24 悪辣なりし快楽の園
そこには遥か昔、人間の国があった。
実りは決して多くなかったが、強く聡明な騎士の王は民草の絶大な支持を集めた。
だが、繁栄は邪悪なる者達との戦乱によって途絶え、多くの血が流れ、やがて元より少なかった世界樹の加護も途絶え、そこは人の住めぬ不毛の地と成り果てた。
その名残として、かつての城塞が遺跡となった今も亡き臣民を護ろうと聳え立っている。
そんな悲しき廃墟に一つ、佇む影があった。
男は、人ではなかった。
世界樹のマナが届かぬ不毛の地では、脆弱な人間は生存できない。
そこは、かつての人界の最果て。
その最果ての地を根城にする男の事は誰も知るものが居らず、さりとて誰もが知る存在でもあった。
曰く、魔王。
曰く、傲慢なる者。
曰く、全ての悪魔の原初。
曰く、七天魔王同盟を束ねる者――――――魔王サタン。
「――――――フッ。」
旧き名を、堕天使ルシフェル。
「フ……ふ…………ぶぇくしょいッッッ!!!!!あ〜……なんか急に寒気がしてきたな……。すっげぇ嫌な予感がしやがる。気の所為だといいが……。」
かつての人界の最果ては、今や世界の果て。
その最果ての地にて、男は久遠に近い時の間、待ち続けていた。
自分に匹敵する力を持つ者の訪問を。
かつて殺し合い、互いに血を浴びあった、勇者の再来を。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「答えろ。あの小僧は……ルシフェルは生きているのか!?」
細腕からは信じられぬ握力で首を掴まれ、そのままガクガクと揺さぶられる。
満身創痍の彼にそのような仕打ち、ともすれば本当に首がもげるのではと《図書館》は危惧したが、そこは腐っても悪魔公爵。
頑丈な身体が幸い(災いかもしれないが)して、拾った命を再び地獄の釜へ投げ込まれるというような事にはならなかった。
「小僧だと!?一体何のつもりでルシフェル様にそのようなブベラ!?!?」
「質問を質問で返すな。」
……何のスキルも発動させていない、ただの平手打ちに顔面を撃ち抜かれ、ベリアルは信じられない速度で吹き飛ばされて壁に衝突した。
「いいから、聞かれたことに簡潔に答えろ。今度は本当に首を飛ばすぞ。」
「ば、バカな……単なる純粋物理攻撃で私の肉体にダメージを与えるなど……。」
「信じられないならもう一発くれてやろうか?」
「ひ、ヒィ!?」
フラフラと起き上がりながら困惑を口にするベリアルにリリスが凍り付くような笑顔でそう言うと、彼は即座に姿勢を正した。
「た、確かにルシフェル様はご存命だが、それと貴様になんの関係がある!?」
「やっと会話する気になったか……何、奴とは古い知り合いでな。……暫く会わないうちに、とっくにくたばってると思っていた。」
「ルシフェル様が?冗談はよせ。あのお方は大崩壊の前……この世で唯一、旧世界が存った時代を知るお方だぞ。そして何より、全ての魔王の頂点に立つ存在……あのお方の威光を知らぬ者など、この世界に居るものか。」
「そこなんだよ。何故、奴は生きている?あの大崩壊を、どうやって生き延びた?次元の狭間からも観測できるほど、あの瞬間には死が溢れていた。全ての生命は世界樹に還元され、新しく作り換えられた。…………文字通り、世界は生まれ変わった。だというのに、何故奴は今もなお生きている?」
最後には独り言のように、リリスは疑問を呟く。
それに対する答えを目の前の悪魔公爵が持ち合わせている筈もないことは半ば承知の上で、それでも言葉にしなければ飲み込めない疑問。
「……待て。お前は一体何を知って……」
「いや、いい。たかだか悪魔公爵がそんなこと、知るところではないな。一先ずその件については保留だ。今は……」
