雨の降る国(3)
雨は上がりあたりはすっかり暗くなっていた。王子殿下も引き上げ、人々は思い思いに散っていった。
残ったメンバーで小さな灯を囲むことになった。天にはあふれんばかりの星々が降っている。大地は影に吞まれゆく中、火のゆらめきは掛け替えなく人間の存在を主張していた。
「火はいい」
聖者がつぶやいた。
「人がおらぬのは寂しいものでな。…このあたりで儂は聖者と呼ばれておるが、東では仙人と呼ばれておった」
「仙人とは何でしょう」
「儂とは違う。あちら側へ行ったままのものたちじゃ」
バティルは〈あちら側〉が何なのか分からず聖者の顔をただ見つめた。
「聖者さまはどうやってこの町へお出でになったのですか」
「うん…。そうさな…」
聖者はおもむろに人差し指を灯に近づけた。ふと見れば指の上に小さな灯が生まれている。
奇術であろうか。指先に生まれる小さな奇跡。バティルの心はその灯火に吸い込まれた。
「…ゲージ」
聖者が静かに言葉を唱えると、灯は十方に飛び散り幾何学文様がバティルたちを包んだ。
「聖者さま!これは…」
「万物は流転する。そうすることでバランスを保っておる。そこには何も本質はないんじゃが心を動かすと…」
言葉とともに周りの景色が移り変わる。座ったまま千里を駆け雲は瀧のように流れた。昼夜はそれこそ一瞬。この事態は明らかにバティルの想像を超えていた。
「聖者さま。目が回ってしまいます!」
バティルはたまらず叫んだ。と、目を開くとそこは変わらず灯の前であった。マルクの森は閑であった。
「…そう。質量を獲得するのだ」
―あの続きが〈あちら側〉なのだろうか。
聖者は笑い、バティルたちはまじまじと聖者を見つめた。
〈質量〉。バティルにとってあまり聞くことのない言葉だった。そういえばギリシャの方から来た商人が言っていたような気もする。
「つまり心の中にあるものを現実にするのですか?」
「いや、無は何も無い訳じゃないからの。心が無に干渉すれば無は有に転じるのじゃよ。仙人は無の山の頂に心を預ける。それは自由じゃが影の世界で生きるに等しいことじゃ。儂はそこから心を抱えて山を下りた。無の山からメリーヴはむしろ近くての。そうしてここへやって来たのじゃよ」
―カカカ。
白髪の老人の顔は終始にこやかであった。
正直誰も聖者の言葉を理解できなかったに違いない。理解できぬが故に不思議な体験とともに聖者を崇める。だがバティルは違った。聖者の業はこの土地の力そのものであったからだ。
外からはメリーヴの土地が霧霞の如く消えては現れてと見えていた。だがメリーヴの土地が本当に消えていた訳ではない。
この国を出たことがあるので分かる。
異なる座標図上にメリーヴは存在していて、外の座標図からは移動したように見えただけだ。
異なる座標図上ではコウロン山とメリーヴはわりと近い…。
それはつまり、メリーヴの土地と同じ力を聖人は持っているということだ。
バティルは仲間とともに聖者をミスラ寺へ送り届けた。
王国肝いりのミスラ寺は煌々と輝いていた。大伽藍の灯篭は規則正しく並び、奥の方からは人々の気配がする。しかし聖者の宿所は脇の静かな僧坊なのだ。質素だが品がある。
他の聖者の姿は見えない。
「お一人なのですか?」
横の僧が静かにうなずいた。
まあこの場所も老人には落ち着くことだろう。
あとは何のこともあるまい。部屋を出て帰るのみだがそれはそれでつまらない。なので多少の寄進をして皆で塔に登らせてもらうということになった。
「この国にこの塔より高いものはないのかね」
と一人が問うと、
「そうです」
と僧は答えた。
石の階段を登りきると冷たい風が吹き込んできた。
「いや~。高いもんじゃの」
「さすがに夜では何も見えないか」
それでも町にはちらほらと灯が見える。近衛の兵の灯だろう。そのせいで城が幻想的に照らし出されていた。星屏風の空の底を山影が這う。観れば南の湖には月の船が浮かんでいた。
寺の内を振り返れば大伽藍の小窓から光が漏れ出ている。中でも火を焚いているのだろう。回廊には煌びやかな衣装を身に着けた貴婦人が数名行き交う。
「この時間でも寺に人はいるんだね」
「本日は王家にとっての祭日です」
なるほど各王国には守護神の如き神々がいる。メリーヴ王国にとってはこの寺院で祀るミスラの神だ。この祭日には宮廷の貴婦人が多く籠るのだろう。
そうするうちに階下からも女たちの声が聞こえてきた。やはり考えることは同じなのかもしれない。
(ここで庶民と鉢合わせするよりは階下で控えた方が良いだろう)
そう考えて僧に目で合図を送った。一行は静かに階段を降りはじめた。
女たちの声は近づいてくる。バティルたちはその階の脇へひかえた。
「あら。先客がいたのですね」
「このような時刻に珍しいものです」
二人の女官が上品につぶやきながら過ぎ去ろうとしている。バティルは何も述べることはできなかった。月明りに彼女の衣は細かく輝いて見える。そして白い衣は光を帯びて透き通り、歩みに合わせて床の上を滑ってゆく。
さながら彼女は天の都に還ってゆくのだろう。
つと、姫の一人が歩みを止めた。
振り返るとバティルの方をじっと見つめた。
「もし…。バッターラ師がお戻りになられたのですか?」
「はい。先ほどおもどりになられました」
答えたのは僧侶である。
「そう……」
そして何事もなかったようにまた階段を登りはじめたのだった。
バティルたちが塔から出ると大伽藍へバッターラ師が案内されているのが小さく見えた。
「他の聖者さま方はどちらへ行かれたのでしょう」
「すでにメリーヴの町を去られました」
そのときバティルはバッターラが言ったことを思い出した。
(万物は流転する。そうすることでバランスを保っておる)
「そこには本質はない」
ならばなぜ聖者はコウロンの山を下りたのか。本質を持たないものがわざわざ聖者の衣を纏う理由はないだろう。
一抹の不安が脳裏を過った。