2 リライフ・オン・レイニーデイ(前)
父は厳格な人だった。
警察官であり、休日は実家に併設した道場で合気道の師範をしている。
当然のように一人息子である僕は厳しく躾けられ、口を開けば
「男らしくしろ」と怒鳴られる毎日。
外見だけは普通に男の子として過ごしてはいたけど、きっと内面の女々しさは見抜かれていたんだと思う。
そんな父親にまさか、「女の子になりたい」等とは言い出せず、
結局両親に隠れながら、これまた隠れて通販で買った化粧品や女性服の使い方を勉強する日々。
そんな孤独な修行も2年を数えようとしていたある日、事件は起きた。
雨が降っていた。
まだ寒さを残す春先の雨は、容赦なく体温を奪っていく。
「さむい……。」
けれど、きっと、この寒さは雨のせいだけではないだろう。
数十分前、鬼のような形相の父に勘当され、着の身着のまま放り出された僕は、
率直に言って、途方に暮れていた。
そう。ずっと恐れていたことが、ついに現実となったのだ。
父に、女装が、バレた。
「それにしたって、何も追い出さなくたって……いや、結局は僕が悪いのか。ず~っと、隠してたもんなぁ……。」
2年間だ。
決して短い時間ではない。思い切って両親に打ち明ける機会は何度だってあったはずだ。
結局は、言い出せなかった女々しい自分が悪いのだ。
分かってはいる。わかってはいるけれど。
どこかで、淡い期待を抱いていたのかもしれない。両親は、こんな自分を理解してくれるのではないかと。
だが現実はこれだ。
降りしきる冷たい雨が、容赦なく体温を奪う。
けれど、もしかしたらこの雨は自分を慰めてくれているのかもしれない。
そう思えるくらい、僕の心は雨よりもよっぽど冷え切っていた。
「……ふう。」
取り敢えず、財布だけは何とか持ち出せた。
時刻は午後9時半、とっくに閉店した商店街の一角。
自販機で暖かいココアを買って、雨宿りしながら一口飲む。
冷え切ったからだに熱い液体が染み渡り、体温が少し上昇する。
そんな変化を感じ取れる程度には、気持ちも落ち着いてきたと思う。
少しだけ冷静になった頭で、これからのことに想いを馳せる。
これからどうしようか?
まずは宿の確保だろうか?いや、所持金はそこまで多くない。
ホテルなんかに泊まろうものなら、数日も保たずに底をつく。
そもそも学校だってあるのに、これからどうする?
暫く待てば父の留飲も下がって、家に帰れるかもしれない。
でも正直、顔を見るのも怖くて、家に近づきたくない。
着替えもない。
こんなヒラヒラの女性服を身につけておいて化粧やウィッグを外すのは、とてもじゃないけど出来ない。
考えれば考えるほど、堂々巡りの思考に嵌っていく。
暫く途方に暮れていると、「バシャン」と
近くで誰かが何かを落とすような音がした。
そちらのほうを見やると、偶然通りかかったらしきサラリーマン風の男が立っていた。
面識はない。間違いなく初めて会ったはずの男だ。
どうやら傘を落としたらしい。開いたままの折り畳み傘が、道路脇に転がっている。
「あの……どうかしました?」
よく見ると、異様な雰囲気だった。
男は呆然としたように棒立ちしているが、その眼だけはじっと、女装姿の僕をとらえ続けている。
理性が飛んでいるような、異様な眼差しだった。
なんだかよくわからないが、マズいと思った。
直感に従って動こうとした瞬間。
「アァアアアァッァァァアァァアアアアl!!!!!!!!」
突然奇声を上げて、飛び掛かってきた。
「っ!!!!!」
ガシャアアアアアアアアアアアアアアアアン!!!!
間一髪。
男は一瞬前まで僕のいた場所を通り過ぎ、そのままの勢いで店先のシャッターに激突した。
危なかった……。
あと数瞬、動き出すのが遅かったら避けられなかったはずだ。
後ろを見やると、金属で出来ているはずのシャッターが見事に人の形に凹んでいた。
どんな勢いで突っ込めば、人が生身であんな衝撃を生み出せるのだろうか?
鮮血を飛び散らせて倒れ込んだ男を唖然と眺めていると、
フラリ……
幽鬼のように立ち上がって、割れた額から血を流しながらこちらを振り向く
まずいまずいまずいまずいまずいまずい!
心臓が早鐘を打つ。
震える足をどうにか前に出し、目の前の恐怖から逃走する。
どこへ逃げる?
とにかく人の多いところへ!
閑散とした商店街を抜けて、大通りに面した繁華街へ!
「ア……アア……!!!」
ちらりと後ろを見ると、追って来ている。
先ほどの激突で負傷しているのと、滅茶苦茶な走り方のお陰で追い付かれることがないのが幸いか。
一体何が起こっているのか……
考えている暇もなく、取り敢えず人通りの多いエリアまで辿り着いた。
ここまで来れば大丈夫だろうと、どこか油断をしていたと、今にしてみればそう思う。
街を行く人々。主に男達が。少数だが中には女も。
悠里の姿を目にした瞬間、先程のサラリーマンの男と同じ表情で、こちらを注視する。
「「「「「「ア……」」」」」」
そこから先は地獄のような光景だった。
前後左右、あらゆる場所から伸びてくる手。
明らかに正気を失っているのに、何故か自分だけを見据えて襲い掛かってくる男の群れ。
頭がどうにかなりそうだった。
まるでゾンビ映画の一幕だ。
「どう……して!なんで……っ!?」
息が切れる。もう身体は限界が近い。元々が、運動不足なただの17歳だ。
むしろここまで捕まらずに逃げ続けていられるのが既に奇跡に近い。
だが、奇跡的な逃走劇は勿論そんなに長く続かなかった。
活路を見出して飛び出した先。
瞬間、激しい光が世界を白く塗りつぶした。
そこで最後に見た景色は、視界いっぱいに広がる鉄の塊だった。
この日、木崎悠里は。
サキュバスの女王を理想と定めて自分を磨き続けてきた少年は。
只人の身でありながら無意識に発動していた魅了に狂わされた男たちから追い回された挙句に。
トラックに撥ねられ、物言わぬ肉片と化した。
即死であったために痛みを感じなかったのは、不幸中の幸いだった。