その目がハッキリとベリアルを捉えた瞬間、おぞましい寒気が彼の全身を貫いた。
死などという生ぬるいものではなく、もっと悪辣な何か。
「な、なんだ……私を一体、どうするつもりだ……!?」
「まあそう怯えるな。お前とはこれから長い付き合いになる。ただ、捕って喰おうってだけの話だ。」
「喰う……だと!?ま、まさか貴様、魂を……!?」
肉体が滅んで死を迎えても、魂が無事であればまた新たに産まれることができる。
記憶や人格が真っさらにされていても、その理は変わらない。
だが、魂ごと捕食されたとあってはそうはいかないだろう。
肉体も幽体も、その個人を形作る何もかもが消え去る。
それは、およそ死よりも遥かに残酷な所業だ。
「ああ、そうだ。お前のことは気に入ったと言っただろう?だから殺してしまうには惜しくなった。安心しろ、最高に気持ち良く逝かせてやるから♡」
そう言ってとびきり邪悪な笑みを浮かべると同時、リリスの尻尾の先が
「グパァッ」と音を立てて大きく開いた。
内側はぬらぬらとした粘液に彩られたピンク色の肉が蠱惑的に蠢き、本能的な嫌悪感と恐怖を駆り立てる。
「や、やめ……!やめろおおおおおおあおおおお!!!!!!!」
「前の方の初めてはユーリのために取っておきたいからな。それに化け物の相手には、化け物がお似合いだ。」
「くそぉ……こんな……!こんなところで……!!」
這いずって逃れようとするが、先程の平手打ちが未だに効いていて立ち上がれない。
「あの坊やもそろそろ着くだろうし、父君も目覚める頃合いだろう。お前程度の魂を無理矢理喰えば、丁度ガス欠……実に塩梅がいい。ではな、話の続きはあちらの世界でゆっくりしようじゃないか。」
「あちら……!?お前は一体何を……あ、ああ……!!!やめ…………!!」
「《精魂吸搾》」
尻尾が動き、その内側のおぞましく官能的な肉の蠢きがベリアルの頭から覆い被さり、全身を包み込んだ。
(な、なんだ……これは…………溶かされる……溶けていく……!)
粘液と肉の宮の中でベリアルが感じていたのは、全身の肉がゆっくりと溶かされていく感覚。
時間が経つごとに自分の身体が溶けて行き、肉体の崩壊に同期して精神までもがゆっくりと溶かされていくのを感じる。
だというのに、ベリアルの脳内を満たすのは、破滅的とも言える快楽の渦だった。
自分という存在が明確に擦り減っているというのに、どうしようもなく抗い難い快楽の園。
最終的には自ら破滅を求めて、残った自我も全て望んで溶かしてしまう、悪辣すぎる破滅機構。
(ああ……私という存在がこのような終わりを迎えるなど……)
そうして永久にも感じられた1分にも満たない時間は終わりを迎える。
悪魔公爵ベリアルだったものは肉片の一つに至るまで溶かされ、リリスの胎内に納められた。
「……ふう。やはりこのランクの魂を取り込むのは骨だな。どうやら私が表に出ていられるのもこれまでらしい。後はよろしく頼んだぞ、《図書館》。」
『畏まりました。どうぞごゆるりとお休みなさいませ、リリス様。』
《図書館》がそう言うと同時に、まるで糸が切れた人形のようにリリスの身体がドサリと倒れた。
※※※※
「……リ、ユーリ!」
ゆっくりと、鉛の海のように重く沈んでいた意識が浮上してくる。
《精気吸搾》による魔力の過剰供給で吹き飛ばされたユーリの意識は、リリスが余剰分の魔力を綺麗に使い切ったことで再び戻ってきた。
ゆっくりと目を覚ますと、先程まで一緒にいた少年……ライナが、ユーリを抱きかかえていた。
「ライ……ナ……?私は……」
気絶していた間のことは良く覚えていない。
意識が飛ぶ瞬間、沈んでいく自分とすれ違ってリリスが浮上していくような気がしたが、ハッキリとは分からない。
「ユーリ……よかった。本当に……無事で良かった……!」
どうして無事なのか?
