聖地スカ―スターナ~幸福な場所(序)
バティルはその夜、天伝う雲間を渡る月の如く何度も山河を越えた。
それはあの夢のつづきなのだろう。それはバティルにとっての夢の中ではあるが。
隊商は見知った道をゆくはずなのに、見知らぬ土地を過ぎてゆく。
――はて、ここは何処か知らん。
後ろを振り返れば聖者は目を瞑って馬の上に揺られている。眠っているのかは分からない。
「そういえば聖者さまの旅の目的は聞いていなかったな」
そうは思うのだが、疑問も何も湧いてこない。
やがて一隊は見知らぬ寺院都市にたどり着いた。
そうして中央の院から迎えの人々が現れ、バッターラ師を先頭に控えの部屋へ通された。白壁でタイルの上に長机と椅子が据えられてある。
バッターラはすぐに呼ばれ本院で祈りを捧げる為部屋を後にし、仲間とともに別室で待たされた。そうするうちに外では一人また一人と白い衣服を着た者たちが現れ、本院に集まってゆく。
待たされるだけではつまらぬ。バティルは一人部屋を出た。果たしてバッターラを追うためかどうか本人にもわからないが、ともかく部屋をでてみた。旅の途中でもそうだが、バティルはときたまこういうときは運に任せる性格がある。或いはこれが夢の中であるからかもしれない。ここはどこなのか。それこそ部屋の中でくすぶっていては何もはじまらないのだ。
長い回廊が続くがやがて見えてきたのは小さな中庭。何やら大きな石が並べてある。その周りには白砂が広がっていた。
――これはもしや石を山に見立てているのかもしれない。
バティルにはこれが東方の庭の作りであることなど知る由もない。バティルにはこの岩が自分達の住んでいるメリーヴの高原のように思われてならなかった。
「なら奥に聳えるのはスメールの山か」
バティルはこの庭を眺めると、自分がまるで鳥になったかのように感じた。そして周りに広がる白砂は砂漠としか思えない。白砂に枝を延ばす樹は何だろう。例えば雲か天上界か。果たして自分も鳥と成り、あの枝へとまってみたいとさえ想われた。やがて回廊は折れ中庭の中を横切る。遮るものが柱しかないところを風が吹き抜けてゆく。風の来た方を見れば壁の向こうに、光を受けて輝く半円形の白い塔が見えた。バッターラ師はあそこにいるのかもしれない。バティルは本院の裏手に来たのだ。
だがそれ以上にバティルは目の前にある建物の扉に興味があった。黒塗りに金の唐草文様。そして扉は少しばかり開いていた。手に取って中へ入ってみると中は白壁の植物園であった。天井は高く千の窓が豊かに光を取り入れている。段々の畑の隙間を水路が流れ下り、園路は曲がりながら奥へと続きやがて高樹の下へ出た。
「……どなた?」
女の声がした。みれば庵の側で花を見つめる年頃十七八の美しい乙女がいる。
彼女は見知らぬ訪問客に接してなお落ち着きはらっていた。白いドレスを纏うその姿は凛と輝いており、そのまなざしは手もとの花に注がれている。
「聖者さまの供として参った者です。名はバティル。部屋に籠っているのも退屈で抜け出てきました。そうしたらこちらに迷い込んでしまいまして」
「あら、いけないお方…。といいましてもここは誰でも入りこめる場所ではございません。聖者殿には感謝なさることです」
口元を手で隠しているが目が優しく微笑んでいる。バティルは不思議と自分の瞳に熱を感じた。
「失礼でなければあなたの名をお聞かせ願えませんか」
少女はバティルの眼をじっと見つめた。
「わたしの名はアルマ。スカ―スターナのアルマよ。よく覚えておきなさい」
「スカ―スターナとは」
「聖地スカ―スターナ。世界の万神殿……。永遠の平和の地。ここに居れば戦の火の粉に掛からないの」
―万神殿、といってもここは神殿ではない。ただ植物が生い茂るばかりである。だがこの空間はまるで礼拝堂の様だった。
「あなたはここで何をされているのですか?」
「……私は、私の民がここに還ってくるのを待っているのよ。みんな私を忘れてしまったようだけれども」
この少女はどこぞの姫であろうか。
「ここから出たいのですか?」
「いいえ。私は見つけて欲しいだけ。お父様は私が愛おしくてこうして隠しておいでなの。バティル。この花を美しいと思う?」
花をそっとこちら向けた。小さな黄色い花冠が三つ、慎ましやかに咲いている。細かい花弁は複雑な幾何学的文様を作り上げていた。
―俺もこの光景を忘れてしまうのだろうか。
そしてどこからともなく静かな風が吹いた。
風に触れると花は指輪に変じ、指輪はバティルの指へそっとはめられた。
「美しい花であると、そう思います」
「バティルに神々の祝福があらんことを」
アルマの透き通った声にバティルは心を震わせた。
夢はそこで途切れた。