115話 マリスは自分の名前を忘れる
体が動かない。声が出そうにもない。目線は動かせそうにもなかった。このようなところで、自分は何をしているのだろうか、という疑問があふれるだけ。他は何も思いつかない。いや、それよりもだ――。
「あなたはここで眠っているといいですよ」
そう誰かの声が聞こえてきた。誰だったかすらも、もう思い出せない。
「我々はこの世の運命をオイシくいただくからな。その頃になれば、きみの思考や感情なんてなくなるさ」
今度は別の誰かの声が聞こえてくる。こちらも同様だ。今にわるのは二人の誰かが自分の目の前にいる、ということと――。
「さすれば、ここから逃げ出したい気持ちも和らぐだろうよ」
自分がいる場所はいくつもの封印をされた、頑丈な結界の中に留められているということだ。そして、最悪ながらその自分という存在を忘れてしまっているのである。
――ボクは……誰だっけ?
そこにいる二人は自分に名前を呼んでくれない。すべて代名詞。だから、己の存在が深い底へと落ちいくのがわかった。思い出したくても、思い出せそうにない記憶。
誰かが助けてくれた、という記憶だけはまだ残っている。そんな誰かにすがり、助けを願い乞いたいのだが、どうしようもない。なぜならば、何もすることができないその人物は青色の魔法陣が描かれている黒い魔石の中に閉じ込められているからだ。
――誰か、助けて……。
その誰かは今、どこにいるのだろうか。閉じられゆく扉を見て――。
「ジャスティス」
そう口を開くのはジャスティスたちの目の前に現れた、異様な雰囲気のマリスである。このオーラはどこかで見覚えがあった。それはそう、『兵達夢跡』で見た彼女の幻影。あれは彼女の魔法で掻き消されてしまったのではないのか。
「お前、『兵達夢跡』にいた……」
「覚えてくれていたのか。あんなくだらない茶番劇を」
「返せよ」
幻影だとわかった瞬間に、低い声でマリスの体を乗っ取った彼女にそう言った。心なしか、珍しくも怒りの表情が見えている。いや、何もジャスティスだけではない。魔王とNo.Fも同様だ。彼らはこの事実を許しがたいと思っているのだ。
「あいつの体だろ、それ。マリスに返せ」
「それはボクに言っているのかな? それならば、意味がわからないことを言っているね。ボクこそが本物のマリスだ。これまでに見てきたマリスというのは偽者だよ」
その発言後、三人は動いた。ジャスティスと魔王は偽者マリスを斬る勢いで踏み込み、No.Fは背後に回って首を絞め出そうとしていたのだ。彼ら――特に魔王やNo.Fからにじみ出る思いからわかることは「肉体と魂を離れ離れにすること」である。
おそらく、マリスは肉体と魂を引きはがされて、この魂を入れられたに違いない。そう目論む。いいや、それで断言してもいいとジャスティスは確信を持っていた。忘れることはない、あの言葉。苛立つほどに覚えているあの発言。
【マリスを殺す】
再び、あの熱がたぎる思いである。まさか、本当にマリスを殺すとは思わなかったのだ。だからこそ、怒りは収まらない。
「ごちゃごちゃとうるせぇ。さっさと、マリスの体を返せよ」
こちらの方が複数で有利なのに対して、幻影は余裕の表情である。いかにも自分はどんな相手だろうが、殺されないとでも言っているように見えていた。
「何を言っている? ボクこそがマリス。この世からすべての人間と純粋な魔族を駆逐し、自分が掲げる理想郷を作り上げるために存在するこの世界の選ばれし者だぞ」
「なっ!?」
「所詮、『選ばれし者』として選ばれたジャスティスはただの捨て駒。このボクが本物の選ばれし者だ。だから、その席を退いてもらおうか」
幻影のその発言と共に、魔王にはクロウが。No.Fにはイーザが半人間の姿で攻撃を仕掛けてきた。
「すべてを支配するには、玉座に座りこけているあんたらが邪魔だ。退かないと言うならば、力ずくで押し退けるまでよ」
「貴様っ!!」
冗談じゃない、と魔王が声を荒げようとしたところなのだが、ジャスティスと幻影だけを残して、彼らはその場から姿を消してしまった。突然の出来事に、開いた口が塞がらないから唖然とするしかない。そんな彼にお構いなしとして、彼女は殺す気で首に向けて炎の剣を仕向けてきた。
とっさに白い剣で防ぐも、完全不意打ちだ。力負けして、近くの広間へと転がり込んだ。
「あの人たちをどこにやった?」
「そんなの、きみには関係ないじゃないか。知ってどうする?」
「……やっぱり、お前はマリスじゃないな。本物のマリスだったら、そんな返しはしないからな。お前、あいつに成りきれていないだろ」
癪に触ったらしい。炎の刃で突撃してきた。今度はもう、押し負けたりはしない。足に踏ん張りを利かせて、その真っ赤に燃え盛る剣を受け止めた。
「黙れ、死ね」
余程の苛立ちか。だが、これでわかった。この幻影はマリスになんてなれない。絶対に。いくら、体を乗っ取ったとしても、取り繕ったとしても、本物になれるなんて、できやしないのだから。だから、その『死ね』という言葉は受け入れるが――。
「じゃあ、お前も死ねばいい」
幻影を見るジャスティスの目はひどく冷たかった。




