キスで終わらせないで
暑くても寒くても、恋人との待ち合わせ場所は決まっている。
今日もいつものカフェでいつものテラス席を陣取るわたし。頼んだものは当然カフェオレ。平日はブラックコーヒーばかりをつい飲んでしまうから、恋人と会う時はきつくなってしまった顔と心をほぐそうと、甘いカフェオレを頼むことにしている。少しでも可愛く見られたいから。恋をした女は誰だって同じことを思うはずだ。
きっと恋人――ヒロは約束した時間に少し遅れてやってくるだろう。出かける間際にいろいろと気になってしまうタイプなのはもう変えられないみたいで、でもそういう慎重なところやちょっとドジなところも好きだった。惚れた弱みというのだろうか、欠点も可愛く思えたら恋に逆らうことなんて――もうできない。
それにこうしてヒロを待つ時間は嫌いではない。冬の北風は容赦なくタイツの隙間をぬって両脚を冷やしていくけれど。カフェオレはすぐに冷めてしまうけれど。ヒロのことを想うだけで胸は熱くなっていく。春に生まれた恋は夏と秋をなんなく乗り越えて今も持続している。恋の情熱が冷める気配は微塵もない。
今、テラス席にはお客はわたし一人しかいない。秋までは街路樹の立ち並ぶ通り沿いのこのテラス席は常に八割は埋まっていたけれど、クリスマス前にはほとんどいなくなってしまった。冬も終盤になって、たまに春のような暖かな陽気になることもあるけれど、それでも今日のような寒気の強い日はみんな室内に入ってしまう。
もう落とす葉の一枚も身にまとっていない街路樹の連なりは、グレーがかった街並みをさらに無機質に見せた。それでも空はどこまでも高く青い。快晴だ。こんな日こそ外の空気に触れていたいと思うのはわたしだけだろうか。いつもはオフィスの中で缶詰状態だからこそ、余計にそう思う。
慣れ親しんだ気配を感じて振り向くと、案の定すぐそばまでヒロが来ていた。
「相変わらずね」
挨拶もなしで思わず言及してしまったのはヒロの恰好だ。
ヒロと初めて出会ったのはまだ肌寒さを感じる春のことだった。夜のオフィスビルで誰もがジャケットや長袖のシャツを着ているのに、ヒロはシャツを腕まくりし惜しげもなく健やかな肌を露出させていた。
そして今日のヒロもあの頃からちっとも変わっていない装いをしていた。黒のジャケットを軽く腕まくりしているのはおしゃれを意識しているわけではなくて心地よさを追求しているからだと知っている。ジャケットの下はカットソーだけで、薄手のセーターもマフラーも、コートも何も身に着けていない。若いっていいな、とこういう時思う。たった二つの年の差も、言い換えれば二つも年が違うってことなのだ。
ああ、いろいろ考えてしまうけれど、ヒロを見て思うことはただ一つ。
「今、俺のことかっこいいって思ってだろう」
「な……! 違うよっ」
「あ、そうか。かっこよくて好きって思っただろう」
「……!」
図星が悔しくてきつく睨んでみたものの全然効果はなかった。ヒロは愉快そうにははっと笑うと、わたしの正面の席に腰を下ろした。ゆったりと。
「なんだかずるいよ。ヒロは」
「なんで?」
まだにやにやとしているのは、わたしが思い通りに反応するからだ。
「なんでいつもそうやってわたしのことをからかうの?」
「可愛いからだよ。お前が可愛いから」
「え?」
机に肘をついて、組んだ両手に顎を載せ、わたしを見つめるヒロの目はひどく優しくなっていた。
馬鹿みたいに鼓動が高鳴っていく。ヒロに見つめられると本当に弱いのだ。奥二重の瞳、茶色がかった虹彩はきれいに澄んでいて、そんなきれいな瞳に愛おしそうに見つめてもらえることに、いまだにどきどきしてしまう。恋人になってそろそろ一年になろうとしているのに、これまでいくつか恋を経験したこともあるのに、なぜかヒロとの恋では器用にふるまえない。
「なーんてな」
言葉も表情も崩しても、ヒロの瞳は変わらず優しい。恋心に溢れている。恋がこれほど確かなものだってことを、わたしはヒロから学んだ。春夏秋。そして冬。今年一年、わたしのそばには変わらずヒロがいた。変わらないヒロがいて、変わらない情熱を示してくれた。ううん、違う。この恋はより一層深くなっている。少なくともわたしはそうだ。
