ランプシェード・後編
ランプシェード・後編
イルゼ・コッホという女性がかつていた。ブーヘンヴァルトの魔女と呼ばれていた人物である。夫がナチス親衛隊の将校でブーヘンヴァルト収容所の所長をしており、彼女はそこに収容されていた囚人たちを好き放題に虐待していたらしい。戦後、彼女は何度も訴追されるが(夫は戦犯として死刑)、いずれも証拠不十分として釈放されるか証明された余罪で短期の懲役をうけるにとどまった(しかし、次第に精神不安定となり、彼女は1967年に自死している)。
彼女に関する有名な噂として囚人の生皮を用いてランプシェードを作成していたというのがある。ただし、今日に至るまで彼女の手によるという人皮でできたランプシェードが発見されておらず、事実として確認されてはいない。あくまで噂にとどまる。
学のない大吉はそういうことは知らない。人皮のランプシェードと聞いて何とはなしに通っていた高校の生物教室にあった人体標本を思い出したに過ぎない。大吉の母校は旧制中学の流れを汲み、大戦中、ドイツから女性の髑髏が標本として贈られていた(現在の人々から見ると随分と奇矯なことがあの大戦中にはしばしば行われている。ドイツでも日本でもアメリカでも。日本の軍医たちの間では中国戦線から持ち帰った髑髏を置物として飾ることが流行していた。また、学徒出の下級将校の間では軍刀に首を刎ねたことを示す筋をつけることが競争されていた……。それが狂気なのか。集団の異常心理によるものなのか。わからない。ただ言えることは、人間の心理など状況によって如何様にでも左右される、振幅の激しいきわめて不安定なものだということ)。
隆吉の言うような不審な出来事は一向に起こらなかったが、その代わり大吉は預かった日からなにやら奇妙な夢を見るようになった。
たとえば太った外国人の女性が「ウキヨエ。イレズミ。エス・イスト・シェーン(美しい)」と叫びながら大吉の衣服を剥ごうと迫ってくる夢だとか。ガラスの破片の散らばった街中を松明を持った褐色の制服の集団に追い掛け回される夢だとか。
あるいは大吉が大きな手にすっぽり捕まえられて部屋の中をグルグルと振り回される夢だとか(これなどは、単に大吉の寝相が悪く、夏布団を体に巻きつけてセルフ・ボンテージをしていたせいで見た夢であったが)。
まあ、散々であった。
そして、ついにはこんな夢まで見た。
「大吉や。大吉。起きるがよい」
大吉の枕元に怪しげな老人が立ち、声をかける。
「はっ!また夢の中で寝ている夢かいな。それにしても臭っさ。あのー。あんさん。ホームレスの幽霊さんでっか?」
「失礼な!わしはこう見えても仙人じゃ。最近の若者はどいつもこいつも。あのクソ生意気な女軍人を筆頭にして礼儀がなっとらん!」
「それはとんだ失礼を。すんません。でも、できればもうちょっと離れて欲しいんですが」
「……」
まあ、とにかく。
体の臭いに触れられて怒り心頭した仙人らしき老人が語るには、なんでもランプシェードには病気みたいなものがまとわりついているそうな。
「であるからして、わしがそれを取り除いてしんぜよう。ランプシェードをよこしなさい」
「いや。これ、預かりもんでっさかい、あんさんに渡すことはちょっと」
「……そう来るか。では、交換条件じゃ。代わりに酒虫をやろう。これでどうじゃ」
「いや。預かりもんですから」
「酒虫はいいぞ。これを体に飼えば仕事をしなくても酒が飲める程度に金が入ってくる究極のニート・ツールじゃ」
「いや。わし、酒屋やし。ニート違うし。下戸やし。そんなもの、もろても意味がない」
「なんと欲の深いやつ!それなら玉手箱でどうじゃ。究極のハーレム体験をした証拠として友達に自慢できるぞ」
「いや。それもいりまへん。実用性ゼロなうえ、小春(大吉の妻)に見つかったらどやされますさかい」
「強欲だぞ!くっ。ならば情報ならどうじゃ。あすの夕方、四天王寺の門の前で立つとできるおまえの影の頭の部分を掘り返すと金銀財宝がざっくざく」