あの悪魔は何処へ行ってしまったのか?
疑問は尽きないが、今自分を抱き締めている少年の温もりだけは、どうやら本物であるらしかった。
「うん……うん……。」
身体に力が入らない。
溢れるほどに自分を満たしていた魔力の奔流は、今はもう感じられない。
ただ、自分はまだ生きているのだという事実を、ライナと触れ合う熱が教えてくれていた。
「あー、ゴホン。二人だけの世界に入るのはそれくらいにしてもらえるか?」
「っ!」
ハッとして振り返ると、ゴルドーが非常にバツの悪そうな顔で二人を見守っていた。
あの時、彼は死を覚悟して悪魔公爵の前に立ち、ユーリたちを逃した。
だが、どういうわけか彼は生き残り、今ユーリの前に立っている。
両腕の肘から先がないが、それ以外は至って無事な様子だ。
「父さん……!無事だったの!?」
「ああ……無傷とはいかんらしいが、どうやら生きてはいるようだ。まあ、俺も気を失ってたみたいで何があったのかはよく分からんがな。」
「僕も、ここへ戻った来た時にはもうあの悪魔は何処かへ消えてしまっていたようで……。」
そこで、倒れているユーリとゴルドーの二人を発見したのだという。
一体あいつは、何処へ行ってしまったのか?
どうして二人は無事だったのか?
その疑問に対する答えを、不確証ながらもライナは持ち合わせていた。
そして、恐らくこの場にはもう一人、答えを知る者が。
その少女に、ライナは優しく問いかける。
「……ユーリ、話してくれる?さっきも言ったけど、僕の答えは変わらないから。だから、全部話して欲しい。君のことを。」
「おい、勝手に……」
「いいよ。話す。私のこと……最初から全部。でも、少し待って。あなただけじゃない…………父さんや……母さんたちにも、知ってほしいの。だから、帰ってから話したい。…………だから、もう少しだけ待って。」
途切れ途切れになりながらなんとかそこまで言葉を紡ぐと、ライナは満足気に頷いた。
そして、ゴルドーも。
「よし!じゃあ話も纏まったところで、ひとまず我が家に帰るか!あの悪魔野郎のことも、ギルドに報告しなきゃならねえしな。」
「……うん。」
努めて明るく振る舞うゴルドーに感謝しながら、ユーリも帰路につこうと……
「あれ〜?おっかしいなぁ。神託では確かにこの洞窟の奥だって話だったんだけどな〜?」
いつの間にそこに居たのか。
見目麗しく、精悍な顔つきを讃えた青年が一人、佇んでいた。
そして、この場に似つかわしくない能天気な声が響いた。
「あっ!もしかして貴方が、先に突撃して行ったっていう元冒険者の人ですか?」
「あ、ああ……多分そりゃ俺のことで合ってると思うが……お前さんは?」
人懐っこさを感じるが何処か異質な気配を放つ青年に、少しの警戒心を持ってゴルドーが誰何する。
「ああ、ごめんなさい。ボクの名前は、アリスフィール・クライン……冒険者です。仲間からはアリスと呼ばれてます。」
「アリスフィール?その名前、どっかで…………」
「えっ!?アリスフィールさんって、あのアリスフィールさんですか!?」
その名を聞いた途端に素早く反応したのはライナの方だった。
「知ってるのかライナ?」
「はい……アリスフィールさんと言えば今の冒険者やそれを目指す者で、知らない人間は居ません。何せ、数十年ぶり……それも歴代最年少で、序列一位の覇鋼級に上り詰めた冒険者ですから!」
興奮を隠せない様子で、ライナが説明する。
そこまで聞いたゴルドーも、
「ああ、そういやぁ、そんな話を少し前に聞いたことがある。」と納得した。
とうの昔に冒険者稼業から足を洗った身でも、一度は名前を聞いたことのある男。
曰く、歴代最年少にして最優の覇鋼。
曰く、神々の祝福と寵愛を授かりし者。