「お待たせしました。カフェオレでございます」
ウエイターさんが登場し、甘い視線の絡み合いは自然と解けた。
ヒロもわたしも、このカフェに来たら入り口で注文を済ませてから席につく。それを持ってきてくれたのだ。二人していつもカフェオレばかり注文しているから、お店の人には変なカップルだと思われているかもしれない。
ヒロの前に置かれたカップからは、見るからに温かそうな湯気が漂っていた。
「あ、わたしもお替わりお願いします」
「かしこまりました。カフェオレでございますね」
少し苦笑したウエイターさんは、やっぱりわたしたちを変わり者だと思っているのだろう。去っていくウエイターさんの背中をついじっと見つめてしまったのは、引き留めて言い訳をしたくなったからだ。
「……なあ」
「え?」
少し硬い声に、横を向いていた顔を正面に戻すと、ヒロがむすっとした顔をしていた。
「なあに? どうしたの?」
「見すぎだろ」
「あ、そうか。ぶしつけだよね。失礼だったね」
「違う違う。そうじゃない。他の男を見るなって言ってるの」
「なにそれ。嫉妬?」
今度はわたしがからかう番だとばかりに意地悪い視線を投げると、ヒロは意外にもしっかりとうなずいた。
「そうだよ。嫉妬だよ」
「またまたあ。これ以上はからかわれないんだからね」
「信じないの?」
ヒロの表情はいまだ硬い。今日はなかなか強情というか、長い。普段ならさっと笑顔を取り戻して仕返しとばかりに言い返してくるのに。そういう応酬を待っていたのに。
「ヒロ?」
「分からないなら……分からせるよ?」
ヒロがテーブルに身を乗り出してきた。
と思ったら、突然のキスをされていた。
これまで幾度も唇に触れてきたその感触が、一拍置いてわたしの体に熱を灯した。
芯から体が火照っていく。
顔まで赤くなっていく。
いい年をした大人なのに――馬鹿みたいに赤くなってしまった。
「どう? 分かった?」
席に座りなおしたヒロは今も眉間をひそめていて、それが余計に悔しさをあおった。
「分からないよ」
ツンと横を向く。
耳も赤くなっているかもしれないけど、目を見て話すよりはいい。心をごまかせるから。もうこうなったら意地だ。
「ぜーんぜん分からない」
本当は分かっている。屋外の、しかも昼間のこんな人通りの多い場所でキスをするなんて、普段のヒロなら絶対にしない。
『信じないの?』
さっきそう言ったヒロ。
それが本心なのだ。
分かっている。
だけど素直になれない時だってあるのだ。
こういうとき恋ってやっかいだな、と思う。簡単なことを複雑にしてしまうから。キスをされてうれしくて、キスの意味が分かって。ヒロの気持ちが分かって。だったらわたしも素直になればいいだけなのだ。なのに……。
がた、と椅子をひく音がした。
見るとヒロが立ち上がりかけていた。
ヒロが行っちゃう、そう思ったらとっさに言っていた。
「……キスで終わりにしないで」
ヒロの動きが止まった。だけど見下ろすその視線にはまだ柔らかな光が戻っていなくて、わたしは目をつむって思いを叫んでいた。
「キスで終わりにしようとしないでっ。もっとちゃんと伝えてっ!」
言いきった瞬間、はっとした。
馬鹿みたいに大きな声を出してしまった。
しかもなんて恥ずかしいことを口走ってしまったのだろう。
ほんの少しの沈黙でも辛くて泣けそうで、わたしはうつむくしかなかった。
かたん、と隣の椅子をひく音がした。下を向いていても真近にヒロの腕が見えた。そのヒロの腕が動いてわたしの肩をそっと抱いた。そこにはもう愛しさと優しさが感じられた。
「ごめん、帰ろうとしたのは冗談。でも俺の気持ち、そんなに伝わってない?」
困ったような声音に、ふるふると首を振った。本当はちゃんと言葉にして言いたかったけど……喉の奥がつかえて言葉が出なかった。
「俺、お前のことすごく好きだよ。本当は会社でも他の男と近づくなって思ってるし」
「そ、そうなの?」
ようやく言葉が出てヒロの方を見ることができた。ヒロはほほ笑んで頭に小さなキスを落としてくれた。
「本当。たとえばお前、秋山と仲いいじゃん」
「秋山くん? でも秋山くんは同期だし同じ課だし……」