「杜子春でっか。今日日、掘り返すと普通に訴えられまっせ。公道なら道交法違反で検挙!」
「……」
「なんや微妙なもん、ばっかり。これ、もしかして詐欺?」
しばし沈黙した老人が再び口を開く。
「……わし、仙人で偉いよね。それに比べておまえさんは一般人。ということは、別におまえさんの承諾なくしてもらっていっても問題なし。そういうことで、早速、むにゃむにゃむにゃ」
「ああ!中国の官憲みたいに何たる横暴!あっ。中国の仙人さんやったか」
大吉が唖然としているうちに老人は懐から瓢箪を取り出しなにやら呪文を唱えた。すると、ランプシェードから黒いモヤモヤしたものが浮かび上がり老人の持つ瓢箪に吸い込まれていく。
「ミッション・コンプリート。今回はこのくらいにしておいてやろう。じゃあ、大吉よ。バイバイ。再見!」
「いや。二度と来るな。臭いし」
老人が満足気にドロンと帰っていったところで大吉は目が覚めた。
「起きた?(目覚めたところを)悪いけど。ゴミ出し、忘れてはるよ」
台所から小春の声がかかる。
「あっ。ハイハイ。今から出してくるわ。それにしても今回もろくな夢見でなかったなあ」
大吉がのろのろと寝床から起き上がる。
5時起床。
こうして大吉のなんの変哲もない日常がまたはじまる。
ところが。
翌日の夕方、隆吉から電話があった。
「叔父さん。すまん。
イタリアの友達から電話かかってきたんやけどな。友達が言うには、スイスの銀行が大戦中に預けられた秘密金庫の中身を公開して処理することになったんやて。そやから前に預けたランプシェード、一文の価値もなくなってしもうた。
えらい騒がせたけど、結局、なんもならんかったわ」
「隆吉くん。学のない叔父さんにも分かるよう説明したってくれへんか。その言い草では幽霊や呪いなんて関係あらへんやんか」
「えっ。僕、まえにそんなオカルトちっくなこと言うとったかいなあ。いや。言うたおぼえあらへんけど。
まあ、ええわ。叔父さん。
つまりですなあ。そのランプシェードには秘密金庫の番号と金庫開けるサイン入りの要請書が隠されとったわけですわ。しかし、スイスの銀行が公開して処理するいうことは、銀行が調査して認めた遺族かその他の正当な権利者以外は秘密金庫の中身に手を出されへんようになってしもたいうことですわ。そやから、もうランプシェードの要請書持って行っても引き出されへん、ランプシェードの価値も当然ゼロになったということです。
わかってくれました?叔父さん」
「なんや薄っすらと分かった。まあ隆吉の持ってくるような話や。もとから粗忽な話になるやろうと思とったわ。案の定やな。
ただそうなると、腑に落ちんのはイタリアの友達や隆吉のまわりで起こったという不審な出来事のことや。一体、なんやったんやろうな?」
「ああ、それね。叔父さん。
金庫の中身が強制収容される前にユダヤ人が必死になってかき集めた大量のダイヤやったから、そのダイヤ欲しさにランプシェード持っているひとに脅しをかけていた人間がいたいうことですわ。僕も車やホテルの部屋のドアにメモ書き忍ばせたりされて往生しましたわ。結構ね」
「隆吉はそないな危ないもん、わしに預からせたんか。わし。ちょっと君との関係を考え直したほうがええかもしれんな」
「わっ。叔父さん、そない怒らんと。僕にも茨木の田舎まで脅しに来るような奴はいないとの目算があったから預けたんですよ。実際、脅しかけられるようなことなかったでしょう?
叔父さん、聞いてはりますか……」
プツッ。
大吉はアホらしくなって電話を切った。
まあ、それでも。
面の皮の厚いあいつのことやから来年の夏もきっと間抜けなドイツ土産持って来るんやろなあ。
ああ、しょうもない……。
白けた目で大吉はランプシェードをそっと指で弾いてみせた。
後日、また隆吉から電話がかかってきた。イタリアの友人からランプシェードの返却は不要とのこと。
そういうわけで、いまだに大吉の家にはランプシェードが飾られている。
すみません。ホラーとは言いにくいお話になりました……。