曰く――――――邪悪を悉く討ち亡ぼす勇者
其を庇護するは、真実と調定の神。
それが、今目の前に立っている男――――――アリスフィール・クラインという冒険者である。
「あっはは……照れるなぁ。勇者だなんて柄じゃないんだけどね。これでもまだ20なんだよ?」
そして、その凄まじい功績に彩られた武勇伝に見合わず、普段の本人は至って普通の人懐っこい青年であった。
「……以外だな。勇者なんて言うからもっとガタイの良い奴かと思ったら、アンタみたいな優男だとは。」
「あはは、良く言われますよ。」
「でも、どうしてアリスフィールさんのような人がこんな辺境に?」
そう、一番の疑問はそこだ。
通常、序列第一位の覇鋼級冒険者といえば引く手は数多である。
何せ数世代に一人現れるかどうかの才媛なのだ。
そんな人間に割り当てられる仕事など、それこそ国一つが滅ぶような……世界のバランスが崩れるような危機であることが殆どだ。
冒険者であっても国家間のしがらみには妨げられる中、唯一自由に国々を渡り歩く権限を有し、時には神々からさえ神託を受けて、世界の危機を未然に防ぐ遊撃者。
それが覇鋼級冒険者というものだ。
そのような存在が、一体どうしてこんな辺境の地に訪れたのか?
「いや……まさか。」
ゴルドーにも、そしてライナにも心当たりはあった。
この辺境に、勇者がわざわざ出向くような危機。
つい先ほど、そいつと剣を交えたばかりではないか。
「ボクのことはアリスでいいよ。いや~、神様からの久々の信託で、此処に厄介な悪魔が召喚されたから退治してこいって言われちゃって。丁度すごく離れた場所に居たから、正直間に合うかは五分五分だったんですけどね……。」
「だとしたら、ギリギリのところで間に合わなかったみたいだな。奴はもう何処かへ消えちまったぞ。俺がやられて気絶してる間にな。……正直、何で生きてるのか不思議なくらいだが。」
そう言って、肘から先のない腕をヒラヒラさせるゴルドー。
あのとき確かに上半身と下半身を断たれた記憶があるが、何故かそちらのほうは無傷。
おまけに腕の方も、傷口は完全に塞がってしまっている。
まるで、誰かに治療でも施されたかのように。
「うーん……あなたが無事ってことは既にその悪魔は倒されたと思うんですが、ボクに神託が下る程の相手をどうにか出来る人なんて、この辺りには居ない筈なんですよ。放っておけば手がつけられず、やがて国の一つ二つは容易に滅ぶ。神様からの神託はそういう規模の災厄にしか下されないんです。」
つまり、あのベリアルと名乗った悪魔にはそれだけの強大な力があったということ。
そんな存在を何とかできてしまう者など、ここにいる勇者か…………
ふと、ライナは先程から黙りこくって静かになっている少女に目を向けた。
途端、何か様子がおかしいことに気付く。
ユーリは、震えていた。
小さな身体を震わせ、噛み合わない歯がカチカチと音を立てている。
悪魔の脅威は去ったというのに、ユーリはむしろ奴と対面していた時よりも怯えているように見える。
「ユー…………リ?」
「ひっ!?」
会話すら成り立たない。
一体どうしたというのか、という所まで考えて、ライナは一つの恐ろしい結論に至った。
ユーリは、自分を人間ではないと。
化け物だと言っていた。
そして、目の前に佇む青年は、化け物退治の専門家である。
ライナの嫌な予感は、最悪の結果となって的中する。
「ところで…………。」
空気が、凍りついた。
「キミは一体、何だい?」
その瞳に見据えられた瞬間、ユーリを構成する『魔』が、全力で警笛を鳴らした。
魔に属する者の本能が、その存在を絶対的な恐怖として捉えている。
「あっ…………」
抗いようのない"死"が、彼女の目の前に立っていた。