「それでもやなの! 俺、好きな女には誰も触れてほしくないし、俺以外も見てほしくないって思うようなちっちゃい奴なの!」
その言い方はまるで拗ねた子供のようで、たまらずぷっと吹き出してしまった。
「お、笑った」
そう言って心底嬉しそうな表情を見せるヒロは、やっぱりわたしの一番の恋人だった。
「ごめんね」
「分かってくれたならいいよ」
「……でも仕事だから秋山くんとは今までどおりにするよ?」
「分かってるって。仕事は仕事だからね……」
遠い目をしたヒロだったが、次の瞬間、なぜかにやりと笑った。
「でも今はプライベート。そうだろ?」
「そ、そうだけど?」
なんとなく腰のひけたわたしを、すかさずヒロがぐっと引き寄せる。ヒロの腕に包まれるとぽーっとなってしまうのはもう習性だ。いい香りがして温かくて気持ちがよくて。しかも至近距離で見つめられたら、もう――。
「恋人は恋人らしいことをしなくちゃな」
「え?」
「俺は可愛い恋人の可愛いおねだりを叶えてあげなくちゃって言ってるの。分かった?」
「……あっ」
「そうそう。キスで終わりたくないんだろ? さ、お嬢様。この次は何をご所望ですか?」
胸に手をあて覗き込まれ、わたしはヒロの胸を両手で突いた。
「馬鹿っ」
だけどヒロは離してくれなくて、より一層肩を抱く力を込められた。喉をつまらせ身じろぎもできないでいるわたしを、ヒロが辛抱強く待っている。肩に触れている手がどんどん熱くなっていく。呼吸をするだけでヒロの体から発せられる熱を取り込んでしまいそうな、そんな距離。
どきどきが止まらない。
もうこれ以上は――わたしが我慢できない。
「……」
「ん?」
「……して」
「ん? なんだって?」
「だからっ!」
思いきり勢いをつけて顔をあげたところで、テーブルのそばにさっきのウエイターさんがお盆を持って困ったように立っていることに気づいた。ウエイターさんは固まるわたしと目が合うと申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
「すみません。お邪魔だとは思ったのですが、ご注文のカフェオレが冷めてしまうので」
ちらりと下を向いた視線の先には、お盆の上に載ったカップ。もう湯気一つ出ていないカップが一つ。いくら今日が寒くたってそれはおかしい。……どれほど見られていたというのか。
そっとカップを置いて店内に戻っていくウエイターさんを茫然と見やっていると、ふいに頬に手を添えられ――。今日二度目の不意打ちのキスをされていた。しかも今度は軽くない。昼間の屋外で堂々としていいキスではない。
永遠に思える時間の果てにようやく唇を解放されたわたしが口を開きかけた瞬間、ヒロが言った。
「俺以外の男を見るなって言ったろ?」
言い返そうとして――ヒロの不機嫌な表情に思わず笑ってしまった。
「なんだか今日のヒロ、可愛いね」
「可愛いだけじゃないだろ?」
「はいはい。可愛いだけじゃなくてかっこいいよね」
「それだけじゃない。可愛くてかっこよくて大好き。そうだろ?」
「ふふっ。そうだね。大好き」
それにヒロが目を丸くした。
「どうしたの?」
「なにが?」
「いや。お前から好きって言われるのすごい久しぶりで……びっくりした」
あいている手を口元に当てて視線をそらしたヒロは、分かりやすく動揺していた。まつげが震えて目元が少し赤くなっている。
「恥ずかしいけど嬉しい。違う?」
図星に一層動揺しかけたヒロだったが、すぐにいつものように微笑んだ。
「違わない。お前に好きって言われるの……すごい嬉しい」
そう言ってなぜかヒロが空を見上げた。
つられてわたしも見上げた。
そこにはさっきまでと同じきれいな空が広がっていた。雲はほとんどなくて。透き通るような青で。こんな美しい空を共有できる恋人がいることに、そして今日という日に心から感謝していたら――。
「じゃ、あとはお前の望みを叶えるだけだな」
「……えええっ?」
ひゅうっと吹き抜けていった風はやっぱり冷たかったけれど、恋をする二人の熱はそれくらいでは収まりそうにはなかった。
春夏秋、そして冬。
この一年間続いた恋企画に、作者として、または読者として参加してくださった皆様に厚くお礼申し上げます。
ありがとうございました!