々しい記憶。これは。
「わたくしは」
少女の――幼い私の、死人のように白い顔が悲痛に歪められていた。病に冒された色だった。
本来ならば部屋から出ることも許されないだろうに、軋む身体を引き摺って、彼女はここに来た。女神に声を届けるところ。女神に最も近い場所。祈りを捧げるここに。
幼くて愚かな、たった一つの願いのために。
「わたくしは、まだ、死にたくないのです」
ひどく掠れた声が、耳に届いた。その声がまるで泣いているように聞こえたのは、私が彼女だからだろうか。祈るために組まれた手は震えていて、虚ろを見つめる目が泣きそうに潤んでいる。
死にたくない。その願いを誰が否定できるのか。いいえきっと、誰にも。
それでも、私は考える。きっと『わたくし』はこのまま死ぬべきだったと。そう思っている。そんなことを願ってはいけなかった。寝台の上で朽ちていく身体を抱えて一人永遠に眠るべきだった。
なんて、もう遅い。だろう、レグレーテ。賽はとうに投げられたのだから。
「女神様、女神様。どうかわたくしの願いを」
赦されますか。いいえ、許しません。幼気な少女の願いは、女神に届くことを知っている。私は死ななかった。
唾棄すべきことだ。反吐が出る。
女神が人に救いを与えるなんて、どうして私はそう思えたのか。鈍器で殴られたような激しい頭痛が、ずっとずっと消えてくれない。
「女神様」
祈りなんて捨ててしまえ。
「女神様」
願いを沈めろ。
「――わたくしは」
死んでしまえ。死んでしまえ。愚かなだけの私なんて死んでしまえ。弱くて他者に縋ることしか能がない愚者のくせに。死ね。死んでしまえ。
殺してくれよ。誰か。
「この世界を」
祈りを殺せ。神を殺せ。叫ぶ声は『わたくし』には届かない。だってすべて終わったことなのだから。
この世界さえ、終わった話なのだから。
「愛しています」
(わたくしは、この世界を、愛しています)
だから、死にたくないのだと。真白な頬を澄んだ涙で濡らし、神秘的な色彩の瞳に強い意志を灯し、物語の中の聖女のように。彼女は、『わたくし』は言葉を落とす。
それは、ひたすらに純粋で美しいばかりの祈りだった。愚かで無知であるが故の美しさ。今の私はもう捨ててしまったものだ。私は、いっそ殺意さえ抱きながら少女を睨みつける。
その純粋さはやがて毒を孕み、絶望を産み落とすだろう。知っていた。分かっている。だから、私は『彼女』が。彼女を。
「――ぁ」
どれだけ祈っていたのだろう。不意に、呆気に取られたような声が耳に届く。それと同時に、少女の身体が傾いた。
「……かみさま」
とさ、と存外に軽い音がして、金髪が床に広がる。力の抜けたように横たわる身体は、微かに震えていた。
その瞳から一筋の涙が落ちる。唇が、痙攣するように震えている。
「わた、く……し、は」
その向こう、光の満ちる聖堂の中。私は確かに神を見た。
(さあ、もう一度ここから始めよう)